寮の自分の部屋から、外を見た。
世界に闇が下りる直前の、空にほんのひとときしか現われない鮮やかな紺色が、アユミは好きだった。しばらく眺めてから、カーテンを閉めて蛍光灯をつけた。そろそろ文字が読みにくくなってきた。
今日の復習を再開した。巡視で授業に出られなかった「英語」と「東洋魔術概論」が中心だ。教科書だけでは理解が難しいところも多い。とくに魔術関連は、ふつうの学校では扱わない科目である。中学校までの積み重ねがない。
控えめなノックの音が鳴った。
「ただいま」
「お帰りなさい、キョウコさん」
アユミは立ち上がってルームメイトを迎えた。
帰ってきたキョウコは、教科書やプリント類で埋まったアユミの机を見るや否や、感嘆とあきれが混じったため息をついた。
「衛士団って大変ね。仕事のせいで毎日、自学自習。わたくしには真似できないわ」
「自分で選んだことですから」
アユミは微笑んで応えた。
心から勉強が好きというわけではなかった。だが、学院に進むというわがままを聞いてくれた両親のためにも、学業をおろそかにはしない。堂々と衛士団に属していたいのだった。
「ねえ、アユミさん」と、キョウコが訊いてきた。「これから先輩のお部屋でお茶会が催されるの。いっしょにいかが?」
「お茶会、ですか」
初めて聞く外国語みたいに、アユミはその単語を舌に乗せた。
アユミにとって学院生活でのカルチャーショックは無数にある。前時代的な数々の風習も、そのひとつだった。
現代のトーキョーである。高い壁に囲まれたゲオルギウス学院だって、世間からまったく隔離されているわけではない。雑誌も購買部で買える。テレビも観られる。休日の外出許可をあらかじめ申請しておけば、ハラジュクにもダイカンヤマにも遊びに行ける。
しかし、流行のファッションやスイーツ以上に、懐古趣味の優雅なイベントが、学生たちの娯しみとして現役で息づいているのだった。
夜のティーパーティ。幼いころに読んだ外国の童話に出てきた気がする。
「いえ、わたしはいいです」
反射的に、そう答えていた。
「いいじゃない、たまには休息も必要だわ」
キョウコはなおも誘ってくる。
迷いが生じた。罪悪感も。右も左もわからないアユミに、キョウコはいろいろと気を配ってくれる。嬉しく思っている。ルームメイトが示してくれる親愛の情には、快く応えるべきではないだろうか。
ふと、昼間のことが頭に浮かんだ。庶民の女。お飾りの衛士。キョウコは断じてそんなことは言わない。なのに、キョウコと話していて、あのカズヤの言葉が思い出されたのはなぜだろう。
「――せっかくですけど」
と、アユミは言った。
「明日は古文の発表が当たっているので、その予習もしておかないと」
「そう。残念ね」
キョウコは表情を曇らせたが、すぐ笑顔を取り戻して、
「また別の機会にね。皆さん〈王子さま〉とお話ししたがっているの。本当はわたくしが独り占めしていたいのだけれど」
「あの、わたしのどこが王子さまなんでしょうか」
「アユミさんには王子道について一度じっくりと教授して差しあげます」
「お、おうじどう、ですか」
今度は比喩でなく、間違いなく生まれて初めて聞く単語が登場した。
「いえ、待って! 知らなくていい、濁る。知ると濁る。いいの、ごめんなさい、忘れて。アユミさんは純粋な、そのままのアユミさんでいてちょうだい……」
何やら激しく煩悶するキョウコに、アユミは「はあ」としか答えようがなかった。
「そろそろ行くわ」と、落ち着きを取り戻したキョウコが言う。「消灯時間を過ぎてしまうかもしれないけど、見逃してね」
「わたしからは何も言えません。部屋のカギをかけ忘れるかもしれないけど」
「まあ、無用心な衛士だこと」
キョウコは「うふふ」と甘く笑った。アユミも笑い返した。
わたしだって普段きちんとしている人にならこのくらいの融通はきかせます、と言いたい。約一名に。
「無理しすぎないでね。では、ごきげんよう」
この学院でしか聞いたことのないような挨拶を残して、キョウコは部屋を出て行った。
アユミは机に向き直った。
一瞬、風が胸を吹き過ぎた。
自分は間違った場所に来てしまったのではないか――そんな憂いが、一瞬だけ沸いたけれど、たちまち消えていった。仮にそうだとしても、わたしはここで今、わたしにできることをやっていくのだと、アユミは己に言い聞かせた。
二時間ほど、集中して勉強した。
さすがに疲れた。肩を回す。眼鏡を外して、目薬を差す。
廊下から小走りの足音が聞こえてきた。もうお茶会がお開きになったのだろうか。
違う。
キョウコの歩幅ではないと、アユミの耳は聞き分けた。
ごんごん、とノックがドアを鳴らした。
「失礼します。アユミさんはおられますか」
アユミは眼鏡をかけた。この呼びかけ方は、衛士のそれだ。
果たして、アユミが開けたドアの先にいたのは、帯刀した中等部の女生徒だった。今日の伝令係だ。
「ただちに本部まで」
「了解です」
アユミは机のかたわらに立ててあった愛刀をつかんだ。
これが必要な事態が発生したのだと、まだあどけなさの残る団員の緊迫した表情が告げていた。
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