「大変だな、衛士は。恐れられ、疎まれるような存在感が必要でもある立場だ」
隣に座るトーマの言葉に、アユミは「うん」と応えた。
正直に、遠慮なく、そう言える相手だった。
「だが、やめようとは思わないのだろう」
「そうだね。わたしもトーマくんと同じ――って言ったらおこがましいけれど」
「そんなことはない。話してくれ」
「わたしも、自分が強くなることだけを目標にはできなくなってきたから。剣を遣えるってことは、別に偉いことでもないし」
「凄いことを言う。明鏡流が否定されたか」
「違う、違うの」
トーマの和らいだ表情から、冗談であることはわかる。それでも兄弟子にそんなことを言わせてしまい、アユミは慌ててかぶりを振った。
「わたしと同じくらい剣を遣える人はいくらでもいる。どうがんばったって、わたしが世界一の剣士になることはないと思う」
そんなことないさ、とトーマは言わない。
「俺だって、そうさ」
こう言う。そういう人だから、アユミはトーマを信頼しているのだった。
もっとも、トーマはもしかしたらその領域へと至るのではないかと、アユミは本気で思っているのだけど。
「わたしはなんのために剣を振るうんだろう。振るう資格があるとすれば、それはなんだろう。トーマくんが学院に行って、師範が亡くなって、あのことがあって――その間、ずっと考えてた」
「アユミ」
「うん」
「本当は、明鏡流は重荷か」
「そんな!」
思わず声が高くなった。今度は、冗談ではなかった。本当にトーマを案じさせてしまった。
「そうじゃないよ。わたしの言葉が足りなかったかな。そうじゃないの。明鏡流のことは大好きだよ。明鏡流を究めていく喜びは、他の何にも換えられない」
でも、と、アユミは懸命に説明する。「トーマくんも、それだけじゃいけないと思ったから、学院の剣道部に入ったんでしょう」
「そうだな――そうだ。アユミも、俺と同じか」
トーマが得心したようにうなずいて、アユミは気持ちが伝わったことに安堵する。この人に誤解されたくはない。
「じいさんが亡くなってから、もうすぐ三年か」
感慨深げにトーマが言った。
「早いね」
アユミは師範――トーマの祖父の、皺だらけの顔に浮かぶ穏やかな表情を思い出す。
*
明鏡止水。
鏡のように曇りなく、水のように澱みなく、平静な心境のことを言う。
明鏡流の名前の由来である。
創始者の征二=ザウエルは、享年百三十七歳。人間としては異常な長寿であった。
亡くなる寸前まで矍鑠としていて、自ら門弟の指導にあたっていた。
セイジは若いころ、軍隊にいた。一切の火器を無効とする魔術障壁も、達人の思念を篭めた一刀で破れることがある。武術家は〈大戦〉で重宝されたそうだ。
〈戦前〉の兵士は〈旧魔術〉によって、さまざまな強化処置が施されたという。疲れないように、眠らないように。手足がちぎれても痛みを感じないように。死ぬことも、殺すことも厭わないように。
その副作用で、短命になった者もいれば、セイジ曰く「死にたくてもなかなか死なん、因業な身体」になった者もいた。師範は後者だったわけだ。
――争いはいかん。退屈なくらい平和なのが、いちばんいいんだよ。
そんなことを言って、いつも物静かに笑んでいる老人だった。
アユミが知るセイジの様子からは想像しがたいが、セイジは〈大戦〉で、実に多くの敵を斬ったという。
英雄だ。軍の上層部に残ることもできた。連合国の人間も、セイジの剣術には興味を示していたらしい。
だが、セイジは栄誉を捨てて下野し、明鏡流を作った。
やむを得ないことであったとしても、人を殺すために剣を振るったことを後悔して、今度は人を守ったり育てたりするための剣を究めることを志した――
その明鏡流の成り立ちが、アユミは好きだった。
嫌気が差して剣を棄てる選択肢もあっただろう。しかし、セイジは自分の剣から逃げなかった。剣で犯した罪を、剣で償う道を進んだ。
そんな明鏡流に、アユミは惹かれた。
護身術のひとつでもと道場に通わせた両親が、娘の入れ込み具合をかえって心配するくらいだった。
武道はどうしても、ある段階より先は、理屈を超えたものが求められる。言語だけでは伝え切れない、果てしない稽古の果てにしか辿り着けない境地が、確かに存在するのだ。
精神論に凭りかからず、よりよい方法を論理的に模索することは大切だ。しかし、近道を探してはいけない。
アユミには、それができた。
できたかどうかはわからないが、やろうとした。
自分に何か才能らしきものがあるとすれば、言われたことをよく考え、その通りに稽古し続けるという、ただその一点しかないと思う。
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