「行こう、アユ」
何ごともなかったかのようにトコトコと歩き出すユキトに「何ですか、あの人たち」とアユミは訊いた。
古式ゆかしき学校ではある。だが、あそこまで差別的な態度を剥き出しにする者に遭遇したことはなかった。これまでが幸運だったのだろうか。
「個人的に、衛士団を恨んでいるようでしたが。本当に覚えていないんですか」
「うん」
即答だった。少しでも思い出そうとする気はないらしく、
「俺たち、出席日数が関係ないじゃん。自動的に進級できるのが羨ましいんじゃないかな」
実にスケールの小さな理由を、真剣な顔で挙げてくる。
衛士に任命された者は、授業の欠席がいっさい数えられない。極端な話、一度も出席しなくても卒業できるのだ。ただし、試験はふつうに課せられ、採点も通常の基準で行なわれる。学院を護る任務で忙しいのは考慮するが、自学自習で補ってもらうということだった。
基本的にゲオルギウス学院は入るのも出るのも難しい学校なのだ。素行や成績に問題がある生徒は、初等部のうちから容赦なく落第させる。
「たぶん、その理由じゃないと思います」
「どうして」
「だってユキトさんは進級できてないじゃありませんか」
ユキトはアユミから顔を背けて両耳を手で塞いだ。
「前を向かないと転びますよ」
「アユはどんな角度からでも俺を言葉で斬り刻んでくるから凄いよね」
顔を戻した団長代理がどんよりした目でアユミを責めてくる。
本来なら、ユキトはロウと同じ十一年生だという。しかし、実際は十年生である。制度の上ではアユミの同級生なのだった。
「しょうがないよ、俺バカだからさー」
たちまち気持ちを切り替えたらしく、ユキトは高らかに笑った。
「初等部のときが、俺の人生でいちばん頭がよかったんじゃないかなー」
「そうなのでしょうね」
「否定しなよ。でも、さっきのあいつはまちがいなく俺よりバカだな」
アユミと小競り合いになった大柄な男のことだろう。「アユを挑発するなんて神も恐れぬ蛮勇だよ。怖かったなー、アユのあの目」
「忘れてください……」
アユミだって、他人にあんな形で侮られるのは好まない。ぶつかってくるのをかわすだけでは済ませられなかった。
「ところで、それ。その変な金具」
ユキトはアユミの刀を指さした。
鍔と鞘を留め金で固定して、外さないと鯉口を切れないようになっている。
「あいつを抑えるくらいなら抜くまでもないけどさ、もっと強いやつにいきなり襲われたとき、危ないじゃん。要る、それ?」
留め金を外すこと自体は簡単だ。拳銃の安全装置のようなものである。だが、そのひと手間が命取りになり得るのは、ユキトの指摘通りだった。
「要るんです、わたしには」と、アユミは答えた。「むやみに抜かないために」
もっといろいろ訊かれるかと思ったが、ユキトは「ふーん」と言って、それ以上は追及してこなかった。
「まあ、そのストッパーがないと、なんかの弾みで俺も斬られちゃうかもしれないな」
「そうですね。ユキトさんがあまりにも不真面目で、カッとなってつい――」
「だから否定しなよ」
それ以上、特筆すべき出来ごとはなく、アユミとユキトは衛士団本部の近くまで戻ってきた。
「楽しかったね、さ――巡視」
「散歩って言おうとしましたね」
「してない。ぜんぜんしてない」
ユキトはぷるぷると首を振った。
「じゃあアユ、ソフトクリーム」
「行きません」
「もう巡視は終わりじゃん。冷たいよ。甘いよ。いっしょに食べたらおいしいよ」
「日誌に巡視の記録をつけなきゃいけないでしょう」
「アーユ、アーユ、アーユ」
コールは手拍子つきだ。
「人を魚みたいに呼ばないでください」
「もういいよ。焼かれて食べられちゃえ。もうすぐ旬の季節だし。アユの塩焼き……おいしいよ……トーマくふぅーん」
「ちょっ! 最後のそれっ!」
べろーんと舌をだして駆けだすユキトを、よほど追いかけてとっ捕まえようかと思ったが、同じレベルに堕するのが嫌でやめた。どうせ誘うなら、日誌を書き終えるのを待つくらいの心遣いはないのだろうか。
「きゃあ、ユキト先輩!」
「お仕事、お疲れさまです!」
ユキトとすれ違う中等部の女子たちから淑女らしからぬ歓声が上がる。
走りながら「ありがとー」と手を上げて応える、およそ品位とか威厳という言葉とは無縁のこの少年を好ましく思う者は意外と多いらしいと、アユミが気づいたのは最近のことだ。
規律だらけの全寮制の学校で暮らすみんなにとって、自分たちの代わりに自由を表現してくれる息抜きのような存在なのだろうか。アユミにはひたすら心労の種でしかないのだが。
*
本部に戻ったアユミは、長髪の男についてロウに報告した。
「和哉=シルトか」
「ご存知ですか」
簡単な説明で、副団長はすぐに思いあたったらしい。団長代理の貧弱な記憶力をアユミは恨んだ。
「十一年生。不良グループの主格だ。学院の不良など、ウエノやシブヤの連中に比べればたかが知れているが」
昨年、衛士団の入団試験を受けて、不合格になった。剣の腕前は水準に達していたが、性質の面で難があったという。
アユミは納得した。あんな価値観の持ち主に衛士という特権を与えるのは危ない。しつこく口にしていた衛士への蔑視と敵意は、自分がそれになれなかった反動か。
「放っておけ」
そっけなく言うロウは、アユミと話しているあいだも書類の処理を止めない。副団長の激務で、ほとんど授業には出られないが、試験の成績はつねに上から数えた方が早い順位だという。
「ユキトが相手にしないのは、その程度の存在だからだ」
「そうでしょうか」
ロウは、書類を机に置いた。
猛禽のような目に映されて、アユミは背すじをこわばらせた。
「信用できないか」
「いえ、それは――」
信用できないとは、ユキトのことか、それともロウのことを指しているのか。どちらにせよ、アユミが肯定の返事をできるはずがなかった。
決して、部下を頭ごなしに押さえつける幹部ではない。些細な話もきちんと聞いてくれる。そのロウが、安易な反論を許さない気配を放ってくる意味は大きかった。
「ただの戯け者を団長代理にするほどゲオルギウス衛士団は甘くない。心配するな」
「副団長、こちらの件ですが――」
別の衛士がロウに何か尋ねてきた。アユミは敬礼をしてロウのもとから離れ、平の団員の机に就いて、日誌を書き始めた。
ロウが言うのなら、間違いないとは思う。しかし、心配しなくていいだけのものをユキトからまだ見せてもらっていないのも、アユミの偽らざる本音だった。
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