アユミの素直な真摯さを、セイジ師範は剣にふさわしい資質だとみなしたのだろう。
十一歳のとき、大人の高弟たちに混じって、アユミは明鏡流の奥義を学び始めることが許された。
それは身体で究める学問だった。
いかに相手を無傷で倒すか。逆に、いかに致命傷を負わせるか。なにげない一挙措、一挙動に、双方の思想がまんべんなく篭められている。無意味なものは一切ない。
剣とは活法であり、同時に殺法でもあった。
ひと太刀浴びれば、一瞬で死んでしまう。それを防いで生き残るのも、また一瞬の出来ごと。
生から死へ、死から生へと、絶えず往還する。
だから、剣とはつまり――
「――生きるということの凝縮されたかたちだと思います」
と、アユミは言った。「師範に『アユミにとって、剣って何だね?』って訊かれて、そんなふうに答えたことがあったの」
「師範はなんて言ってた」
トーマは興味深そうに目を輝かせる。
「『それがわかるなら、アユミはもう立派な剣士だよ』って」
「すごいな。師範は人を貶さない代わりに、褒めることもめったになかったぞ」
「あきれられたのかも。『本当にわかってるのか?』っていう意味じゃないかな」
でも――とアユミは続けた。
「師範はそんな私にも、いつもやさしかった。トーマくんも」
「そうか?」
トーマは困ったように自分の顎を撫でた。「厳しいことも言ったと思うぞ。言葉が足りなかったり、言い過ぎたり」
「そうかな」
そうやって考えてくれることを、やさしいって言うんだよ――
アユミは言った。胸の裡で。実際に口に出すのは、変に褒めすぎるみたいで、何となくためらわれた。
真の明鏡流を学ぶのは、アユミが最年少だった。
トーマ以外の高弟たちは、二十代から七十代と幅広い年齢だが、アユミにとっては全員大人だった。みんな、決してアユミを軽んじなかったが「子どもの相手をする」という気遣いはあった。それが悪いことでは全くないのだが。
やさしさも厳しさも真っ直ぐに注いでくれたトーマが、アユミにはいちばん身近な存在だった。トーマが学院に移り住んでからも、それは変わらなかった。
*
「腕力はなくてもいいって言っているだろう」
さすがのトーマも少し言葉を荒げたが、アユミの感情は収まらない。
「でも、いつか男子には勝てなくなっちゃうかも。それじゃ意味がないよ」
中学一年生のアユミは、眉を八の字にして、しつこく訴えたものだ。
休暇でトーマが帰省してくるたび、アユミは喜び勇んで稽古をねだった。トーマは快く応じてくれた。
しかしこのとき、アユミは行き詰まっていた。
鍛えても鍛えても、成果が出ない。そんな停滞の時期があって、あるときふと、自分がひとつ上の段階に昇っていることを自覚する――それが成長なのだと今はわかっているが、当時は本当に耐えがたかった。
「もちろん筋力があるに越したことはない。でも、絶対的な条件じゃない」
「そうだけど!」
八つ当たりなのはどこかで自覚していた。アユミを蝕むのは、自分に対する不安だけではなかった。アユミの目が届かない世界で剣道部の育成に没頭し、ますます大人びていくトーマに、置いていかれるような心地がしたのだ。
「アユミみたいなやつが、いちばん強くなる可能性があるんだぞ」
それでも、トーマは辛抱強く説いてくれた。「中途半端に腕力があると、それに頼って自己流で技が固まってしまう。剣道部でもいちばん苦労するところだよ。自分が遠回りしていると感じるか? でもアユミは、師範や師範代たちのいうことをよく聞いてきた。王道を進んでいると俺は思う」
言われていることの意味は理解できる。だけど、それは建前であり、きれいごとであるようにも思える。
アユミの感情は、アユミをうなずかせてくれない。
唇を噛むアユミに、トーマが近づいてきた。
え、と思っているうちに、トーマはアユミの両肩に手を乗せ、真剣な表情の顔を寄せてきた。
わっ、と小さく声が洩れてしまった。
目が合うのが気恥ずかしくて、灰色の髪や、喉のあたりに視線を散らせる。
「アユミ」
「な、なに」
「耐えろ。そして、考えろ。アユミは考える時期に来たんだ」
「考える……?」
「明鏡流の技は、正しくアユミの身についている。次は、正しい遣い方だ。それが剣士だ――」
ふと我に返ったように、トーマはアユミから手を離した。
「すまない。肩、痛かったか」
「ううん、大丈夫」
肩よりも、心臓が痛かった。理由はよくわからない。だが、その痛みが、アユミの感情を徐々に鎮めていった。
「正しい技を正しく遣う。そうすれば腕力や体格は関係ない。剣士に本当に必要なものは、それができる正しい心だけなのかもしれないな」
遠くを見通すような、あるいは自分の内側を凝視するような――ここではない場所を映す目をして、トーマはそう言った。
言葉はもちろん、そのまなざしが、アユミの記憶に強く刻まれている――
*
「正しい心で、トーマくんは全国大会へ進むような剣道部を作り上げた。師範と同じ道をしっかり歩んでいる」
だがアユミは、自分にそうやって人を導いていく力はないと思う。ならば――
「わたしは、この剣で人を護れたら、と思った」
シンバシ駅で幼いアユミを助けてくれた、あの〈少女〉のように。
「衛士になれたら、わたしの剣にも意味が生まれると思った。不純な動機かもしれない、ただの自己満足なのかも――」
「それでいい」
アユミの言葉を遮って、トーマは力強く言った。
「剣が好き。人を護りたい。だから衛士になった。それでいい。今のアユミはたぶん、考えるより、また無心に動く時期に来たんだろう。深く悩みすぎるな」
「そう、かな」
「団長代理から学ぶのは、そういうところじゃないか」
「ええ……?」
アユミは顔をしかめた。「ユキトさんは悩まなさすぎる」
あの〈少女〉とユキトは、もはやアユミにとって別の概念と化している。
苦笑して、トーマは立ち上がった。
「刀、触っていいか」
うなずいて、アユミは愛刀を差しだした。
受けとったトーマは、鍔にかけられた留め金に目を落とした。
アユミの心臓が、きゅっと縮んだ。
「まだ、あのことを気にしているのか」
いたわるような、責めるような――トーマには珍しく、不協和音を含んだ声だった。
「そういうわけじゃないけど――ううん、そういうことだね」
アユミは言い直した。剣に関して、トーマを相手にごまかしはきかない。
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