今日はまあまあ平和だった。
事件らしい事件と言えば、ハママツチョウ駅を巡視中に不審な動きをしている男たちがいたので声を掛けたら、無礼な言葉で脅してきたりむやみに身体に触れてきたりしたため、やむなく五人全員を制圧したところ、禁制の魔術植物であるマンドラゴラの粉末を所持しており、警察に身柄を引き渡したことくらいだ。
彼らは他の地区からトーキョーに羽目を外しにやってきた観光客であり、ミナト区で灰色の制服を着て刀を下げた女子学生がいったい何者なのか、誰ひとり思い至れなかったのが不運であった。マンドラゴラはシブヤあたりで密売人から購入したのだろう。
ゲオルギウス学院の衛士団本部に戻って、そのことを日誌に書いている亜弓=ヴェルノを、
「アーユー」
間延びした声が呼んだ。
「すいません、ユキトさん。お待ちください」
日誌から目を離さず応えて、アユミはペンを走らせ続けた。どうせ「そんなもの後回しにして遊ぼう」とか何だとか、仕事を妨げることしか言わないに決まっているのだ。
「アユ、真面目な話なんだけど」
アユミはハッとして顔を上げた。
事務室の奥の席に、金髪の少年が座っている。
雪都=シュッテンの、たいてい呑気で無邪気な微笑みを浮かべている童顔が、今は珍しく団長代理の肩書きにふさわしい表情で占められていた。
「失礼しました」
アユミはペンを置いて席を立った。
「ヒトシも来て」
「はい! ユキトさん、今すぐ!」
別の書類仕事をしていた赤い髪の少年が、アユミよりも早くやって来た。飛年=リビングストンは、アユミの五百倍くらいユキトを尊敬しているので、呼ばれれば何を措いても馳せ参じる。
アユミとヒトシは気をつけの姿勢で、ユキトの言葉を待った。
「前から、ふたりに訊こうと思ってたことがあるんだよね」
「な、何でしょうか」
ヒトシが顔をこわばらせる。
普段はとにかくふざけたことしか言わないしやらないユキトが、緊急事態でもないのにこれほど真剣な様子なのは、アユミにも緊張を与えた。
他の衛士も幾人かいる事務室に、静けさが降りた。副団長の朧=クライン=タブも、仕事の手を止めてこちらを見ている。
ヒトシの唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。
「――ユキトさん」
たまりかねて、アユミのほうから尋ねた。「わたしたちが、何か間違いをしたでしょうか」
「間違いっていうか、アユとヒトシの、衛士としての心構えの問題かな」
「おっしゃってください。どんな厳しいお言葉も受け止めます」
アユミに次いで、ヒトシも「自分もです!」と意気込む。
「これから精進しますので、ぜひユキトさんのご指導を!」
「うん、わかった。じゃあ訊くけど」
射るようなまなざしをアユミとヒトシに向けて、ユキトは言った。
「ふたりはなんで俺のこと『ユキトさん』って呼ぶの」
「へっ?」
ヒトシの口があんぐりと開き、
「はい?」
アユミの眼鏡が鼻先までずり落ちた。
「だってロウのことは『副団長』って呼ぶじゃん。かっこいい」
ユキトは口を尖らせて、ロウを見やる。「代理だけど団長だよ、俺。団長って呼んでもいいんじゃないの」
「そうですね――言われてみれば不思議ですね」
アユミは眼鏡の位置を直した。
「当然のようにユキトさんとお呼びしていました。ね、ヒトシくん」
「はい! 自分も親しみを篭めさせていただいて」
「副団長のことも、当然のように副団長と。それはやはり、肩書きにふさわしい人は、周囲が自然とその肩書きでお呼びするようになるということでは。ね、ヒトシくん」
「は――いえいえいえアユミさん、それは誤解を生む言い方でしょ!」
「誤解とは?」
「だってそれじゃ、まるでユキトさんが団長代理に、その」
「それのどこに誤解が?」
「アユミさん?」
ヒトシの顔がどんどん死体の色になり、ユキトはため息をつく。
「アユは正直すぎてこの現代社会でまともに生きていけるのか俺は心配だよ」
「失礼ですが、それをユキトさんに言われると腹が立ちます」
「はいそれ! 正解! ヒトシはともかくアユは俺に失礼すぎない? 衛士は強ければいいってもんじゃないぜ」
それもユキトに言われるのは心外だというのが偽らざる感情ではあったが、指摘そのものは、アユミを考え込ませた。もともと、幼いころから剣術道場で鍛えられた人間だ。本来のアユミは上下関係を重んじるほうなのだ。
立場が人を作る。
尊ばれることで、そうされるのにふさわしい振る舞いを備えた人になる。
そういうことはある。
「わかりました。これからは団長代理とお呼びします」
アユミは言って、ヒトシと共に頭を下げた。
その翌日にユキトが「やっぱり、それやだ」と言い出して、ヒトシの口があんぐりと開き、アユミの眼鏡が鼻先までずり落ちた。
「なぜですか、団長代理」とヒトシ。
「よそよそしくて寂しい。もっと俺と仲よくしろ」
そんなことを言って、ユキトは頬を膨らませる。
「団長代理が自分で言い出したことですよ。それをたった一日で」
「特にアユ」
「な、何がですか」
「アユからは俺への尊敬がまったく感じられない。カタカナでダンチョーダイリって言ってる」
「それは団長代理の偏見です」
「あと、団長代理って必要以上に言いまくることで『それらしく真面目にしろ』っていう厭味な圧を感じる」
「それは――」
なくもなかったので、返答に詰まってしまった。
「アユ、アイス食べに行こう? いけませんダンチョーダイリ! アユ、この書類のどこにはんこ押したらいいんだっけ? ダンチョーダイリなのにそんなこともわからないんですかダンチョーダイリ!」
自分の台詞はホワホワとしおらしく、アユミの台詞はキンキンと責めるように、巧みに声色を使い分けるユキトである。
「俺は疲れたよ。なあロウ、後輩から先輩への逆パワハラっていうのもあるよね。どこに訴え出ればいいんだろう」
「学生間のトラブルは衛士団に申し出があれば直ちに調査する」
傍で聞いていたロウは、淡々と答える。そんな質問に答えないでください副団長、とアユミは胸の裡でつぶやく。
「というわけだ。アユ、それなりの処分は覚悟しておくんだね。ふっふっふ」
「わかりました、ユキトさん。今まで通りにします。それでいいんでしょう」
アユミは諦めたように言った。
ユキトの瞳が輝いた。
ヒトシも顔を紅潮させて、「自分は正直言って、ユキトさんを名前で呼べることが嬉しいです」
「ヒトシっていいやつだなー」
「そんな、とんでもない!」
「やっぱり目先のかっこよさより、俺たちらしいかどうかだよねー」
「おっしゃる通りです、ユキトさん!」
「ヒトシー」
「ユキトさーん」
男子ふたりの謎の馴れ合いを聞きながら、アユミの脳裏に「無」の一文字が明滅する。いったい何だったのだろう、ユキトの要求は。
衛士団は今日もまあまあ平和だった。
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