水を汲み、電気ケトルのスイッチを入れ、お湯が沸くのを待ち、その間に取っ手つきの紙コップとティーバッグの用意をし――。
その間、私たちはひと言も会話を交わさなかった。
円城茜はただ静かに優雅に、パイプ椅子に座っている。
そうして私は円城茜の分のアールグレイを淹れた。
狭い部室にベルガモットの香りが広がる。
ティーバッグを紙コップに入れたまま、私はテーブルに紅茶を出した。
「ありがとう」
私の紅茶は半分ほどを残して、冷め切っている。
それを、少しだけ飲んだ。
円城茜は、ティーバッグから紅茶がゆらりと染み出すのをじっと眺めている。
紐をクイクイと引っ張って、さっさと抽出するタイプではないらしい。
そうだと思った。
ちなみに、私は3分間きっちり待つタイプだ。
この気の長さも、不良をやるには向いていない。
「好きな濃さになったら、ティーバッグはそこのゴミ箱に捨てて」
「ええ」
円城茜の紅茶が完成するまでが、たぶんふたりの空気が耐えられるタイムリミット。
私はそれまでに“段階”というのがいったい何なのか、答えを出さないといけない。
プラスチックの時計の針の音が、いやに大きく聞こえた。
「………………」
円城茜は紅茶の水滴をポタポタ垂らしながら、立ち上がってティーバッグをゴミ箱に捨てた。
床はコンクリートだから、気にすることもない。
スカートの後ろを撫でながら、円城茜はそっと座る。
私のすぐ隣で、パイプ椅子がキシリと音を立てる。
もう何かを口にしなければ――空気がねじれてしまいそうだった。
「段階というのはさ……ひとつひとつ、あって」
私は汚れた窓を眺めながら、少しずつ言葉を紡いでいった。
「たとえば下の名前で呼び合ったりとかさ、手を繋いだりとかさ。私だって詳しいわけじゃないけど、ないけどさ」
円城茜は黙って私の話を聞いている。
私は冷たい透明な光線みたいなものが、自分を貫くのを感じていた。
それは円城茜の視線なのか、それとも彼女が存在しているということ自体から発せられる何かなのかは、よくわからない。
「他にもデートしたりとかして……ともかく時間が必要なんだよ。いきなりその、キスするとかは、ダメなんだよ」
私は何を根拠にして、こんなことを言っているんだろう。
なにか教師じみたものを自分に感じて、それがイヤだ。
でも、相手が気に入ったからっていきなりキスするのは間違いだってのはわかる。
相手が受け容れたとしても、それは何かとても汚いことに繋がっている。
円城茜をそういう空間の一部にしてはいけない、と思う。
当の本人はというと、指を折りながら私の言った言葉を繰り返していた。
「名前、手を繋ぐ、デート……それからなのね」
「そんな安直でもないよ、たぶん」
今まで言ったことがパーになるような、なんだか変なまとめ方をしてしまった。
何かを教えるのって、たぶん私は苦手なんだ。
でも安直じゃないのは確かなことで、安直じゃないからみんな悩んだり喜んだりしてるんだと思う。
そういうのはたぶん、私の知ったことではないけれど。
円城茜は、静かに紅茶を飲んだ。
紙コップを、テーブルの少し奥に置く。
それから円城茜の手は、するりと動いた。
温かい右手が私の手首を掴んだ。
紅茶で温められていたのだろう――この前は、冷たかったから。
同じ温度の電気みたいなものが、首筋まで走った。
「………………!」
手首を掴まれた手の甲を、円城茜の左手がそっと包んだ。
こちらは、前と同じで冷たかった。
私よりも少し大きい手。
なんてほっそりと、白くて、長い指なんだろう。
円城茜を横目でちらりと見ると、彼女はまっすぐ私たちの手に視線を注いでいた。
なんだか自分が不真面目な気がして、私も手のひらに目を落とした。
手首を握っていた右手が、滑るように手のひらを這う。
ベビーパウダーをすり込んだような、さらさらとした触り心地。
私の左手は、とうとう円城茜の両手に包まれた。
出られない――と思った。
「巴」
そして、この声なのだ。
ガラス風鈴とヴァイオリンの混合音声。
キスされたときよりも長い時間をかけているせいか、あのときとはちょっと違う感じで、心臓が脈打っている。
バクバクと胸を内側から叩かれるような感じではなくて、トク、トク、と上り詰めるような感じ。
ただの血液を送り込むポンプのはずが、不思議と違う反応をみせる。
人間の身体がこんなふうになるなんて、知らなかった。
「巴も、名前で呼んで」
再び目を上げると、円城茜はまっすぐに私の目を見ていた。
光を吸い込む瞳が、西日の差す部室で、奇妙に鮮やかだった。
美しさって、暴力だ。
本人の意志とは無関係に、たやすく振るわれる暴力だ。
私はその力に、簡単に屈してしまった。
だってきれいなものと汚いものに、いちばん敏感なのが、きっと私だから。
「茜……」
私はあまりにも素直に、円城茜――茜の名を口にした。
茜に包まれた手が、しっとりと汗ばんでくる。
恥ずかしい。
私は再び、包まれた手に視線を落とす。
――そこで、気づいた。
手の甲も、なんだか湿り気を帯びてきているのだ。
冷たかったはずの茜の左手が――。
私の手はいつの間にか、ふわりと柔らかい熱に包まれていた。
茜の顔を見ると、瞳が少しうるんでいるように見えた。
強く差す西日のせいかもしれない。
頬の色なんて、わからない。
そうして私は、しばらく手を握られていた。
私から握り返すことは、けしてしなかった。
ただ、茜の両手に包まれていた。
膝の上にあるはずの右手は、まるで消えてなくなってしまったみたいだった。
いきなり、2段階ぶっ飛ばし。
もっと他にあったんじゃないのか。
下の名前を呼び合う、手を握る、ああダメだ、何も思い浮かばない。
茜は私にキスをしたいのだ。
だから――。
「大事なのは、たぶん時間だから……」
「うん」
「時間を重ねることだと、思うから……」
「うん」
茜はとても素直に頷いた。
手のひらが熱くって、たまらなくなって――とうとう私は、少しだけ手を引いた。
茜の手のひらは、すぐに私を自由にした。
あっけないほどに。
湿り気を帯びていた私の手は、なんということのない部室の空気に冷やされた。
プラスチックの時計の音が、戻ってきた。
「……冷めるよ」
「うん」
茜はまた素直に、私の言ったとおりに紅茶を飲んだ。
実際に紅茶は冷めているのだろうか。
どれだけの間、私たちは手を繋いでいたのだろう。
まるで見当もつかなかった。
「時間だよ、大事なのは……」
私はひとり呟くように言った。
まるで、なんでも知ってるみたいに。
すると茜は紙コップをテーブルに置いて、私に尋ねる。
「その時間は誰が決めるの?」
う、と声が出そうになった。
割とクリティカルな質問。
「それは……私だよ」
だって、迫られているのは私なのだ。
だからたぶん、時間が満ちたのかどうかを知るのも私だ。
そう考えると、なんだか悪くない気もしてくる。
――だからこそ、不安なのだ。
自分のワガママで、茜がどうとでもなってしまう。
ひとりきりでいたときは、私だけのものだったワガママというものが、茜を通して現実に反映される。
それはなんだか、とても怖いことだ。
今までなかったようなものが、誰かと関係を持つことで、かたちになるのだから。
私は、すっかり冷え切った紅茶を飲み干した。
茜はというと、西日に目を細めながら、マイペースにゆっくりと紙コップに口をつけている。
上下が重なりそうな長い睫毛の先端が、ちらちらと白く輝いていた。
ふたり、さっきまで手を握っていた。
その張り詰めた空気は、もう木の匂いのする部室のまどろみの中に溶けてしまっている。
茜は、私とキスがしたい。
だから、段階を用意すればすぐに登ろうとする。
でも、私としてはそこにもやもやしたものがある。
「茜はさ。私とキスしたいから、私を下の名前で呼んで手を握ったの?」
恥ずかしいことこの上ないけれど、聞かずにはいられなかった。
さっきの不思議な時間が、本当にキスに辿り着くためだけに作られたものだったとしたら、こんなに軽薄なことはないと思う。
あんなに、ドキドキしてしまったんだし。
茜が軽薄ということになったら、きっと私も軽薄だ。
結果的に、いま茜の“赤ちゃん”を誘導しているのは私なんだから。
時間を経ることは大事だけれど、それ以前に時間そのものも大事というか――。
ここは自分の中でも、うまく整理がつかなくてもどかしい。
「そうね……」
茜はおとがいに指をあてて、深く考え込んでいる様子だ。
あまりにも長いその時間を、私はテーブルの隅を見つめながらじっと待った。
私は、茜にどう答えて欲しいのだろう――。
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