小さな背中は、スケッチブックに鉛筆を走らせ続けている。
柊木英子は背中越しに、私と話を続けていた。
茜と比べると、さっぱりと乾いた軽い声、幼い声色。
そのせいか、不思議と横柄なニュアンスはない。
「小此木ちゃんはさー」
鉛筆を動かす手が、止まった。
「どうして円城ちゃんをここに呼ぶの?」
柊木英子は、ポニーテールを揺らしてこちらを振り向いた。
詰問されているというよりは、素直な疑問をぶつけられたこの感じ。
「別に……呼んだわけじゃないです。あか……あの子が向こうから来たんです」
言ってしまってから、後悔した。
事実だけれど、イヤな気分だ。
私にも茜にも、放課後に中庭で駄弁ったところで、罪なんかないと私は考えている。
でも、架空の罪に似た何かを、茜になすりつけているような、そんな気がした。
私が無理やり連れ込んだって、嘘をついた方が気持ちが良かったかもしれない。
胸が悪くなるような、自己嫌悪。
「………………」
柊木英子は、そんな思いを知ってか知らずか、じっと私の顔を見つめている。
それからその視線は、私の運動靴まで降りてきた。
「円城ちゃんが……そっか」
小さなくちびるが、わずかな弧を描く。
細められた目は私の運動靴のずっと奥にある、何かを眺めているようだった。
生意気な1年生に、部員を取るなと釘を刺しに来た――とてもそんな表情には見えない。
「ねえ、小此木ちゃん」
柊木英子は花壇の傍から立ち上がって、私に微笑みかけた。
この笑顔には、ちょっと上級生らしさがある。
「やっぱり君は雰囲気あるね。ちょっとデッサンのモデルやってくれると嬉しいんだけど」
「私が……ですか?」
まさかそんなことを頼まれるとは思わなかった。
あまり良い気はしないけれど、断るのもなんだか自意識過剰という気がする。
「美術部で、ですか?」
「いや、ここでがいいよ。あそこが小此木ちゃんのホームグラウンドでしょ? 椅子はある?」
柊木英子は鉛筆の先で、園芸部室を指した。
パイプ椅子があると答えると、さっそく中に案内させられた。
「普通に座ってくれてていいからね。楽な姿勢で」
私はパイプ椅子に座って、膝元で指を組んだ。
少しだけ、茜の佇まいを意識したかもしれない。
柊木英子は私の様子を見て軽く頷くと、自分のパイプ椅子に座って鉛筆を縦にかざした。
「やっぱ雰囲気あるわ」
ひとことそう言って、柊木英子はスケッチブックに私を写し始めた。
茜に「あなたの目が好き」と言われたことを、ちょっと思い出す。
「どうしてひとりで園芸部に入ろうなんて思ったの?」
私は姿勢を保ったまま、柊木英子の問いに答える。
視線はテーブルの隅にある、過去に何かが植えられていたのであろう、土の詰まった空き瓶。
「たまたま中庭をうろついてたら、勧誘されて。で、その先輩は転校しました。そして私がいるから新入部員が来ません」
「でも、小此木ちゃんが来る前から園芸部はその子ひとりだったじゃない」
割と有名な事情らしい。
「それは、そうです」
「じゃあ、小此木ちゃんのせいじゃないでしょ。園芸部が不人気なだけだよ」
フォローされたのか、けなされたのか、よくわからない。
そんなふうに感じるということは、私の中で園芸部との自己同一化が始まっているのか。
ちょっと危ない気がする。
「まあ、謎だったんだよね。不良がやってる園芸部。楽しい?」
私とスケッチブックを交互に見て鉛筆を動かしながら、柊木英子は次々と質問をぶつけてくる。
「楽しい、とかじゃないです。流れでそうなったというか」
「義務感があるからやってるの?」
「そんなカッチリしたものじゃないです。縁というか」
柊木英子は、私の身体ではなく、目を見た。
「イヤイヤやってるわけでもないんだ」
「まあ、そうですね」
彼女の目は、再び私の身体に移った。
質問と視線――内からも、外からも、柊木英子は私を観察している。
私は固く姿勢を保ったまま、なんだか自分が解剖されているような気分になってきた。
「円城ちゃんとは友達なんだよね?」
「たぶん、そうです」
「……それも、流れ?」
鉛筆が止まった。
柊木英子の視線が再び私の目を捉え、そして私も彼女を見返した。
「………………」
私は正解なんて言わない。
柊木英子が気に入ろうが気に入るまいが、ここは思っていることをそのまま話さないと負けだと思った。
「私は、あの子の顔が好きなんです。で、あの子は私の目が好きだと言いました。だから、私たちは友達に」
しばらく、視線は交差したままだった。
しかしにらみ合っているわけでもなくて――柊木英子の表情は、穏やかだ。
「私も、円城ちゃんの顔が好きだよ。そんで今、小此木ちゃんの目も気に入った」
再び鉛筆が動き始めた。
私は土の入った瓶に視線を戻す。
茜も柊木英子も、私の目を褒める。
ちょっとは自信を持ってもいいらしい、のかな。
そんなことを考えていると、また言葉が飛んでくる。
「小此木ちゃんは、見た目と違って危なげがなくていいね」
危なげ、という意味はちょっと難しかった。
理解が追いつく前に、言葉が続く。
「金髪の不良少女だから、もっとナイーブなの想像してた。安定してる」
そして、柊木英子は不思議なことを言った。
「円城ちゃんと一緒にいられると、私は思う」
なんか、ちょっと、ぴくっと来た。
どうして茜と一緒にいられるかどうかを、この女に判定されなければいけないのか。
柊木英子は、茜のなんなんだ。
私は尋ねた。
「一緒にいられない場合があるんですか?」
「あの子には引力があるからねー」
柊木英子は変わらず、鉛筆を動かし続けている。
「足もとがおぼつかないと、見ててひやひやする。そういうこともある」
軽いトーンの中に、どこか上級生の声色を帯びている。
そんな言葉。
「まあ、小此木ちゃんは大丈夫だ」
そんなに私たちは大丈夫なのだろうか。
私と茜との関係が――安定しているとはとても思えない。
こんな不安定な人間関係もないんじゃないか。
突然のキスに私は今も揺れていて、茜は胸の中に“赤ちゃん”を抱えて迫ってくる。
さっきははっきりと“友達”と言ったけれども、そう呼んでいいのかすら、本当のところ定かではない。
しかし柊木英子は自信たっぷりに「大丈夫だ」と言ってのけた。
年の功を信じて良いものかどうか。
「よし、こんなもんかな」
柊木英子は鉛筆をスカートのポケットに入れて、スケッチブックを閉じた。
描いた絵は見せてもらえなかった。
「お疲れさん、ありがとね」
柊木英子はパイプ椅子から立ち上がった。
私も立ち上がろうとしたが、その前に後ろに回り込まれる。
小さな手で肩を掴まれ、ぐにぐにと揉まれた。
「そうそう。これ言おうと思ってたんだ」
私の肩から腕をマッサージしながら、柊木英子は言った。
「ウチの学校、兼部OKだからね。毎日来るなら、園芸部に勧誘しちゃうといいよ」
意外な言葉が飛び出した。
ぽんぽん、と肩を叩いて、マッサージおしまいの合図。
私は今度こそ立ち上がった。
「あの、ごめんなさい、柊木先輩」
柊木英子は、きょとんとした顔で私を見上げる。
私は小さく、頭を下げた。
「私、てっきり釘を刺しに来たんだと思ってました。あの子を取るなって」
それを聞くと、柊木英子はぷっと吹き出した。
私もちょっと、正直に言いすぎた気がする。
でもこういうことは口に出しておかないと、きっともやもやを残すものなのだ。
「円城ちゃんは物じゃないよ。自分の意志で動くのがいちばん自然なんだ」
柊木英子は扉を開けながら、背中越しに言った。
「何が環境で、何が自分の意志かなんて、わかったものじゃないけどね……」
そのとき、柊木英子はどんな表情をしていたのだろう。
私も彼女と一緒に外に出て、見送ることにした。
「ありがとうございました」
「ん、何が?」
あまりにも不思議そうな目で見られたので、私はちょっと戸惑う。
「いや……私の絵、描いてもらったし……あの子を園芸部に入れて良いって……」
「私が描かせてもらったんだよ。それに園芸部に入るかどうかは円城ちゃんの自由」
「そう、ですね」
「じゃ、まったねー」
スケッチブックを小脇に抱え、柊木英子は手を振りながら中庭を去って行った。
「………………」
私は園芸部室に戻る。
ひとりぼんやりしていると、今さっきまでここに柊木英子がいたのが嘘みたいだ。
まるで小さい嵐のようだった。
「………………」
紅茶は、茜が来てから淹れることにする。
私はテーブルの引き出しを開いて、端が茶色く変色した紙を取り出した。
――園芸部の、入部届。
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