いつものように、茜が園芸部室のドアをノックする。
私は返事する代わりに、こう言った。
「柊木先輩が来たよ」
少しだけ時間をおいて、ゆっくりとドアが開かれた。
「なんて、おっしゃってたの?」
珍しく不安げに、茜は上目遣いに私の目を見た。
かたちの良い眉を上げて、赤いくちびるをつぐんでいる。
いつも冷徹に露を滴らせる花びらのような茜が、こんな小動物じみた表情を見せるとは思わなかった。
なんか、かわいいかな。
とか思いつつも。
部活というものに入ったことがない私は、内部の人間関係がどうなっているのかなんてことは、知りようがない。
しかし後輩は先輩に逆らえない、みたいなのはよく聞く話。
「自由にしていい」と言われているから自由にしているという茜にも、怖いことはあるのか。
あの柊木英子が、先輩として茜に強権を振るっているというのは少し想像しがたい。
でも、私はそこまで第一印象というものを、基本的に信用しないから、そういうこともあるのかもしれない。
ちょっと考えてしまったけれど、早く返事しないとかわいそうだ。
「ちょっと世間話しただけだよ。私をモデルにして、デッサンして帰った。あと、これの話……」
私は茜のパイプ椅子の前に置いた、隅が変色した紙を指先で突いた。
茜は不思議そうな顔をして、いつものようにスカートに手を滑らせて優雅に座る。
「美術部、兼部OKなんだってさ」
つぐまれていたくちびるが、ふわりとゆるむように弧を描いた。
切れ長の目尻が、きらきらと輝いて見える。
今日の茜は、やけに表情が豊かだ。
柊木英子が絡むと、そうなるのだろうか。
「茜が良ければ、なんだけど」
「巴といられれば、なんだっていいわ」
そう言ったときの茜の表情は、相も変わらぬいつもの美しさだった。
でも喜びとか、驚きとか、そういうのはなくって――。
「……じゃあ、書いて」
「ええ」
なんだか、ちょっと拍子抜けしてしまった。
私は柊木英子のことを考えずにはいられなかった。
「柊木先輩って怖い人?」
入部届に小学生みたいな字と文章で、志望動機を書いては消し、書いては消ししている茜に、私は言った。
物を書きながら何かに答えるなんてことが茜にできるわけがないから、ペン先は止まった。
「怖くないわ」
茜は入部届をじっと見つめている。
古くなって、たわんだ茶色い紙の向こうに、何かを見ているみたいだった。
「優しすぎるの」
茜はそう答えて、再びシャーペンを動かし始めた。
なるほど、優しそうな人に見えたけど、やっぱり優しいんだ。
不器用な、途切れ途切れのペンの音が響く園芸部室。
なにを書けばいいか、適当な定型文を教えてあげてもよかったんだけど、私はそれをしなかった。
私は、優しすぎると言われるほどには優しくない。
お茶も淹れずに、ずいぶんと待った。
淹れたらきっと茜は、きっと入部届にこぼすに違いない。
私もそれくらい、茜のことがわかっている。
ずっと見てきたから、学習している。
「………………」
なかなかの時間がかかった。
消しカスだらけになったテーブルの上で、茜はようやく入部届を書き終えた。
部長である私は、そこにサインを入れる。
「巴は字がきれいなのね」
「人並みだよ」
本当に、人並みだ。
私は消しカスをコンクリートの地面に落としていって、茜のスカートの上に落ちた分も払った。
よく考えると、茜のくちびると手以外の部分に触れたのは、初めてのことかもしれない。
たいしたことじゃないのかもしれないけれど、スカートに触れるということは、私からのアクションだ。
茜はただ座っていて、あの光を吸い込む瞳で私を見上げている。
それがなんだか、妙な感じだった。
何がどうしてってわけじゃ、ないけれど。
「じゃあ、出しに行こっか」
「ええ」
部長の私がひとりで提出すれば良いのだと気づいたときには、ふたりとも、もう上靴に履き替えていた。
別にいいやと思って、ふたりで職員室まで歩いた。
ふたりで廊下を歩くと、結構目立つらしい。
私は髪を思い切り染めてる人嫌いで有名だし、茜の美貌といろいろと不出来なことも知れ渡っている。
廊下を通りがかる生徒たちが、露骨に私たちを見た。
ふたり以上だと、視線をよこしたり逸らしたりしながら、ひそひそと何か言い合っている連中もいた。
不良が美少女を捕まえて舎弟にしたとでも思っているのだろうか。
勝手にしやがれと思った。
私たちは私たちの用事を済ませに行くんだ。
誰に構う必要もない。
職員室をノックして、失礼します。
園芸部顧問の北川先生は、いつもの場所、鍵箱のすぐ側の席にいた。
会ったのは今日で2度目。
最初は、先輩と入部届を出しに行ったときだ。
なかなか美人の、でもぶっきらぼうな先生だった。
そういえばあのときも、別に私が行く必要はなかったんだよな。
まあ、それがこの学校のやり方なのかもしれない。
1年ボーズにわかることは少ない。
「北川先生、新入部員です」
私が入部届を先生に差し出した。
先生はなんだか胡散臭そうにそれを受け取る。
「よろしくお願いします」
茜が髪を揺らして優雅に一礼すると、北川先生も軽く会釈した。
「どっから見つけてきたの?」
「自主的に来ました」
「へえ」
北川先生は上から下までじろじろと茜を見回した。
「小枇木さんもなんだよね」
北川先生は、眠たげな目を入部届に移した。
「どっから湧いたのか分からない部員。長谷山さんもどうやって小枇木さんを見つけたのか、いまいちわかんない」
「全部先生に伝えてるわけじゃないんで」
「そう」
私の突き放した態度に特に思うところはないらしく、
「じゃあ戻っていいよ」
それだけ言って、入部届を散らかった机の書類の山に差し込んだ。
茜が一生懸命書き込んだあの紙が、この先どこへ行くのかは知らない。
さっさと終わるように手伝ってあげればよかったと、少し後悔した。
「せいぜい庭を華やかにしとくれ」
「わかりました」
なら部活にちょっとくらい顔を出せと思うのだけれど、かと言ってちょくちょくやってこられてもうっとうしいのが正直なところだ。
きっと、手なんか繋いでいられないだろう。
それから部室に帰って紅茶を飲み、それからふたりで両手を繋いだ。
「入部おめでとう、って言ったら、笑っちゃう?」
「どうして笑うの?」
手を繋いだまま、私たちは話した。
「だって、今更じゃん」
「そうかも、しれないわね」
なんだかいつもより手が温かくて、触れる時間も長かった気がした。
――――――。
私、神崎要芽は、画用紙に色を塗るのが好きだ。
絵を描く事じゃない。
それはもう、とっくの昔にあきらめた。
懐かしい思い出の残り滓。
私にできるのは、ただ色を塗ること。
薄めたアクリル絵の具が良い。
色が重なったり、重厚に盛り上がったりもしない。
私はただ、塗るだけなのだ。
美術部に入って、そんなことばかりしてやろうと思っていた。
不気味がられるかもしれないが、そんなことは別にいい。
やる気がないと追い出されたら追い出されたで、まあ、構わない。
そんなことを考えつつの最初の授業。
そこに円城茜がいた。
彼女は美しかった。
それだけなら、これほど思い入れることはなかっただろう。
重要なのは、何もできないということだった。
絵に対して何もできない、私とおんなじだと思った。
私はある日の休み時間、勇気を出して席を立ち、円城さんに尋ねた。
「円城さん、どこの部活に入るか決めてる?」
「いいえ、何も決めていないわ」
私は、彼女を美術部に誘った。
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