茜の口から答えが出るまで、ずいぶん時間がかかった。
磨き上げられた彫像のように、茜は考えるポーズを崩さない。
西日はすでに夕陽と呼べるくらいに落ちていて、陽光は校舎の影になっている。
ただオレンジ色に光る雲が、園芸部室を同じ色に照らしていた。
こんな光の中で、茜を見るのは初めてのことだ。
身体中の陰影が深くなっている。
長い睫毛に縁取られた目が、見たこともない色を湛えている。
いつもは冷たい輝きを放っている茜の美しさは、今は夕方のぬくもりにまどろんでいた。
それはとても柔らかい印象をもって、胸に沁み入ってくる。
眩しい金色のタイが、オレンジ色に染まった制服に影を作っている。
ダブルのボタンは、テーブルの影になって静かに光っていた。
「憧れを、作ったのよ」
長い時間が経って、茜の口から出た言葉がそれだった。
「憧れ?」
「巴が作ったの。だから」
要領を得ないのは、きっと茜の中でも漠然としたものを紡ぎ出そうとしているからだろうか。
私はそれをゆっくり解きほぐすつもりで、茜の言葉に耳を傾けた。
「下の名前を呼ぶこと。手を握ること。巴の口からそれを聞いて、そしたらね」
茜は、手のひらをタイの結び目に当てた。
「それが私の憧れになった。だから、やってみたくなったの」
こちらを向いた茜の顔は、少しうるっとくるくらいきれいだった。
半分が照らされた、彫りの深い顔。
高い鼻梁や睫毛が作る影。
頬骨からおとがいにかけての淡い陰影。
でも本当に涙腺に来たのは、結局のところ茜の言葉だ。
――キスだけが目的じゃなかった。
それがなんだがとても、心から嬉しくって、どうにかなってしまいそうだった。
私にとって大きな1段だと思っていたものは、茜の中でも価値をもっていたのだ。
初めて、ほんの少しでも茜と重なることができた――そんな感じがした。
本当に泣いてしまっても困るので、私は空になったふたつの紙コップを重ねて潰して、ゴミ箱に放り込んだ。
そんなちょっとした行動で、意外と感情は波を抑えてくれる。
それにしても自分は、もっとサバサバした、クールなタイプだと思っていた。
我ながら、いろいろめんどくさいのかもしれない。
自己分析は大事だ。
「……じゃあ、もっかい手ぇ握る?」
手を握るというのはどこか新鮮で、ちょっと楽しさみたいなものも含んでいたから、私はそう言った。
思えば、誰かと手を繋ぐなんていつぶりのことだろう。
小学生時代を遡ってさえ、私は思い出すことができなかった。
「うん」
私たちは、次は両手で手を握り合った。
茜の手は、まだ温かい。
手の甲はすべすべで、手のひらは少しだけしっとりしている。
すると、顔の筋肉がちょっと変な感じになってきた。
笑顔をこらえるとかではなくて、なんだかぐにゃぐにゃする。
いつも素直な良い子ちゃんってタイプなら、こういうときになんらかの表情を面に出せるのかもしれない。
けれどもそうやって素直な顔を作るには、あいにくと私はそれなりにスレている。
変な顔ができてしまう前に、私は状況を切り上げることにした。
「そろそろ、帰ろっか」
私が手をパーにすると、茜はゆっくりと手を離した。
本当にゆっくり、手のひらが擦れる音が静かに聞こえるくらいに――。
「私の家、駅の向こう」
一緒に帰れるなら帰ろう、と誘ったつもり。
「私は電車通学」
「なら途中まで一緒だ」
職員室に鍵を返しに行くのにも、茜はちゃんとついてきてくれた。
ちゃんと意図が伝わっていて良かった。
知らない先生に早く帰るよう言われて、適当に返事をする。
ふたり、下足箱でローファーに履き替えて、校庭に出た。
運動部もすっかり帰ってしまったようで、静かになった運動場脇の道をふたりで歩いた。
業者のおじさんが、大きな機械で葉桜に殺虫剤を撒いている。
「あれだけ桜があったら毛虫も湧くんだろうな」
「そうね」
私たちが校門に近づくと、おじさんは殺虫剤の機械を止めた。
とりあえずおじさんに頭を下げて、小走りで桜の下を通り抜けた。
「みんな帰ったと思ってたんだろうな」
「そうね」
振り返ると、殺虫剤の霧が夕陽にきらきら光っていた。
――――――。
ネモフィラの花壇と、少しばかりのプランターに水をやり、それから園芸部室に入って、相変わらずの紅茶と読書。
そんなふうに私が園芸部室で暇を潰している時間に、茜が来るのが習慣になった。
「先輩とかに何か言われないの?」
「自由にって、仰ってるから」
それはあくまで部活動に打ち込むに当たっての自由さじゃないの――なんて思ったけれど、口にはしなかった。
茜の分の紅茶も用意して、好きな本を選ばせる。
ふたりで並んで読書している間は、あまり話さない。
話すこともないし。
でも帰る直前には、必ずテーブルの上で手を握り合うことになっている。
茜が私の名を呼んで、私が茜の名を呼ぶ。
1日で私の中に取り込まれた汚い、イヤなものが浄化されていく気がする。
茜のすべらかな手のひらと、ガラス風鈴とヴァイオリンなその声で。
そうしてふたり、並んで帰る。
じゃあ、と言って駅の入り口で別れる。
ひとりきりの風通しの良い高校生活を予想していたから、こんな間柄の相手ができるとは思ってもみなかった。
私は友達というものを作らない。
理由は簡単で、人間というもののデザインが嫌いだからだ。
形も動きも臭いも、基本的に嫌いだ。
鼻息、大笑い、くしゃみ。
人間は汚い。
たまにいる可愛い子なんかはまあいいけれど、大抵は気持ち悪い。
電車通学が嫌だから、この学校を選んだようなものなのだ。
けれども茜だけは、その例外だ。
茜は人間なのに、何よりも美しい。
傍にいられるのは、幸せといっていいと思う。
遠くから見つめているだけでもそれなりに幸福だったけれど、一緒にいることで距離や接し方に緩急が生まれる。
キスの件もあって最初は戸惑ったけれど、慣れればそれが本当の茜の味わい方という気がしていた。
茜の中の“赤ちゃん”は、なんとかしないといけない。
でもそれは、ゆっくり取り組んでいけばいいことだ。
――――――。
ある日、いつものように花壇に水をやっていると、スケッチブックを小脇に抱えた女子生徒が現われた。
美術部員だ。
とうとう来たな、と思った。
うちの円城さんが世話になってるらしいじゃない、というやつ。
背は小さくて、シュシュでポニーテールを作っている。
たぶん同じ1年生――だけど油断はできない。
ウチの制服の欠点は、見ただけで何年生か判断がつかないということだ。
中学時代は色違いの名札を付けてたりしたけれど、そういうのもない。
まあ、私が同級生の顔を殆ど覚えていないということに、問題があるのかもしれないけれど。
「そこの花壇、スケッチさせてよ」
「はあ、どうぞ」
いちいち許可なんて取らなくてもいいと思うんだけど。
「どもどもー」
彼女はそう返事して、花壇の傍にしゃがみ込んだ。
小さな身体が、ますます小さく見えた。
「なんて花?」
「ネモフィラです」
「へー」
さして興味もなさそうな返事。
彼女はスケッチブックにさらさらと鉛筆を走らせ始めた。
私はそれを背にしてプランターに水をやり、ジョウロを物置に片付ける。
手を洗っているときに、背後で彼女が言った。
「あなたが小此木巴ちゃん?」
ほら来た。
やっぱり美術部の刺客だ。
「そうです」
「私は2年の柊木英子(ひいらぎえいこ)。一応美術部の部長ね」
部長自らお出ましとは、茜はよほど気に入られているらしい。
まあ、モデルとして茜以上の人材はいないだろう。
美人がモデルになったからって、良い芸術が生まれるのかどうか、私にはわからないけれど。
「はい、どうもよろしく」
そういうこと以前に美人の後輩というのは、部にいるだけである種の所有欲を満たせるものなのかもしれない。
それを私が掠め取ったと、そんなところかな。
柊木英子は、こちらを振り向いて言った。
「君、雰囲気あるよね」
「そうですか」
「髪染めてる子なんか、この学校にいないじゃん。それも金色」
「そうかもですね」
人が寄ってこないように、わざわざブリーチで色を抜いているのだ。
野生動物の警戒色と同じ、寄ってくるなという合図。
だから柊木英子、あんたも近づかないで。
そんなオーラを醸し出しているつもりだけれど、それが通じた様子はない。
「円城ちゃんが、よく来てるらしいね」
いよいよ本題に入った。
「そうですね、来てますよ」
なんてことはないんですけどね、というニュアンスを込めて。
私は、スケッチブックに鉛筆を走らせる、小さな背中にそう答えた。
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