不良未満と顔だけさん

マライヤ・ムー
マライヤ・ムー

3話 ほんの少し私だけの場所

公開日時: 2020年10月16日(金) 18:16
更新日時: 2020年10月21日(水) 23:58
文字数:3,460

 1年生の教室は3階にある。

 屋上はもちろん施錠されているけれど、その手前の踊り場でも内緒話はできる。


 私は1段飛ばしでずんずん階段を昇った。

 それが意志の固さみたいなものの表現なのだと、どこか客観的に見ている自分がいる。

 意志の固さを誰に向かって表現するのか――円城茜?


 円城茜はそんなことは気にしない。

 しずしずとスカートのプリーツを開かずに昇ってくる。

 となると、私はひとり浮き足立ってるのか。


 あまり良いことじゃない気がする。

 けれども、勢いというものは大事だ。

 円城茜にペースを合わせていたら、きっと何もかもぼんやりと、なし崩し的に終わってしまう。


 小さな明かり取りの窓の光に、半分だけ照らされた円城茜。

 なんだか映画のワンシーンに迷い込んだような気がした。


 いや、円城茜の醸し出す雰囲気とか美しさに惑わされてはいけない。

 彼女の中の“赤ちゃん”を、私がリードするのだ。




 ――それでも、最初のひと言を口にするのには、勇気が要った。




「昨日……私にその……キスした、じゃん……」

「ええ」



 あまりスマートとは言えない私の滑り出しに、円城茜はあっさりと答える。

 美しい表情は何も変わらない。



「ああいうことって、誰にでもしてるの……」

「あなたが初めて」



 奇跡だと思った。

 たぶん嘘じゃない。

 円城茜は、なんとなく嘘を吐けないし、吐く必要も感じない、そんな女だと私は思っている。

 あんなあっさりキスするくちびるが、よく16まで誰にも触れずにいたものだ。



「でも、私の目が気に入ったからキスしたんだろ? 今まで気に入ったものってなかったのかよ」

「ないわ」



 円城茜は光を吸い込む瞳で、私をまっすぐに見た。

 私は、これに弱いのだ。



「あなたの目がいちばん好き」

「そんな大したもんじゃないよ……」

「蜂蜜を固めたみたい」



 円城茜は、私に一歩近づいた。

 また、あのひやりと冷たい手だ。

 あの手が、私の頬に触れる。



「全部、どうでもよくなるの」



 美しい顔が迫ってくる。

 ダメだ――ダメだダメだダメだ!



「………………」



 円城茜の肩をそっと押し返したとき、私はたぶん泣きそうになっていたと思う。

 彼女は、不思議なものを眺めるような目で私を見つめた。

 美しいものに抗うのは、本当に、胸に針を刺されるように哀しい。


 永久に離れてしまう予感が、不安となって皮膚にまとわりつく。

 でも――。



「ダメなの?」



 ガラス風鈴とヴァイオリン。



「ダメだよ……」



 私は首を絞められた鳥みたい。



 それからお互い黙ってしまうと、昼休みの校舎のざわめきがコンクリートに乱反射して、沈黙をより深いところに落とし込んでしまう。

 そうなのね、じゃあ、なんて言って円城茜が帰ってしまえば、私は一生後悔するだろう。


 沈黙を破るのは、私だ。

 私でなくちゃいけない。 


 私は円城茜の“赤ちゃん”を意識した。

 切れ長の目も、すっと通った鼻筋も、赤いくちびるも――その奥には“赤ちゃん”がいるのだ。


 私はとうとう、妙にねばついた口を開くことができた。



「ダメなのはさ……いきなりだから、ダメなんだよ」



 円城茜は、相変わらずの不思議顔。

 でも、このまま帰ってしまうような気配はない。



「ちゃんと段階を踏んでさ……あるんだよ、そういうのが」



 気づけば、私は円城茜のつま先を見て喋っていた。

 どういう段取りで、何を言おうか、ちゃんと考えてきたはずだったのに。

 出てくる言葉は、なんだか古くなった輪ゴムみたいに危うい。



「段階?」

「そうだよ……段階が、必要なんだよ。だからいきなりキスは……その……ダメだから……」



 そこで、予鈴がなった。

 円城茜が醸し出す映画のワンシーンめいた空間が、普段の学校の踊り場に変わった。


 これから眠たい午後の授業があって、終わればみんな部活に向かう。

 そういう場所なのだ、ここは。



「その……行こっか」



 私は円城茜を横切って階段を降りようとしたが、彼女は動かなかった。



「段階って何?」



 返事を聞くまで、動かないつもりみたいだ。

 本当に――本当に私の目が、生まれて初めてってほど、気に入ったのかな。

 そこまで気に入られたら、私、バラバラになっちゃったりしないんだろうか。

 そんな奇妙な考えが、異様にリアルな感触を持っていた。



「段階っていうのは……また話すから」



 とにかく、いきなりキスしてはいけないということは伝わった。

 今まで、誰にもキスしてないってこともわかった。

 それはたぶん――良いことなのだと思う。

 気に入った相手に片っ端からキスしていたら、円城茜はきっとどんどん汚れていく。




 ――じゃあ、私にキスしたのは、汚れたうちに入らないの?




 階段を降りながら、自問する。

 人間のほとんどの、くちびるは汚い。

 剥がれた皮、食べかす、おしゃべり、つば――とにかく、汚いものだ。


 けれども私は、私のくちびるを許すことができる。

 でもこれは、私が私だからであって、円城茜との直接的な関係は何もない。

 でも、私は私を許せるのだ。




 ――それって、なんかズルい。




 私は円城茜に汚されたとは思わないけれど、私は円城茜を汚したのかもしれない。

 でも、それを誰が判断するのだろうか。


 円城茜は好きで私にキスしたのだから、円城茜の判断ならセーフだ。

 そのはずなのに、そこで納得できない自分がいる。

 私は円城茜の“赤ちゃん”の判断力を信用していないからだ。


 美しいものを司る神様みたいな存在がいて、全部決めてくれればいいのに。

 もっともそんな神様の言うことに、従う自信は私にはないんだけど。



 私は円城茜よりずっと早く、教室に戻った。

 そうして彼女が教室に入り、スカートの膝裏を撫でて椅子に座るのを、ぼんやりと眺めていた。




 ――――――。




 ネモフィラは乾燥した土を好むから、表面が白く乾いてきたら水をやるようにしてね。

 あと、肥料はあげなくて大丈夫だから。



「………………」



 転校した先輩の言ったとおりに、私はネモフィラの葉を指で分けて土の状態を確認する。

 土は湿っていたので、今日できることは何もない。


 部室の中で、しばらくぼうっとするだけだ。

 さっさと家に帰ったところで、良いことなんて何もない。

 幸い、部室には暇つぶしに良いものが揃っている。


 転校した先輩は、部室に小さな本棚を作っていた。

 ジャンルはバラバラ。

 芥川龍之介とか太宰治とかの文豪の作品から、最近の一般文芸、ミステリ、ラノベまで。

 私自身も、なんでも読めるクチだから、なんとなく目に入ったものを読むことにしている。


 紅茶の香りの中で読書。学校という無機質な空間の中でできることとしては、なかなか優雅なものだ。

 しばらく古いラノベを読んで、私は学校のスケジュールから切り取られた、私だけの空間を楽しんだ。


 けれどもふとした瞬間、本当に手を伸ばさなければならない本に意識が向く。

 ガーデニング図鑑。



 夏向けに、好きな花を植えてね。



 先輩は、からっぽの花壇を残していなくなった。



「………………」



 私はラノベを置いて、固い表紙の角が折れた、古いガーデニング図鑑を開いた。

 5月は苗選びの季節! らしく、ガーベラ、サルビア、ペチュニア、カリブラコア――。

 たぶんどれでも良いんだろうけれど、だからこそ困るというのもある。


 美しいものは好きだけれど、そこから何かを選び取るということにはあまり興味が無いのだ。

 だからといって、あの花壇をあのまま乾かしておくわけにはいかない。



「誰か決めてくれないかなあ……」



 ひとり、そんなことを呟いたとき、部室のドアがノックされた。

 初めてのことで、ちょっと飛び跳ねそうになるくらい驚いてしまった。


 顧問の北川先生だろうか。

 サボっちゃいるけど、やるべきことはちゃんとやっている。

 文句を言われるようなことはないはずだ。

 それでも、一応ラノベは本棚に戻しておいた。



「……どうぞ」



 私が返事をすると、入ってきたのは先生ではなく、円城茜だった。

 ぽかんとしている私に向かって、円城茜は首を傾げた。



「段階って何?」



 また話す、と言ったこの質問。

 実のところ、それは家でじっくり考えようと思っていたことだ。

 まさか部室に突撃してくるとは思わなかった。


 円城茜は美術部に所属している。

 もう文化部の活動は終わる時刻だっただろうか。

 私は壁に掛かったプラスチックの白い時計に目をやったが、そもそも美術部の実態を知らないからあまり意味はない。



「……とりあえず、座って」



 私は壁に立てかけてあるパイプ椅子を開いて、円城茜を座らせた。



「お茶、淹れるから」

「ありがとう」



 木と土と、あとちょっぴり肥料の匂いのする古びた部屋の中で、円城茜の存在は異質だった。

 おだやかなまどろみが破られた、この感じ。

 でも、けして不愉快というのではない。




 ――美しいものを、嫌いになれるはずがない。

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