1年生の教室は3階にある。
屋上はもちろん施錠されているけれど、その手前の踊り場でも内緒話はできる。
私は1段飛ばしでずんずん階段を昇った。
それが意志の固さみたいなものの表現なのだと、どこか客観的に見ている自分がいる。
意志の固さを誰に向かって表現するのか――円城茜?
円城茜はそんなことは気にしない。
しずしずとスカートのプリーツを開かずに昇ってくる。
となると、私はひとり浮き足立ってるのか。
あまり良いことじゃない気がする。
けれども、勢いというものは大事だ。
円城茜にペースを合わせていたら、きっと何もかもぼんやりと、なし崩し的に終わってしまう。
小さな明かり取りの窓の光に、半分だけ照らされた円城茜。
なんだか映画のワンシーンに迷い込んだような気がした。
いや、円城茜の醸し出す雰囲気とか美しさに惑わされてはいけない。
彼女の中の“赤ちゃん”を、私がリードするのだ。
――それでも、最初のひと言を口にするのには、勇気が要った。
「昨日……私にその……キスした、じゃん……」
「ええ」
あまりスマートとは言えない私の滑り出しに、円城茜はあっさりと答える。
美しい表情は何も変わらない。
「ああいうことって、誰にでもしてるの……」
「あなたが初めて」
奇跡だと思った。
たぶん嘘じゃない。
円城茜は、なんとなく嘘を吐けないし、吐く必要も感じない、そんな女だと私は思っている。
あんなあっさりキスするくちびるが、よく16まで誰にも触れずにいたものだ。
「でも、私の目が気に入ったからキスしたんだろ? 今まで気に入ったものってなかったのかよ」
「ないわ」
円城茜は光を吸い込む瞳で、私をまっすぐに見た。
私は、これに弱いのだ。
「あなたの目がいちばん好き」
「そんな大したもんじゃないよ……」
「蜂蜜を固めたみたい」
円城茜は、私に一歩近づいた。
また、あのひやりと冷たい手だ。
あの手が、私の頬に触れる。
「全部、どうでもよくなるの」
美しい顔が迫ってくる。
ダメだ――ダメだダメだダメだ!
「………………」
円城茜の肩をそっと押し返したとき、私はたぶん泣きそうになっていたと思う。
彼女は、不思議なものを眺めるような目で私を見つめた。
美しいものに抗うのは、本当に、胸に針を刺されるように哀しい。
永久に離れてしまう予感が、不安となって皮膚にまとわりつく。
でも――。
「ダメなの?」
ガラス風鈴とヴァイオリン。
「ダメだよ……」
私は首を絞められた鳥みたい。
それからお互い黙ってしまうと、昼休みの校舎のざわめきがコンクリートに乱反射して、沈黙をより深いところに落とし込んでしまう。
そうなのね、じゃあ、なんて言って円城茜が帰ってしまえば、私は一生後悔するだろう。
沈黙を破るのは、私だ。
私でなくちゃいけない。
私は円城茜の“赤ちゃん”を意識した。
切れ長の目も、すっと通った鼻筋も、赤いくちびるも――その奥には“赤ちゃん”がいるのだ。
私はとうとう、妙にねばついた口を開くことができた。
「ダメなのはさ……いきなりだから、ダメなんだよ」
円城茜は、相変わらずの不思議顔。
でも、このまま帰ってしまうような気配はない。
「ちゃんと段階を踏んでさ……あるんだよ、そういうのが」
気づけば、私は円城茜のつま先を見て喋っていた。
どういう段取りで、何を言おうか、ちゃんと考えてきたはずだったのに。
出てくる言葉は、なんだか古くなった輪ゴムみたいに危うい。
「段階?」
「そうだよ……段階が、必要なんだよ。だからいきなりキスは……その……ダメだから……」
そこで、予鈴がなった。
円城茜が醸し出す映画のワンシーンめいた空間が、普段の学校の踊り場に変わった。
これから眠たい午後の授業があって、終わればみんな部活に向かう。
そういう場所なのだ、ここは。
「その……行こっか」
私は円城茜を横切って階段を降りようとしたが、彼女は動かなかった。
「段階って何?」
返事を聞くまで、動かないつもりみたいだ。
本当に――本当に私の目が、生まれて初めてってほど、気に入ったのかな。
そこまで気に入られたら、私、バラバラになっちゃったりしないんだろうか。
そんな奇妙な考えが、異様にリアルな感触を持っていた。
「段階っていうのは……また話すから」
とにかく、いきなりキスしてはいけないということは伝わった。
今まで、誰にもキスしてないってこともわかった。
それはたぶん――良いことなのだと思う。
気に入った相手に片っ端からキスしていたら、円城茜はきっとどんどん汚れていく。
――じゃあ、私にキスしたのは、汚れたうちに入らないの?
階段を降りながら、自問する。
人間のほとんどの、くちびるは汚い。
剥がれた皮、食べかす、おしゃべり、つば――とにかく、汚いものだ。
けれども私は、私のくちびるを許すことができる。
でもこれは、私が私だからであって、円城茜との直接的な関係は何もない。
でも、私は私を許せるのだ。
――それって、なんかズルい。
私は円城茜に汚されたとは思わないけれど、私は円城茜を汚したのかもしれない。
でも、それを誰が判断するのだろうか。
円城茜は好きで私にキスしたのだから、円城茜の判断ならセーフだ。
そのはずなのに、そこで納得できない自分がいる。
私は円城茜の“赤ちゃん”の判断力を信用していないからだ。
美しいものを司る神様みたいな存在がいて、全部決めてくれればいいのに。
もっともそんな神様の言うことに、従う自信は私にはないんだけど。
私は円城茜よりずっと早く、教室に戻った。
そうして彼女が教室に入り、スカートの膝裏を撫でて椅子に座るのを、ぼんやりと眺めていた。
――――――。
ネモフィラは乾燥した土を好むから、表面が白く乾いてきたら水をやるようにしてね。
あと、肥料はあげなくて大丈夫だから。
「………………」
転校した先輩の言ったとおりに、私はネモフィラの葉を指で分けて土の状態を確認する。
土は湿っていたので、今日できることは何もない。
部室の中で、しばらくぼうっとするだけだ。
さっさと家に帰ったところで、良いことなんて何もない。
幸い、部室には暇つぶしに良いものが揃っている。
転校した先輩は、部室に小さな本棚を作っていた。
ジャンルはバラバラ。
芥川龍之介とか太宰治とかの文豪の作品から、最近の一般文芸、ミステリ、ラノベまで。
私自身も、なんでも読めるクチだから、なんとなく目に入ったものを読むことにしている。
紅茶の香りの中で読書。学校という無機質な空間の中でできることとしては、なかなか優雅なものだ。
しばらく古いラノベを読んで、私は学校のスケジュールから切り取られた、私だけの空間を楽しんだ。
けれどもふとした瞬間、本当に手を伸ばさなければならない本に意識が向く。
ガーデニング図鑑。
夏向けに、好きな花を植えてね。
先輩は、からっぽの花壇を残していなくなった。
「………………」
私はラノベを置いて、固い表紙の角が折れた、古いガーデニング図鑑を開いた。
5月は苗選びの季節! らしく、ガーベラ、サルビア、ペチュニア、カリブラコア――。
たぶんどれでも良いんだろうけれど、だからこそ困るというのもある。
美しいものは好きだけれど、そこから何かを選び取るということにはあまり興味が無いのだ。
だからといって、あの花壇をあのまま乾かしておくわけにはいかない。
「誰か決めてくれないかなあ……」
ひとり、そんなことを呟いたとき、部室のドアがノックされた。
初めてのことで、ちょっと飛び跳ねそうになるくらい驚いてしまった。
顧問の北川先生だろうか。
サボっちゃいるけど、やるべきことはちゃんとやっている。
文句を言われるようなことはないはずだ。
それでも、一応ラノベは本棚に戻しておいた。
「……どうぞ」
私が返事をすると、入ってきたのは先生ではなく、円城茜だった。
ぽかんとしている私に向かって、円城茜は首を傾げた。
「段階って何?」
また話す、と言ったこの質問。
実のところ、それは家でじっくり考えようと思っていたことだ。
まさか部室に突撃してくるとは思わなかった。
円城茜は美術部に所属している。
もう文化部の活動は終わる時刻だっただろうか。
私は壁に掛かったプラスチックの白い時計に目をやったが、そもそも美術部の実態を知らないからあまり意味はない。
「……とりあえず、座って」
私は壁に立てかけてあるパイプ椅子を開いて、円城茜を座らせた。
「お茶、淹れるから」
「ありがとう」
木と土と、あとちょっぴり肥料の匂いのする古びた部屋の中で、円城茜の存在は異質だった。
おだやかなまどろみが破られた、この感じ。
でも、けして不愉快というのではない。
――美しいものを、嫌いになれるはずがない。
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