「要芽、絵を持って僕のアトリエにおいで」
私が中学生のときの話だ。
ある休みの日、コンテストで金賞をもらったという話を父にした。
すると、そう言われた。
父のアトリエは明かり取りの窓が多くて、庭側は一面ガラス張りになっている。
更に天井に小さな照明が並んでいるから、母屋とはまるで別世界のような明るさだ。
古びたイーゼルには、父のキャンバスが載っている。
そこには知らない町の風景が描かれていた。
父はよくひとりでスケッチのための旅行に出かける。
そこで下絵を描いたものだろう。
部屋の隅には、キャンバスがいくつも重ねてある。
壁に飾られている絵は、特に父が気に入っているものだ。
「………………」
父は丸まった画用紙を広げた。
1足の履き古したブーツを描いた絵だ。
柔らかい笑顔を浮かべて、父は言った。
「要芽は本当に、丁寧に絵を描くね。特に革のよれてざらついたところなんか、見事じゃないか」
私はあまり家で褒められ慣れていない。
だからこの父の言葉に、身体が痺れるような思いをした。
父のアトリエが、チカチカと光を増した。
「君は学生時代に、きっといくつも賞を取るんだろう。努力して、美大にも入るかもしれない」
父は、私の絵を眺めて言った。
重たい、声だった。
「でも君には、その先がないんだ。そこまでなんだよ、要芽」
何を言われたのか、わからなかった。
ずずず、と血の気の引く音がして、怖ろしいことを言われたのだと知った。
父の柔らかい笑顔は、人の運命を見通すときの、あの悲しげな色調を帯びた。
「ここに飾ってある絵と、君の絵との違いがわかるかい?」
お父さんの方が上手だと思う、なんて答えられない。
そんな答えは、父の欲するところではない。
それくらいのことはわかっていた。
「僕の絵と君の絵は、完全に分断されている。僕には僕の世界がある。世界は昔からあったし、これからも変わっていくだろう」
父は、私の絵を丸めて返した。
「君はとても器用だ。でも絵を描くのに必要不可欠な世界、その芽が何もない。君はけして、絵で大成することはないんだ」
そう言って父は、私を抱きしめた。
父の胸板で、私の絵は潰れた。
「気づくのが遅れて、すまなかった。絵を教えて、本当にすまなかった」
父はそう言って、私の頭を撫でた。
――その日以来、私は絵を描くのをやめた。
しかし、物心ついたときから握っている絵筆を手放すことはどうしてもできなかった。
高校に上がって、美術部に入った。
それでも、絵は描かない。
――――――。
今日、部員はみんな外に写生に出ていて、部室にいるのは私と円城さんだけだ。
円城さんはエプロンをドロドロに汚して、画用紙に青い絵の具を塗っている。
画用紙に塗られた青は不均一で、ところどころ水気でべっとりと紙が歪んでいる。
彼女はいちど塗った上に色を重ねたり、遠いところをいきなり塗り始めたり。
ラテックスの手袋を嵌めた、その手が止まった。
「神崎さん」
いつも通り、耳の奥に染み通っていくような、美しい声。
円城さんは、時計を見つめている。
「今日は園芸部に行かなければいけない日なの」
「土に堆肥を混ぜるんでしょう、スコップで」
円城さんは頷いた。
彼女が首を動かすと、黒髪に当たる光の具合が変わる。
「その作業に、円城さんは必要ないんじゃない?」
私は、画用紙に赤い絵の具を塗りつけている。
絵は描かない。
ただ、色を塗るだけ。
円城さんもそれは同じだ。
「前も似たような作業をしたとき、円城さんはスコップを持たずに眺めていたでしょう」
私は自分の筆先を見つめた。
茜色のひとすじを、画用紙に引く。
「でも円城さんの画用紙は、円城さんがいないとそのままよ」
くだらないことを言っているのはわかっている。
ただ画用紙に色を塗ることの意味のなさと、園芸部の作業を眺めている意味のなさは、きっと同じだ。
「だから円城さんは今、ここで画用紙で色を塗っているのがいちばんいいのよ」
私は再びパレットから絵の具を拾って、ひとすじの線を引く。
さっきの線と離れもせず、重なりもせず、2本の線はぴたりと触れ合う。
「その方が邪魔にならなくて、小此木さんも安心するかもしれないわね」
「そんなことはないわ」
円城さんは、私の目を見て言った。
「巴は、私の顔が好きだから」
そうなのだ。
円城さんは小此木巴のことを下の名前で呼ぶ。
そのたびに私は、胸の奥を針でチクリと刺されるような思いを味わうのだ。
この進学校で、ひとり髪を金色に染めて、誰も寄りつかせない小此木巴。
そんな彼女が、どうして茜に目をつけたのか。
顔が好きぐらいのことで、円城さんをとられてはたまらない。
最初に声をかけたのは私なのだ。
「顔がきれいなことが、園芸部の仕事に役立つの?」
気がつけば、私も円城さんも、色を塗ることをやめていた。
「花を咲かせるために何ひとつできなくて、それでも円城さんは園芸部に必要なの?」
乾いていく絵筆の先に視線を移して、円城さんは答えた。
「必要ないのかもしれないわね」
「ならここにいて!」
私は、思いのほか大きい私自身の声に驚いた。
でもその驚きは、ついて出る言葉を止めることはしない。
「円城さんは、色を塗ることができるんだから……だから、できることをしようよ」
「でも、巴が待っているわ」
「人はいつまでも待たない」
顔だけで円城さんを選んだ小此木巴が、どんな理由で円城さんを待ち続けるというのか。
小此木巴は何にも執着していない、なんでもできる人間だ。
人と寄り添うことすら、きっと必要としていない。
じゃないと、あんな格好をして人をはねのけたりしない。
小此木巴に、円城さんはいらない。
「私には円城さんが必要だよ」
私は円城さんの、青く染まったラテックスの手袋を握った。
手のひらに、べとりと絵の具が付いた。
「……画用紙に色を塗り続けるなんてこと、ひとりじゃ孤独すぎる」
円城さんは、再び私の目を見た。
いつもの、澄み切った無表情ではない。
わずかばかりに細められた切れ長の目は、きっと何かに思い悩んでいる。
美術部と園芸部を――私と小此木巴を秤にかけているのだろうか。
でも、円城さんにやりたいことなんて、きっとない。
「園芸部は、花を咲かせられなければ失敗でしょう。でも私たちのやることに失敗なんてない」
円城さんは、小さく頷いた。
私が美術部に勧誘した、あの日と同じように。
――――――。
円城さんは、その美しい姿とは裏腹に、何をやってもうまくできない。
毎日失敗するその姿を見て――私は運命だと思った。
私は勉強や運動も人並みにできるし、調理実習でお皿を割ったりもしない。
けれども、私には絵を描く才能が無い。
そのくせ、絵筆を握ることを忘れられずにいる。
人生をかけて取り組んできたことが無意味なら、それは何もできないのと同じことではないだろうか。
私と円城さんは同じなのだ。
円城さんがお皿を割ったその日、私は思い切って声をかけた。
入る部活を決めてあるかどうかを尋ねると、まだだということだった。
「一緒に美術部に入らない?」
椅子に座っていた円城さんは、長い睫毛をこちらに向けた。
「絵は描けないわ」
「私も、もう描けないの」
私は円城さんに微笑みかけた。
「だから……色を塗るだけにしましょう」
円城さんは小さく頷く。
そして、あっさりと美術部に入ってくれた。
――――――。
絵には失敗がある。
でも、ただ画用紙に色を塗ることに失敗なんてない。
画用紙がよれようが、穴が空こうが、色を塗っている事実に変わりはない。
私たちは今、失敗のない世界にいる。
何もできない円城さんが、才能の無い私が、何かと向き合うことを許された世界に。
――そのとき、部室のドアが勢いよく開かれた。
現われたのは、小此木巴だった。
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次回は、巴の茜奪還です!
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