ポップコーンのバターと、あと何だろう。
映画館の匂いというのは独特だ。
掲示板を見てみると、15分後くらいに恋愛映画が始まることになっていた。
もう1時間待てば、サスペンスアクションものが始まって、私としてはこちらの方が好みだ。
というか恋愛映画というものをまともに見たことがない。
「何が観たい、とかある?」
「私、映画を観たことがないの」
思いもよらぬ返事がかえってきた。
高校生になるまでこの日本で生活していて、映画を観たことがないなんてことがあり得るのだろうか。
まあ、本人が言うからそうなのだろう。
「………………」
そうなると、サスペンスアクションは避けた方が良いのかもしれない。
猛スピードで二転三転する展開に、茜がついていける気がしない。
そうなると、間口が広そうな恋愛映画を選ぶのがベターなのかな。
『君との時間は過ぎてゆく』
こんなタイトルに、俳優のバストアップがニョキニョキ生えてるポスター。
うわあ、みじんも興味が湧かない。
でも食わず嫌いも良くないのかもしれない。
ここは自分の世界を広げると思って。
「これにしよっか」
「ええ」
私はコーラ、茜はアイスティー。
大きいバケツに入ったポップコーンはふたりで分ける。
柔らかい椅子で眩しいライトを浴びて、映画を待つこの時間は嫌いじゃない。
茜は膝の上に手を置いて、静かに始まるのを待っていた。
「ポップコーン、食べな」
「ええ」
長い予告編が終わり、映画が始まる。
茜はポップコーンにはあまり手を付けず、ほとんど私ひとりで食べてしまった。
高校生の主人公が不思議な男の子と出会う。
最初は変なやつ、とか思っていたのだけれど、いろいろあって魅力を見つけていく。
そして彼は卒業と同時に東京に行くことになっていたのだけれど、難病で倒れて東京行きは取りやめになる。
男の子の回復を願う心と、もう少し一緒にいたい心の板挟みになる主人公――みたいな。
ちなみに最後に男の子は死んだ。
客席のあちこちからすすり泣きが聞こえる。
私はそんなにピンと来なかった。
なんかJポップが流れて、字幕が始まる。
それはなんか新鮮な気分。
私は邦画を観慣れてないんだな、要するに。
で、茜はというと――。
「………………」
――ただポケーと画面を眺めていた。
上映中に手を握ってくるとか、すると思っていたのに。
字幕が流れ終えて、映画館の明かりが点いた。
「どうだった?」
茜に尋ねると、高い鼻先をこちらに向けて言った。
「なんだかきらきらしていたわ」
そういえば、光の粉をまぶしたような効果をつけた映像が多かった。
たぶん、あれのことを言っているのだろう。
茜もピンと来なかったのかな。
この選択は失敗だったか。
ところが映画館を出ると、茜がこんなことを言い出した。
「巴、手を繋いで」
「ここで……?」
いきなりのことで、私は大いに戸惑った。
私自身は、周囲の目をあまり気にしないタイプだと思っていた。
でもここに来て、自分たちがどう見えるだろうということが妙に気がかりになる。
仲の良い姉妹、くらいに見えるだろうか。
「なんで、今なの?」
「映画のふたり、楽しそうだったから」
なるほど、何も考えずに映画を観ていたわけではないらしい。
「………………」
手を繋げば、お出かけからデートへ大きく傾く。
そして茜は今日のこれを確実にデートだと思っている。
私は心の中でなんとなくそれをごまかしていた。
茜にとっては、キスへの階段なのだ。
それが私には、少し怖かった。
だからといって、それが手を繋ぐことを否定する理由にはならない。
それはなんというか――不誠実というものだ。
「わかった」
私は茜に手を差し出した。
茜は蕾の開くような微笑を浮かべて、私の手を握った。
いつものように、すべすべした、冷たい手。
学校から外へ出て手を繋ぐのは、なんだか変な感じだ。
私たちは制服に守られていたのだな、と思った。
私服でふたりの関係を進めるのは、とても勇気が要ることだ。
ピンクのパーカーとスキニーは、あまりにも私過ぎる。
無防備だ。
――そして、そんな無防備な姿を、見られた。
ちょうど画材屋さんの前を通ったときだ。
「あ」
と声をあげたのは、向こうだった。
私は思わず手を引っ込めそうになった。
――そこにいたのは、神崎要芽だった。
「………………」
彼女の印象は、ひとことで表わすと、シャープ。
ざっくり切った感じのショートカットが特徴的だ。
膝丈のサロペットに大きめの白い英字カットソーというのが、いかにも美術やってますって感じ――考えすぎかもだけど。
「こんにちは円城さん、小枇木さん」
神崎要芽は、私たちの手にちらりと目をやった。
「こんにちは」
「……こんにちは」
茜はいつも通り自然に。
私は、どうだっただろうか。
「………………」
私は茜を美術部から半分奪った存在だ。
部長の柊木英子は平気な顔をしていたけれど、他の部員がどう思っているかはわからない。
特に、相手は神崎要芽だ。
お昼ご飯を、茜と机を付き合わせて食べている神崎要芽。
机の角と角をくっつけて、もうここは満員ですよと強調する神崎要芽。
茜への執着心は、ちょっと計り知れないものがある。
「円城さん。青い絵の具、そろそろ切れるよ」
「そうだったかしら」
「そうだよ。よかったら買っていったら?」
茜は私の顔を見下ろした。
私はできる限り自然なふうを装って、うなずく。
「いいんじゃない?」
そうして、茜と神崎要芽は画材屋さんに入っていく。
問題は――茜が私の手を離さないということだ。
「………………」
神崎要芽は、私たちの手に再び目をやる。
とても気まずい。
どう見られようが構わないが、悪意を向けられるのは勘弁だ。
「円城さんは、いつも種類を間違えるから……」
私にはその声が、特別大きく響いたような気がした。
すさまじい種類の筆、奇妙な形の定規、アクリルの棚にゴロゴロと差してある絵の具。
見慣れない画材を眺めながら、私は意識的にふたりから目を逸らしている。
茜を見るのすら、気まずかった。
ここは美術部の延長線上だ。
妙に息苦しい。
私はふてくされているように見えたかもしれない。
そうだったら、少し悔しい。
どう見られても気にしない、と私は自分に言い聞かせるのだけれど、それでもプライドはある。
態度というのは、プライドに関わってくることだ。
買い物が終わった。
茜の白いトートバッグにストンと放り込まれた絵の具の袋が、なんだか石ころのような違和感を私に覚えさせた。
「………………」
画材屋さんを出たところで、神崎要芽と別れることになった。
このあと一緒にお茶でも、とかなったらどうしようかと思っていた。
未だ、私の手は茜に強く握られている。
「じゃあまた、月曜日」
これから一緒にお茶に、なんてならなくて本当に良かった。
茜の手のひらに包まれて、私はイヤな汗をかいている。
「小枇木さんも、また……」
「またね」
妙に長い時間、目が合った気がする。
別に睨まれたわけでもない、とは思うけど。
なんて考えるのは、楽観的すぎる気がしなくもない。
美術部員とは、実にビミョーな感じだ。
緊張が解けた私は、なんだか甘いフラッペが飲みたくなった。
私はチェーン店の喫茶店に入ることを提案した。
「行く?」
「ええ」
私たちが手を繋いでレジに並ぶと、店員さんが微笑んでいた。
やっぱり姉妹に見えているのかな。
私がキャラメルマキアートを頼むと茜は私と同じものを頼んだ。
「やっぱり、こういう場所も初めて?」
「ええ」
私がトレイに手を伸ばすと、茜はようやく私の手を離す。
マキアートの乗ったトレイが、ぴたりと手のひらに貼りついた。
窓際の席が空いていたので、そこに座った。
私がクリームをすくうと、茜も同じようにすくう。
私がストローを吸うと、茜も赤いくちびるで同じようにした。
神崎要芽によって熱せられた頭は、キャラメルマキアートの甘味に冷やされる。
トートバッグの中に今もある、絵の具の袋への意識も薄れてきた。
「映画の話でもしよっか」
あまり広がりそうもない話だけれど、声を交換するだけで、こういうのはきっとこれでいい。
私の声に、茜のガラス風鈴とヴァイオリンが返ってくる。
これは、これで、こういうものとして。
しかし意味の軽い会話の中で、意外に大切な話が飛び出したりもするのだ。
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