水道で手を洗いながら、私は茜の鼻先の泥を指で拭ってやった。
茜はぽかんとしていた。
何が起こったのかわかっていないらしい。
ちょっと、可愛いと思った。
「……どうやったら、こんなところに泥が付くんだよ」
「泥が。どうしてかしら、不思議ね」
茜はいつも通り、私がジョウロで水をかけて手を洗う。
それから園芸部室で、ふたり着替えた。
「制汗スプレー使いなよ、制服汗臭くなるよ」
「ありがとう」
私は後ろ手でスプレーを渡そうとしたけれど、なかなか受け取る気配がない。
振り向くと、茜はキャミソール姿で、両手を広げて立っていた。
「………………」
なんだか、慣れた様子だ。
制汗スプレーをかけてもらうのに慣れている。
私は黙って茜の身体のそこここに、スプレーをかけた。
中学時代、こんなふうに誰かに制汗スプレーをかけてもらっていたのだろうか。
ということは、茜にも体育を見学していなかった時期があるということだ。
――そして、誰かに面倒を見てもらっていた。
「………………」
なんだか釈然としないのは、ただの嫉妬だろうか。
だとしたら恥ずかしい話だ。
人が誰かと触れ合ってきた歴史を持っているのは当たり前のことで、私はそれをちゃんと知っているはずだから。
「こんなもんでいいでしょ」
「ありがとう」
茜はそう答えて、スカートを履き始めた。
私はとうに着替え終えている。
茜の着替えには長い時間がかかった。
けれどもタイの結び方などは見事なもので、出来上がりは美しい。
制汗スプレーの匂いの立ちこめた部屋で、私は紅茶を淹れる。
少し遅い時間になっているけれど、これは習慣だ。
先輩の残したアールグレイは、これで使い切った。
最後、きっちりふたり分残っていた。
肩の荷が下りたような、また新たなものを背負ったような、不思議な感覚を私は味わった。
制汗スプレーのシトラスと、アールグレイのベルガモットが混ざり合う。
「茜、疲れた?」
「少しだけ。でも役には立っていないから」
失敗してもいつも涼しげな茜が、意外なことを言った。
表情は、いつも通り。
月のように静かな、美しい顔だ。
「らしくないこと言うなよ」
「ええ」
家庭科室でお皿を割ったときのような、涼しげな顔。
私がティーバッグを捨てると、茜も同じようにした。
温かい紅茶が、疲れた身体に染み渡る。
暑いときに温かい紅茶、これもなかなか良いものだ
また汗かいちゃうかもしれないけれど。
「明日からは新しいお茶だよ」
「そう、楽しみね」
紅茶を飲み終えると、ふたりで手を握り合う。
中学のときも、手を握る相手くらいいたかもしれないな。
私にはいなかったけれど。
あ、意味のないことを考えてる。
重要なのは今、ふたりで手を握り合っているということなのに。
「巴」
茜は私たちの手元から、私の顔に目を向けた。
「園芸部にいた先輩って、どんな方だったの」
まさかそんなことを聞かれるとは思わなくて、私はすぐに答えられなかった。
すると、茜は私の手を握る力を少し強めた。
「……先輩か。なんていうか、地味な人だったよ」
「それだけ?」
「そりゃ人間だから、それだけじゃ収まらないけれど。先輩が私を見つけたんだ。私を怖がらなかった」
私がそう言うと、茜は握った手を組み直した。
指の間に、指を入れて、きゅっと握った。
「私も巴を見つけたわ」
「それは、私が茜を見てたからだろ」
「そうでなくても、きっと見つけたわ」
光を吸い込む瞳で、私をじっと見つめる。
赤いくちびるは、心もちツンとしているような――。
――妬いてるのかな。
茜に見つめられているとき、私はあまり頭が回らない。
でも、ふとそんなことを思った。
茜は再び私たちの手に視線を落とした。
赤いくちびるのかたちはそのままに。
「………………」
彫像のようだった茜から、白い殻が剥がれて、少しずつ血の通った皮膚が見えてくる。
そんな感覚を、嬉しいと思い始めていたのはいつ頃からだろう。
茜の“赤ちゃん”にも、ひととおりのことは教えた。
あと、私がしなくてはならないことはなんだろう。
というか“しなくてはならないこと”は、なくちゃダメなんだろうか。
こうして手を握って、それだけで良いような気がしてきた。
キスは未だに、よくわからないけれど。
「……良い先輩だったよ」
なぜ私がそんなことを言ったのか、自分でもよくわからない。
茜は、何も答えなかった。
「かなり遅くなっちゃったな。早く鍵返さないとお小言もらいそう」
「そうね」
ふたりの手が離れて、私たちはいつもの帰途についた。
空模様が良くない。
重たい雲が肩にのし掛かってきて、頭痛がしそうな、そんな天気。
もうすぐ6月だ。
――――――。
次の日、茜は園芸部室に来なかった。
花壇の土は寝かせてある最中だから、できることはプランターの水やりくらい。
私は自分の分の紅茶を淹れて、本を読みながら茜を待った。
かなり遅い時間までそうしていたのだけれど、茜はとうとう来なかった。
「………………」
読書はあまり捗らない。
そして、次の日にとうとう雨が降った。
こうなると、園芸部はとことんやることがない。
今日も茜は来ないんだろうか。
昼休みになって購買でパンを買う。
それを食べる前に、私は茜に声をかけた。
「昨日、来なかったね」
「ええ」
茜は箸を止めて、私を見上げた。
「何か、理由があったら教えて」
「今、園芸部の仕事は何もないでしょう」
答えたのは茜ではなく、その斜め前にいる神崎要芽だった。
「土を休ませている間をぼうっと過ごすよりは、美術部にいた方が有意義だと思う」
そうだ、神崎要芽は作業の見学に来ていたから、今園芸部がどういう状態にあるのか知っているのだ。
「小此木さん、あなたもそう思わない? まさかこんな雨の日にまで園芸部に行くなんて言わないよね」
「私の自由だと思うんだけど」
「円城さんにも、それを選択する自由があるわ」
茜は何も言わなかった。
それが答えみたいなものだ。
確かに神崎要芽の言うことは、一理あるどころか当たり前の話だ。
それでも私は、傘を差して園芸部室に行った。
早く家に帰っても仕方がないからだ。
晴耕雨読、いかにも園芸部らしいじゃないか。
私は屋根の雨音を聞きながら、本を読んだ。
今日は茜は来ない。
それがわかっていると、読書はよく進んだ。
私は先輩が卒業してから茜をここに迎えるまでの、あの静かな時間の中に沈んだ。
なんだか時間が巻き戻ったみたいだ。
案外、これが当たり前なのかもしれなかった。
美しいものをただ見ていたかった――それが最初の自分だった。
そこに突然の茜のキスで、私の生活は目まぐるしく変わった。
でも結局のところ、私の本質は一匹狼だ。
茜は“赤ちゃん”を成長させて巣立っていった、そんな感覚で良いんじゃないか。
そうして私は、ここで静かな毎日を過ごすのだ。
汚れた窓の外では、何も植わっていない空っぽの花壇が雨を受けている。
そのうち、あの花壇も賑やかになるだろう。
それまでは我慢してもらうしかない。
我慢してもらうって、誰に?
「………………」
私は心の引き出しを開けっぱなしにして、再び読書の海に沈んだ。
――――――。
そうして1週間が経った。
今日は土に堆肥を混ぜる日だ。
「今日は、円城さん休みなの?」
「………………」
この日にも、茜は来なかった。
日付を忘れているのだろうか。
昼休みにでも、釘を刺しておけばよかった。
先生は、スコップを園芸部室の壁に立てかけて、うんと伸びをした。
「まあ、スコップ使う作業だから、円城さんにできることはないかもね」
先生のそのひとことに、私はピクッと来た。
お門違いもはなはなしいけれど、それは怒りに似た感情だった。
「できることがなければ、来なくていいんですか」
私はそれを先生にぶつける。
自分の幼さが、止められなかった。
「ふむ」
先生は、まだ真っ白な軍手の指を、おとがいに当てた。
「考え方次第かしらね」
私の目を見て、先生は言った。
「あなたはどういう考え方をするの、小此木さん」
「すみません……ちょっと、失礼します」
私はスコップを地面に倒して、校舎に向かった。
何かができるできないの問題じゃない。
あれはふたりの花壇だ。
幼かろうがなんだろうが関係あるか。
――茜は今、園芸部にいないとダメなんだ。
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