翌日の夜。
ピアッサーは、痛みよりも音でビビらせてきた。
痛みはそれなり。
予想よりはちょっとマシだった。
銀色のファーストピアスは、左右の耳たぶにバランス良く収まった。
慎重にやった甲斐があったというものだ。
ネットで調べたところ、これを3ヶ月つけてなきゃいけないらしい。
私は茜が選んでくれた青い花のピアスを眺める。
8月。ネモフィラの花は、放っておけばもうすっかり散っていることだろう。
茜の顔に変わって、転校した先輩の地味な顔が浮かぶ。
――いつまでも先延ばしにできないこともある。
なんだか、いかにもな園芸部長になるのはイヤだった。
手が汚れるのがイヤだとか、そんなんじゃないけれど。
私はきれいなものが好きだけれど、花をあの先輩ほど愛していない。
けれども、花は容赦なく散る。
私は季節に追われる。
考えてみれば、学生ってそういうものか。
いつだって、私たちは追われているのだ。
私は青い花のピアスを机に置いて、電気を消してベッドに入った。
じんじんと熱を持つ耳たぶの違和感を、できる限り無視しつつ。
部屋の暗闇は、茜の黒髪の中みたい。
ピアスについていた青い花が一面に咲いている。
そこに茜がふっと息を吹きかけると、赤いガラスを薄く切ったような花に変わった。
「触ってはだめ」
茜の優しい声が、黒髪の中で響いた。
「手を切るといけないから」
そこで目が覚めた。
耳たぶはまだ少しうずいている。
ビビってないで、一昨日の夜に速攻で空けるべきだったかもしれない。
ネットでじっくり調べてから空けたかったのだ。
だから仕方ないといえば仕方ない。
家では、朝食は各自で用意することになっている。
台所の取り合いで冷戦状態に陥ることもあるので、私はなるべく早起きして自分の時間を確保している。
ベーコンエッグとトースト1枚。
なんてことのない朝食。
茜はなんか、朝食はしっかりしたものを食べていそうだ。
なんとなく洋風なイメージ。
でも洋風の豪華な朝食ってどんなのだろう。
銀色の食器にゆで卵を乗せて、スプーンで割る、みたいな。
どうもイメージが貧困だ。
いつも通りひとりぶらぶら登校して、それなりな時間に教室に入る。
茜はいつも私より先にいる。
おはよう、とかは特に言わない。
理由なんかない、習慣だ。
私は席に着いて、ぼんやりと茜を眺める。
茜は、私を見つめ返したりしない。
これも、習慣かな。
退屈な授業を茜を眺めることで乗り切って、放課後。
そろそろ萎れ始めたネモフィラの、土が乾いていたので水をやって、プランターは茜のためにおいておく。
ほんの少し、形だけ水をちょろっとやらせて、仕上げは私がやればいいだろう。
そのちょろっとが難しいんだけど。
私は部室に入って、ガーデニング図鑑を開いた。
いよいよ、選ばなきゃいけない。
植え替えの時期としては、ちょっとばかり過ぎてしまった。
でも、何もしないよりは良いだろう。
私はテーブルの横にパイプ椅子を向けて、ちょっとだらしない格好で図鑑をめくっていた。
分厚い図鑑には、ページから花びらがこぼれ落ちそうなほど、たくさんの種類の苗が並んでいた。
ここから選ぶのか――。
もう勘でもいいから、適当に何か選ばないといけない。
そんなことを考えていると、ドアがノックされた。
「巴」
「茜」
なんだか合言葉みたいだけれど、お互いの名前を呼んでドアを開けることになっていた。
「これ、選んでるんだけどさ……」
私が言いかけると、茜は何も言わずに私の膝の上に、前を向いて飛び乗ってきた。
「な、ちょっと何!?」
「巴」
茜は私の両手首を掴んだ。
私は図鑑を取り落とす。
手首が、腰の後ろに回される。
自然と、顔が上を向いた。
もう、茜の髪の中にいる。
「ちょっと……む……」
茜はくちびるを薄く開いて、わたしのくちびるを食んだ。
電車でのキスとはまるで違う。
美しい獣に食べられる、熱に溶け消える小動物のような感覚を、私は味わった。
くちびるが私を這い回る。
ときには力を入れて固く、ときにはとろけるように柔らかく。
私から私の味が消えてしまうまで、茜は暗闇の中で私をめちゃくちゃにした。
いつしか手首から手は離されていて、私の後ろ頭と腰に手が回されている。
茜の膝がぎゅっと私の腰を挟んでいる、その熱。
制服のダブルの金ボタンが、ぶつかってカチカチと音を立てる。
「ふ……う……」
「ん……」
くちびるは、剥がれるような感覚を残して私から離れていった。
茜はただ黙って、私を見下ろしている。
「……なんで、いきなりこんなことしたの」
私の声は震えていた。
指先も震えている。
呼吸がうまくいかない。
心臓のバクバクがすごい。
私の心ではどうにもならない、身体中が驚いていた。
「電車の中のキスが、ちょっとすぎたから」
あの小鳥のようなキスを、今の今まで引きずっていたらしい。
生殺しだったってことだろうか。
自分でやっておきながら――。
「びっくりさせないで……」
「でも、巴は私を押し返さなかったわ。前みたいに」
確かに途中から両手は自由になっていた。
だからといって、あんな熱く濡れた嵐から、そう簡単に逃れられるものじゃない。
「デートも終わったから、もう自由にキスできるのよね」
やっぱりそう考えていたか。
キスできる立場になったからって、自分の好きなタイミングでいつでもキスできるわけじゃないってことを、どうにかして教えないといけない。
でも、どこか安心している自分もいる。
名前で呼び合って、手を繋いで、デートしないと、茜は誰かにキスしたりしないのだ。
“赤ちゃん”を少しコントロールできるようになったということだろうか。
でも、茜が誰かにキスしたいと思って、その3つをさっさとこなしてしまえばどうなんだろう。
茜は月のようにきれいだ。
女子でも拒めないような美人だ。
キスできる相手を次々と増やしていったら――それは良くない。
ひとり相手を決めたら、それ以外の人とはキスしてはダメ。
それを教えようと思った矢先に、ふと浮かんだ疑問。
――私って、茜の何だ?
茜の“赤ちゃん”をどうにかしたくて、ここまで来てしまったけれど、結局のところ私は何者になったのだろう。
茜だけが変わって、私ひとり変わらないなんてことがあるだろうか。
私はきっともう、茜の何かだ。
そう考えると、急に怖くなった。
茜が美しすぎるのが、怖くなった。
「ひとつ、言っておかないといけないことがあって……」
茜は私の膝から降りずに、こくりと頷いた。
整いすぎた顔が、あまりにも近いところにある。
その赤いくちびるに――。
「キスする人をひとり決めたら、他の人とはしちゃダメ」
――私は鍵をかけた。
「ええ、わかったわ」
茜は私の頬に手のひらを当てた。
今は、冷たくない。
「あと、キスしすぎるのもダメ」
「なら、少しだけ」
「わかった……」
茜と私は、もういちど口づけを交わした。
優しく、くちびるが触れあうキス。
茜の黒髪の隙間から、西日がちらちらと差している。
それが、すぐ目の前にある茜の瞳と肌に、不思議な陰影を作った。
少しだけ息が止まって、それから茜の顔が離れていった。
こんなきれいな顔で、私だけにキスをするんだ。
それって――。
「……そろそろ降りて、足が痺れてきた」
「ええ」
茜は私の膝から降りて、ガーデニング図鑑を拾い上げた。
「本を落としてしまって、ごめんなさいね」
「別にいいよ」
私は茜から図鑑を受け取ると、テーブルに広げた。
茜は私の隣に座る。
「どれ植えるか、決めよっか」
「巴、ピアスしてる」
「……今気付いたのかよ」
茜のことだ。
たぶん自分のプレゼントと、このファーストピアスとの関連性はわかっていないだろう。
あの青い花のピアスを学校にしていったら、茜はどんな顔をするだろう。
ふたつの花壇と、私の耳。
――どちらも咲くのは、たぶん8月頃。
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