円城茜は、私の机に手をついて微笑んでいた。
私は机から手を離して、椅子の脚を固く掴んだ。
「どういう……つもりだよ……」
突然のキスに対して自分自身が何を思っているのかは、よくわからない。
ただ、自分の声の震えとか、心臓の激しい鼓動ばかりが気になった。
「いつも、見てるから」
「見てるからなんだよ……」
とびきり美しいロシアンブルーなんかに、追い詰められたネズミはこんな気持ちなのだろうか。
視線に気づかれているのも、少しショックだった。
もっとぼうっとした女だと思っていた。
私はますます追い詰められる。
「何さん、だったかしら」
めまいがしそうになった。
この女――ひと月半も同じクラスにいて、私の名前を知らないのか?
というか、名前も知らない相手にキスしたのか?
信じられない。
「小此木巴……」
未だショックから立ち直れていないのが半分。
ふてくされているのが半分。
そんな感じで、私は答えた。
「小此木さん」
円城茜は光を吸い込む瞳で、私の目をまっすぐに見つめてくる。
こんな近くで――。
遠くの席から眺めているのとはまるで違う。
入学式のあの日見た目だ。
自分の座っている椅子が、ちょっとだけ心強い。
じゃないと、たぶん倒れてしまう。
円城茜は続けた。
「目が、好き」
「……は?」
私は自分のアーモンド型の目のことが、まあそれなりに嫌いではないけれど、円城茜と比べられるような代物ではない。
こんなにきれいな、切れ長の目を持つ女が、誰かの目を気に入るなんてことがあるだろうか。
「あなたの目が、いちばん好き」
鏡を見ろよ、とか、そういうことを言いたい。
あんたよりきれいな目をしたやつなんかいないんだよ、と。
もちろん、今の私のくちびるは、そんな器用には動いてくれない。
正直、自分の名前を名乗るだけでも、もうギリギリだった。
「目が好きになって、だから」
髪をかき上げて、円城茜は言った。
「キスしたの。わからないけれど」
何がわからないんだよ、何もわからないのはこっちだよ!
そう叫びたくなった。
私は顔を見ているだけで満足だったのに、どうしてこんなことになったのだ。
「部活があるから」
そう言うと円城茜は、金属質に輝く髪をさらりと揺らして、教室を去って行った。
残るのはただ、リンスの甘い香り――。
窓の外から聞こえる、体育会系のざわめき。
そんなものを聞きながら、私は1時間以上席から立ち上がれなかった。
――――――。
こんな日でも習慣というのは、意外とこなせてしまうものらしい。
私は教室の鍵を職員室に返し、代わりの鍵を手に取る。
そして靴を履き替え、学校の中庭に出る。
昨日より傾いた西日に照らされた、小さな小さな建物――園芸部の扉を開けた。
そう、私は園芸部員だ。
たったひとりの。
そして私がこの学校に来る前も、園芸部員はたったひとりだった。
野暮ったい眼鏡をかけた、ちょっと鈍くさそうな先輩だった。
「きれいにしてるでしょ」
なんとなく花壇を眺めていた私に、先輩は言った。
話しかけづらい雰囲気を作るために、わざわざ髪を金色に染めているのに、先輩は平気で話しかけてきた。
そうなれば、答えるしかない。
「……そうですね。きれいです」
適当に答えたわけだけれど、きれいなのは本当だった。
寄せ植えをしたりはしていないのだけれど、一面が同じ色に染まっている花壇も、それはそれで良いものだ。
私は、美しいものが好きだ。
「でも、もう世話する人がいなくなるんだ。私、転校するから」
「………………」
結果、私がたったひとりの園芸部員のバトンを渡された。
押しつけられたわけではないけれど、気づけば手の中にあったという感じ。
私がやらないとたぶん誰もやらないし、そして私がやってるから誰も園芸部に近づかないという悪循環。
まあ、いいけど。
そうして今日も、花壇に水をやる。
見頃なのはネモフィラというスカイブルーの小さな花で、花言葉は『どこでも成功』という脳天気なやつ。
こんなことをやっているから不良にもなりきれないのだ。
そんなときにも、ふと円城茜とのキスの瞬間がよみがえる。
気がつけば同じ所に水をやり続けていたりして、どうもダメな感じだった。
習慣の力にも限界はある。
それから木造の部室に戻った。
外から見たボロっちい外見と違って、中は案外清潔で、狭いなりに快適だ。
肥料が置いてある物置とは出入り口が別だから、臭いもそんなにしない。
スケジュールの枠が印刷されている黒板には何も書いてないが、先輩の字の跡がわずかに見て取れる。
全部、花の名前。
私もきっといつか、ここに何かを書き足す日が来るのだろうか。
夏に向けて、空けてある花壇がひとつある。
そこに、たぶん何か植えなくてはならない。
その苗の名前を、書き足すのだろうか。
7月、開花、とか。
「………………」
紙コップで紅茶を淹れる。
こんな掘っ立て小屋みたいな建物にも、電気は来ていた。
先輩の残したティーバッグは、そろそろ切れかけている。
たぶん、買い足すのは私なのだろう。
思いきり「柑橘ですよっ!」って感じの、アールグレイのわざとらしい香り。
嫌いじゃないけど、好きでもない。
あの鈍くさそうな先輩が、思い出される。
買い足す時は、ちょっと良いスーパーで良いやつを買おう。
「………………」
でも今はそれより、円城茜だ。
『目が好きになって、だから……キスしたの。わからないけれど』
「知るかよ……」
私はひとり、ぼそりとつぶやく。
紅茶に濡れたくちびるを、少し触ってみる。
円城茜の香りが、アールグレイの安っぽい香りに隠れている気がする。
――目が好きになって、キスした。
それって、赤ん坊が気に入ったものをなんでも口に入れるのと同じ事なんじゃないか?
ふと、そんなことを考えた。
円城茜は、赤ちゃん。
あの美貌の中に、赤ちゃんがいる。
そう考えると、いろんなことがしっくり来る気がした。
何やってもダメなのも、赤ちゃんだったら仕方ない。
高校生と同じ事をやらせるからいけないのだ。
「そしたら……」
私は再びくちびるに触れる。
そしたらきっと、キスの相手は私だけではない。
たとえば同じ美術部の神崎要芽とか、ああいう相手とキスしていてもおかしくない。
だって気に入ったら、口に入れてしまうのだから。
「………………」
それって、すごくもやもやする。
いちどキスされたからって、所有欲が生まれたわけじゃない。
そこまで私はバカじゃない。
ただ、誰にでもキスしてしまう女の美しさって何だ? というイヤな疑問が湧いて出てくるのだ。
それがたとえばくだらない男子だったりしたら、それはもうただのバカ女だ。
くるくるパーだ。
円城茜のあの容姿に、それは許せない。
せめて段階を踏ませることを教え込まなくてはいけない気がする。
いきなりのキスは、円城茜の中の赤ちゃんがやらせたこと。
その赤ちゃんを、まっとうな高校生まで育てるということを、今まで誰もやってこなかったのだ。
「………………」
なんだか、園芸部を引き受けたときと同じような感覚がある。
クラスの誰も、円城茜を見るばかりでどうにかしようとはしない。
いつでも、最後に残るのは私だという気がする。
普段よりゆっくり紅茶を飲んで、丸めた紙コップをゴミ箱に放り込むと、私は部室の鍵を閉めて職員室に返した。
そうしていつものようにひとり、学校をあとにした。
明日、円城茜に言わなければならないことがある。
――――――。
翌日の昼休み。
円城茜は、いつもふたりでお弁当を食べている。
相手は美術部の神崎要芽。
円城茜の机の角は、後ろを向いた神崎要芽の机の角にくっついている。
辺ではなく角をくっつけているのがポイント。
このメンバーは受付終了です、というローカルルールだ。
誰もふたりの間に入ろうとなんてしないのに。
そして楽しくお喋りしながら食事しているのかというとそんなことはなく、ふたりは黙ってもくもくとお弁当を食べている。
円城茜の食事の所作は美しい。
普段の“顔だけさん”っぷりが嘘のように、振る舞いが洗練されている。
赤いくちびるに、黒豆が行儀良くするりと入ってゆく。
これでどうして、何をやっても不器用なのだろう。
円城茜の七不思議のひとつ。
他の6つは知らない。
私は購買で買ったパンを豆乳で流し込んで、円城茜の食事が終わるのを待った。
ひとつひとつの動作がゆっくりで、やきもきする。
弁当箱をふろしきに包んで鞄にしまった、その瞬間に私は声をかけた。
「円城さん、顔貸して」
「……ええ」
円城茜は、すっきりと美しい顔で答えた。
教室が、ほんの少しざわめいた。
“顔だけさん”が不良に絡まれた――たぶんそんな構図。
知るものか。
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