円城さんは、色を塗るだけでも下手くそだった。
もちろん画用紙をきれいに1色で埋め尽くすには、多少の技術は要る。
しかしそれを考慮しても、円城さんはあまりにもだった。
塗る方向も水分もめちゃくちゃだから、紙が破れることさえ珍しくなかった。
でも、それよりも。
私はとにかく円城さんが制服や上履きを汚さないよう、エプロンや靴カバーやらに工夫をこらした。
エプロンは、肩紐をめいっぱい上げたのと下げたのとで2重にする。
円城さんは背が高い上に、どこに絵の具を飛ばすかわからないからだ。
靴カバーはビニール袋でソックスまで保護した。
その他いろいろな工夫で、なんとか円城さんを絵の具から守りきることができている。
そうして毎日、ふたりイーゼルを並べて画用紙に色を塗るのだ。
私の画用紙はただ青色に、円城さんの画用紙はただ赤色に塗りつぶされていく。
同じ1年生や先輩たちは不気味がったし、「ちゃんと描こうか」みたいな話をされたことはあったけれど、私はこれが良いんですと言い張った。
ダメならクビにしてください、と。
そこに美醜なんてない。
それが心地よかった。
ふたりで、美しくも醜くもない作業を続けていられるなら、それだけでもう何も要らない。
――しかし、円城さんはそうではないらしかった。
最近は、画用紙の半分も塗らないうちに、いそいそと片づけを始めてしまう。
絵の具箱を落としたり、筆洗をひっくり返したりするのはいつものことだけれど、終わらせるとすぐに鞄を持って行ってしまう。
「どこへ行くの?」
「園芸部よ」
園芸部――小枇木巴。
ヤンキーが犬を可愛がっていると面白いのと同じ理屈で、このふたつの繋がりの奇妙さは、学年中に広まっている。
この進学校にはいないであろう(というか見たことがない)不良の小枇木巴の許へ、茜は何の用があって行くのだろう。
まさか花を眺めに行くだなんて思えない。
あの不良が真面目に花の世話をしているところも想像がつかない。
意外とちゃんとしてるのかもしれないけれど、そんなことはどうでもいい。
円城さん以外は、正直どうでもいい。
でも私はいつも「何しに行くの?」とは聞けないでいる。
――――――。
黄色いミニバラとマーガレットの吊りプランター。
この水やりだけ、茜に任せてみたのだけれど、やはり失敗だった。
プランターからドロドロと土が流出している。。
根っこが見えているところさえあった。
「まあ、おいおい、ね……」
「ええ」
失敗をした後の茜は涼しげだ。
リンスの香りにミニバラが甘く乗った。
私も失敗してへこんでいる茜なんて見たくない。
私はプランターに土を足して、少し湿らせる。
園芸部員として茜に何ができるのかは、今後の課題なのかもしれない。
あるいは――何をせずとも良いのだろうか。
そんなことも考えた。
でもそれは主に“赤ちゃん”をどうにかするために茜に深く関わろうとしている私にとって、何か逃げられない部分のような気もする。
何をせずとも良いと、確信を持って言えるなら、それはそれで構わない。
今の私には確信が無かった。
水やりを終えてふたりで手を洗う。
茜は手洗いも下手くそで、少し靴とスカートの裾を濡らしていた。
まあ、洗面台のない園芸部の蛇口で、濡れずに手を洗うのは、多少のコツがいるんだけど。
私は茜の前にしゃがむと。タオル地のハンカチでスカートの裾を挟んでやった。
「ありがとう巴」
「茜はさ」
園芸部室に入って、紙コップに紅茶を淹れた。
茜はお茶を飲んだり食事をしたりするときだけは、やらかさない。
きっと良いとこのお嬢さんなんだろうな、と思う。
ならこんな進学校じゃなくて、もっとのほほんとしたお嬢様学校みたいなところに放り込んだ方が、茜は楽だったんじゃないだろうか。
――こんなの、想像でしかないけれど。
そんなことを考えながら、私は茜が紅茶を飲むのを眺め、また私もお茶を楽しんだ。
茜が使っていると、普通の紙コップなのに、何か作法に適った茶器を使っているように見えるのが不思議だ。
ブランド物のティーカップとか使わせると、美しいんだろうな。
椅子もパイプ椅子じゃなくて、ニスも艶やかなネコ脚の、ビロードを張ったものだったり。
茜の作法は、どこか木の香りがする。
お茶が終わると、テーブルの上でふたり、手を繋いだ。
「茜はさ、園芸部に入って何かしたいことはある?」
「私は巴といられればいいわ」
そうだった、そんなことを言っていた。
ちょっと照れくさい話だけれど、私を求める以外のことで、茜の自主性というものを見たことがない。
まあ、自主的にあれこれやって被害を増やすよりは良いのかもしれない。
「……まあ、茜はさ。いたらいいよ」
「よくそんなふうに言われるわ」
そう答えた茜は、相変わらず冷たい美を発散していた。
紅茶で温まった手のひらの熱が、対照的に感じられた。
――――――。
茜とふたりでの帰り、長い1本道。
コンビニの近くに、柊木英子の小さな背中が見えた。
「巴」
すぐ側を歩いている背の高い茜は、私を見下ろした。
不思議と威圧感はない。
ちらちらと輝かしいものが降ってくるような心地がする。
「どうしたの……!?」
茜が、突然私の左手をきゅっと握った。
部室で紅茶を飲んだ後の手じゃない、冷たい手だった。
突然のことでびっくりしたけれど、茜の切れ長の目は真剣だった。
それにしても、園芸部室でもちょっと恥ずかしいくらいなのに、外で手を繋ぐなんて――。
いくら私が周りの目を気にしないタイプだといっても限度がある。
たまにテンションの高い先輩たちが手を繋いでいるのを見るけれど、それを私たちがやっちゃっていいんだろうか。
それは何か、一線を超えることである気がする。
「茜、外だとみんなが見るからさ……」
「お願い巴」
人に見られる、というか柊木英子に見られる。
彼女はなんと言うだろう。
なんだか、からかわれそうな気がする。
そうしてとうとう、コンビニの前に立っている小さな背中に辿り着いた。
「お、円城ちゃん、小枇木ちゃん」
柊木英子はポニーテールを揺らして、幼なげな顔でにっこりと微笑んだ。
「あの……何してるんですか?」
こっちが何してるんだ、という状況だけれど。
茜は相変わらず私の手を握りしめている。
「見てわかるっしょ? 買い食い。チキンひとついる?」
「いえ……結構です」
「えー、でも国産ハーブ鶏だよ?」
そんなやりとりをしている間に、柊木英子は私たちの手に目をやった。
「口に入れてあげるよ、手ぇふさがってるでしょ」
確かに片手にバッグ、片手は茜だから、手はふさがっている。
手をほどけばいいものだけれど、茜が離す様子はない。
柊木英子は、小さなチキンを私たちの口にくわえさせた。
「これで共犯だね」
歯を見せて笑う。
そして最後のチキンを自分の口に放り込むと、ゴミ箱にカラを放り込んだ。
「背徳感ってのは、最高の調味料だね」
「あの、柊木先輩……」
じっと黙っていた茜が、赤いくちびるを開いた。
「電車通学ですか?」
「ん、そだよ」
「なら、一緒に帰りましょう」
「んー」
柊木英子は指についた調味料をぺろぺろと舐めて、お手拭きで拭った。
そしてローファーのつま先で、地面をトントンと蹴る。
「やめとく。私はそこまで野暮っちくないよ」
柊木英子は、私の目をまっすぐに見た。
子供っぽい丸い目に、不思議な落ち着きの色が宿っている。
先輩というのは、年上であるだけでどこかミステリアスなものだったりするけれど、柊木英子はその先にいる気がする。
「じゃあ小枇木ちゃん、円城ちゃんに……なんだろうな、優しくね」
そう言い残すと、柊木英子はスカートとポニーテールをひるがえして、軽快に走って行った。
思っていたより、ずっと足が速かった。
文化部のくせに運動ができるタイプか。
「じゃあ、私たちも帰ろうか」
「ええ」
せっかく繋いでしまった手をふりほどくのもどうかと思って、私たちはそのまま歩くことにした。
風の加減で、茜の甘い匂いはふわふわと変化した。
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