「名月や、座に美しき顔もなし……」
クラスの誰にも聞こえない声で、私は呟いた。
――――――。
人間がうぞうぞと詰め込まれている、教室という空間は、はっきり言って最悪だ。
なんでみんな平気な顔をして先生の話を聞いて、ノートなんて取っていられるのか理解できない。
しかし私は高校に入って、自分で予想していたほど授業をサボらなかった。
――夜半の月のような顔が、このクラスにはあったからだ。
彼女は、恐ろしいほどの美人だった。
授業中も休み時間も、私はずっと彼女の顔を眺めている。
そこだけ風の流れを変えてしまうような彼女の佇まいは、教室にひしめく有象無象から、私の心を自由にしてくれる。
円城茜は太陽ではない。
月のように美しかった。
――――――。
中学時代から髪を明るく染めて、授業をサボりまくっていた私は、当然先生に嫌われてエグい内申点を付けられた。
それを学力でねじ伏せるのは中々の快感だと密かに思っていたのだけれど、入試の結果は定員割れ。
なんだか肩透かしを食わされた気分だった。
こうなると、授業をサボり尽くすのは、もう決定事項だ。
サボり魔にとって、場所取りは重要だ。
先生に見つからないようなところで、かつ居心地の良い場所。
入学式当日は、そんな場所を見つけようと学校中を見て回った。
体育館裏の階段とか、裏庭にある謎の岩とかが候補にあがる。
私はそういうものを逐一チェックしながら、ぶらぶらと歩いていた。
円城茜と出会ったのはそんなときだ。
彼女は校門の近くで、ひとり桜を眺めていた。
自ら輝くような白い肌に、すっきりと通った鼻。
切れ長の目は伏せ気味の睫毛に縁取られていて、遠くから見ていてもぞくりとさせられるものがある。
化粧をするようなガラに見えないのに、妙に赤いくちびるは、完成された芸術品だ。
すらりと高い背丈、ぴんと張った肩には、この学校の制服が眩いほどに冴える。
オリーブ色のセーラーカラーに、淡い金色のタイ。輝くダブルのボタン。
まるで、彼女のためにデザインされたみたいだった。
「………………」
目に見える世界の、きれいとか、汚いとか。
私はそれがいちいち気に障って仕方がない。
捨てられて潰れたペットボトル。窓のカビたパッキン。
いわゆるそこらへんの奴。鼻と歯。コミュニケーションを目的としたコミュニケーションから沸き起こる意味のない笑い。
おぞけが走る。
世の中には、醜い物の方が、美しい物よりもずっと多い。
ときにはなんだか、息をするのも苦しい気がする。
――そんな中で、円城茜は月のように輝いていた。
「あ……」
あまりにもじっと見続けていたせいだろう。
彼女は私を見て、小さく声を上げた。
その声も、きれいだ。
ガラス風鈴をヴァイオリンに溶かしたみたいな、不思議な音色。
これだけ美人なら、見られることにも慣れているはずだ。
そんな彼女に口を開かせるくらい、私が彼女を見る目は異常だったのかもしれない。
しかし円城茜の表情には、驚きも非難も戸惑いもなかった。
ただじっと、その切れ長の目で、光を吸い込むような瞳で私を見つめていた。
彼女の視線は、私の目を通して、胸の奥で熱くなる。
醜い世界から切り抜かれた、あの瞳に吸い込まれそうだと思った。
なぜか平衡感覚が、おかしくなる。
足がぐらつきそうになるのを、私はぐっとこらえて、きびすを返した。
「別に……」
私はそう答えて、どこへ行くともなく、とりあえずその場を立ち去った。
何が別に、なのか。
とりあえず彼女の名前を知るために、私は最初の授業に出た。
――――――。
ごわごわした新しい制服の違和感は、5月も半ばを過ぎれば、畳みかけるようなイベントと初夏の陽光にノリを溶かされる。
うっかりポケットに置き去りにした2日目のハンカチ――とまではいかなくても、まあ普段着というところに落ち着く。
着崩しにさして興味がない私は、大した抵抗もせず人気デザインの制服に着られている。
この制服目当てでこの学校を選ぶ子もいるらしいけれど、それをモチベーションにするには、ここは結構な難関校だ。
今年は定員割れだったけれど。
――“顔だけさん”というあだ名がついた。
当然私ではない、円城茜に。
なぜこんな都市伝説じみたあだ名がついたのかには、当然あるべき理由がある。
円城茜は勉強ができない。
このクラスで、すべての教科で赤点を取り、補習を受けているのは彼女だけだ。
円城茜は運動ができない。
体育の時間は、いつも見学している。
それでいて、いつも平気な顔をして澄ましている。
入学して半月ほどで、このクールビューティーの欠点が次々とあらわになった。
そしてひと月が経ち、家庭科の実習なんていう、女子力解剖イベントが発生する。
そこで円城茜は次々とやらかした。
包丁で指を切る――無表情で先生から絆創膏をもらう。
料理を焦がす――無表情で他班からお裾分けをもらう。
この辺りで、クラスメイトの反感を買い始める。
私のような人間は、反感を買うのではなく諦められているので、その差は大きい。
ならお皿でも洗ってて、と言われて、よく考えれば絆創膏を巻いた指で悲惨な話だ。
でももっと悲惨なのは、彼女がお皿を片っ端から割ってしまったこと。
円城茜は皿洗いすらできなかった。
でも、彼女の美しさには、誰も文句がつけられない。
だから、顔だけ良くて、他はまるまる駄目な“顔だけさん”。
そういうことになった。
でも正直彼女のあだ名なんかは、私の知ったことじゃない。
だって、あだ名というものは、結局それを口にする人間のために存在しているものだから。
だからどう呼ばれようと、円城茜が変わることはない。
そのときは、何が美しいか醜いか、それだけで世界のすべてに説明がつくと思っていた。
何も知らずに、私はそう納得していた。
――――――。
「あの……小此木さん……」
おそるおそる、という感じで話しかけてきたのは――名前は忘れた。
ともかく彼女は放課後、私の席に来た。
「あのね、今日、私と小此木さんが日直なんだよね……」
「知ってる」
といっても、私は日直活動のすべてをスルーしていた。
何かして欲しいなら向こうから声をかけてくれば良い、というスタンス。
「なら良かった。あの、鍵閉めのことなんだけど……私バスケ部で……1年生は早めに行かなくちゃいけなくて……だからもし小此木さんに時間があったら、お願いしたいと思って……」
まるで今にも割れそうな風船を相手するみたいに、彼女は話す。
私は顔も見ずに返事した。
「わかった」
要するに、教室にいる最後のひとりになればいいわけだ。
私はぼうっと時間を過ごすのに、苦痛は感じない。
「ありがとう……! じゃ、お願いね!」
彼女は心からほっとした様子で礼を言った。
そこまで私が怖いなら、他の友達にでも頼めば良いのに。
ちゃんと日直に回してくるのが、なんか律儀なやつ。
「………………」
私は、放課後は円城茜の顔をあまり見ないようにしている。
授業中とも休憩時間とも違う弛緩した空気の中では、人の視線は目立って浮かび上がる。
見ているのを、見られるのは、イヤだ。
私にはそんなワガママな気持ちがあった。
しかし――。
私はちらりと円城茜の方を見た。
彼女は何をするともなく、じっと席に座っている。
「………………」
円城茜は教室を出ない。
最後までおしゃべりをしていた3人組が出て行って、とうとうふたりっきりになった。
さすがに出て行ってもらわないと、私が帰れない。
私は席に座ったままで、話しかけた。
彼女と話すのは、入学式のときの「別に……」以来で、少しだけどきどきした。
「……あのさ、円城さん」
私が名前を呼ぶと、彼女は立ち上がって――帰るのではなくて、私の席に向かって歩いてきた。
思わず机の端を掴んで身構える。
机で何をしようというわけでもないのだけれど。
「前に、話をしたわ」
――ガラス風鈴と、ヴァイオリンの声。
話というのは、私たちふたりが、ということだろうか。
円城茜と会話した覚えはない。
「いつ?」
「入学式」
なるほど。
「あ……」と「別に……」がお話になるなら、そういうことだろう。
「そうだったかもね」
私は円城茜と目を合わせず、平静を装った。
でも、彼女がどんどん近づいてくるのがわかる。
――ぴたり、と冷たい手のひらが私の頬に触れた。
「え」
円城茜は私の顔を自分の方に向けると、腰を屈めて、その赤いくちびるを――私のくちびるに押しつけた。
「………………!」
ふわりと柔らかい、温度のない感触。
高い鼻が、私の鼻と交差する。
長い黒髪が、世界を包んで暗くなる。
リンスと、何かわからない甘い香りにくらくらする。
胸の奥が、きゅうっと何かに締めつけられる――。
くちびるが熱を持ち始めた気がしたちょうどそのとき、円城茜の顔はそうっと離れていった。
黒髪が払われ、世界が光を取り戻す。
心臓が遅れて、バクバクと脈打ち出した。
私にキスした赤いくちびるには、なんの表情も浮かんでいない。
円城茜はただ静かに、私を見下ろしていた。
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