投げた小石の行方も確認せずに、彼はとうに、僕の元へ駆けてきた。正確にはただ、鬼から距離を取っただけなのだろうが。
「他人の血でもいけんだな」
彼は言った。
「走んぞ」
手を引かれて、僕は走った。だが、その速度は全力じゃない。僕はもちろんのこと、彼にとっても――僕より運動ができなさそうな彼にとっても、それは全力ではないのだろう。その程度の、速度。
「十秒だ」
「はあ?」
息を切らしながら、彼は言い、僕は応えた。
「あいつは俺らの血に触れると、およそ十秒、動きが止まる」
「なんで?」
意味のない僕の質問に、彼は答えない。体力の温存もあるのだろうが、それは確かに、意味のない質問だったから、なのだろう。
こんな荒唐無稽な状況で、理由も理屈も、もはや関係ないだろう。ただ、目の前にあるものが、見えている事実が、現実だ。
「……っと! 気ぃ付けろ!」
急に真横へ手を引かれて、僕は叱咤される。
「気付いてねえのか!? 俺らはあいつの血に触れると、動きが止まる!」
足元を、見る。そこには、血。どす黒い、それだけとっても人間ではなさそうな、血。そうだ、あの鬼が、常に全身から垂れ流している液体! これが血なのかどうかも関係ない。そして彼の言葉の真偽も、いまはいい。
とにかくいまは、そういう状況だ。
「これも、おそらく十秒。これは、そういうゲームだ」
「ゲーム」
彼の言葉を反芻する。しっくりくる。あまりに無慈悲で、理不尽な、非現実的な現実。
これは、ゲームだ。ただの、人の命を賭けた、ゲームだ。
*
ある程度の距離を隔て、もう一度、対峙する。走るのをやめ、校舎を背に。
「次はおまえだ。当てろ」
僕の血がついた、小石。なるほど。血に触れれば、止まる。おそらく直接、血飛沫を浴びせても止まるのだろうが、それでは相当に近付かねばならない。ゆえに、このような投擲物に血を付着させてぶつける、のか。
というか、それもアリなんだな。
「俺は俺の血でそいつを止められた。だったら普通に考えりゃ、おまえの血をおまえがぶつけても、止まるはずだ」
それは丁寧な検証だと、僕は思った。いや、ゆえにそれは、しなくてもいい検証なのだろう。これはただの、おまけのような検証。
もしかしたら、『彼が投げたから止められた』可能性もあるわけだ。血の有無に関係なく。いや、彼は『血に触れると』と、『血』と限定して語った。ならば、そこに至るなんらかの検証はすでに終えているということ。
そして理屈はともかく、『彼が投げたから止められた』という可能性はおそらく薄い。わずかでもこの殺戮にゲーム性があるというなら、プレイヤー側の僕たちに差異が生まれるはずもない。
それも、希望的観測だけれど。そんなことを言い出したら、次に彼が血の付いた小石をぶつけたところで鬼が止まるとも限らなくなってくる。ある程度は、諦めて信じるしかないのだ。
「おい、ビビってんじゃねえだろうな?」
などと考え事をしていたら、彼の声も、鬼も近付いてきていた。
だからこそ、僕は冷静だ。自分が冷静であると、冷静に把握した。して、投げる。
「いや、全然?」
これは虚勢だけれど、格好をつけることには成功した。そして、投擲も。
ものの見事に一投目で、僕は小石をぶつける。
鬼は、止まった。
*
検証を終え、改めて走る。校舎には近付いた。今度こそ、校舎内へ向かい、……入る。
「さて、こっからが問題だな」
いったん息を整えるため、そばの部屋に入り、身をひそめる。とはいえ、窓から校庭がすぐに見えるし、なんなら窓からでも外へ逃げられるので、鬼の位置も把握できるし、追いつめられても窓から逃げられる。
「……なにが?」
僕は問う。窓から注ぐわずかな月光に照らされた彼の顔は、いまさらながら人間離れしていた。白すぎる肌に、真っ赤な双眸。
「クリア条件だよ。ゲームっつったろ」
なるほど。確かにゲームと言うなら、それをクリアする条件があるはずだ。……実際にゲームなのかは知らないが。それでも彼はこれをゲームと信じ、しかもそれをクリアするつもりであるらしい。闇雲に逃走せずに、危険を冒してまでギミックを検証するなど、そうとしか思えない。
彼の目的を勝手に理解したつもりになって、思い至る。そうだ、僕には目的があるのだ。復讐、という、目的が。そしてそれは今回、もしかしたら彼の目的とも一致するのではないか?
「あの鬼を、殺す」
僕は言った。提案としても拙く、また、ゲームに対して使うには、やや強い言葉を。
「……ま、順当に考えりゃ、それもあるだろうな」
彼は言った。僕の言葉選びや低い声音には触れずに。
「闘争か逃走か。一定時間や、一定人数以下までの生存。そんなとこだろ」
さらりと彼は、おそらく想定できるすべての可能性を挙げた。そこにはしっかと、『逃走』も含まれている。
「……逃げるなら、いつでもできる。まず、あいつを殺せるか、試してみるべきだ」
僕は言った。僕は僕ひとりでも復讐へ向かう。しかし、彼の助けも借りれるなら――彼を利用できるなら、その方がいい。
僕に力が足りないことにはもう、理解が及んでいる。だったら、どんなものでも――どんな者でも、利用できるなら利用したい。
たとえそれが、人の道に反していようとも。
「……殺してえんだろ。……いいさ。それもクリア条件、候補のひとつだ。手ぇ貸してやるよ」
ニコリと、彼は笑う。その顔に、わずかに心が痛むけれど、その程度、痛くない。
「……僕は、分美昇。……君は?」
罪悪感を押し殺して、努めて笑顔で、僕は名乗った。
「俺は――」
ねちゃり。裸足に気持ちの悪い液体が、触れた。
動かない。動けない!
どうして? 鬼は確かに、校庭に――。
「――――!!」
口も開けず、声も上げられない。それでも、どうやら瞳だけは、動かせる。
そうして動かした視線の先には、青黒い色の、鬼。足元へも視線を落とす。青黒い、血だ。そんな……まさか!!
もうひとり、いた!?
「悪いな」
振りかぶる青鬼を見上げ、体に力を込める。動け動け動け動け! あと、何秒だ!? 動けるようになったらすぐに、思い切り転がる! 躱す!
そう思う僕の耳に、彼の声は冷徹に、告げた。
「利用させてもらうわ」
ぐしゃり。
やけに他人事のような死の音は、僕の鼓膜ではないところへ、直接に、響いた。
―――――――――
ばっ……と、僕は思い切り、転げ……落ちた。ジリリリリリリリ――。目覚まし時計が奇声を上げる。心臓が驚き、血液の循環を早めた。
「……夢、……か…………」
寝汗が酷い。僕は顔を、自身の手のひらで拭う。……拭うとき、なぜだかやけに、その手が汚れているような気がした。夢のせいか? いったいどんな夢を見ていたのだろう?
なにか、とても怖ろしい夢だったような気がする。が、なんだろう? 思い出せない。いやしかし、夢とはそういうものだろう。よくあることだ。
それでも、不思議な憎悪だけが胸に残っている。なにか、……なにか大切なものを失ったような。喪失感――も、そうだけれど、むしろ、怒り。いまだかつて経験したことがないほどの、怒り!
「……まあ、いいか」
そんな怒りもやがて薄れ、それは夢の中に消えていく。
さて、寝汗のせいでシャワーが必要になった。あまり時間の余裕はない。だからとっとと準備を済ませ、学校へ、行こう。
――――――――
いつもどおりにぎりぎりに登校する。急いだりしない。これならぎりぎり間に合うし、べつに間に合わなくっても、いい。数分十数分の遅刻くらい、小言のひとつで済むだろう。
そう、悠長に信号待ちをしていたら、後ろからおっとりとした声が聞こえた。
「遅刻遅刻~」
僕は努めて冷静に、驚愕した。そうして、さも声や、駆ける足音に反応したかのように、ゆっくりと振り返る。
「あらぁ、分美くん、おっは~」
「あ……」
幾度かは体験したことのある幸福を噛み締めて、ああ、今日もまた、驚くほどの爆発ヘアーだ、と癒される。もう死んだっていい。それくらいの幸福。というか死ね、挨拶くらいちゃんと返せないのか、僕。
「……危ないっ!」
僕はとっさに、まだ変わる前の赤信号を渡ろうとした彼女の腕を、掴んだ。掴んで、引き戻す。その先を、甲高いクラクションが通過した。
心臓が、高鳴る。汗が、流れる。
そしてどうしてか、今朝方感じた気がする、怒りが湧いてきた。
「あ……はは……。危なかった。……ごめんねぇ?」
「いや……」
だがそんな怒りも、すぐに消えていく。彼女の、加賀殻さんの――『の』、というか、『が』! 彼女が! もつれて僕に抱き着くように身を寄せた彼女が! こんなにそばに――!!
「ありがと~。分美くんも急がなきゃ、遅刻するよ~」
「あ、うん」
死にかけたさっきもなんのその、彼女はそそくさと僕から離れ、さっきよりも勢いを増して、駆けて行った。
「ああ、なんか僕――」
青に変わった信号を無視して、立ちつくす。
「死にそう」
信号がまた、赤に変わった。鼓動はまだ、駆け足のままに。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!