ハリネズミのジレンマ

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(2)苛立ち

公開日時: 2021年4月14日(水) 20:06
文字数:4,413

柳井クッキングスクールと柳井調理師専門学校を統括する事務部門エリアに、貴子は呼び出しを受けて久々に出向いた。そしてあるドアの前で時間と場所を確認し、ノックの後ドアを開けて室内に居た壮年の人物に声をかける。


「宇田川です。お呼びでしょうか、事務長」

「ああ、宇田川先生。どうぞお入り下さい」

「失礼します」

 一礼した貴子は足を運び、正面の机の前まで進んだ。そして椅子に座っている事務長の佐々木に、自分を呼び寄せた理由を尋ねる。


「それでご用件は?」

「これですが……。この二か月程の間に、当学校に配達された物です。こちらで取り纏めておきましたので、先生にお持ちいただければと」

 そう言いながら佐々木はあるファイルを取り出し、僅かに身を乗り出して机越しに貴子に手渡した。それを受け取った貴子がそれを開き、パラパラと捲りながら中身を確認する。佐々木はそんな貴子の様子を興味深そうに眺めていたが、本人はすこぶる冷静に内容の確認を続けていた為、少し面白く無さそうな顔付きになってから、皮肉っぽい口調で言い出した。


「春先から、またぶり返したみたいですね。まあ、今に始まった事ではありませんので、学校としてどうこう対応しようとも思いませんが。先生ももう少し身辺で問題が起きないように、色々心がけて頂きたいものです」

「お騒がせして、申し訳ありません」

 パサッと軽い音を立ててファイルが閉じられ、貴子は傍目には神妙に頭を下げた。そんな彼女に、佐々木が思わせぶりに声をかける。


「先生位、外見も活動も派手な方ですと、どうしても私生活も派手になるかと思いますが、一社会人として節度ある行動を取って頂きたいと思うのは、私の高望みなんでしょうか?」

 その暗に含んだ言い方に内心で腹を立てつつも、貴子は素知らぬふりでさらりと言葉を返した。


「別に、個人がどの様な望みを待つかなどとは、個人の自由かと思われます」

「ほう? 宇田川先生はやはり自由主義者でいらっしゃる様だ」

「自由? 自由とか権利とか言う言葉は、義務や立場を弁えた行動をきちんと果たした上で初めて口にできる言葉だと思いますので、それを主義主張とするつもりは毛頭ありません。他の方がそうしたいのなら止めませんが」

「言葉遊びは止めて頂けませんか?」

 さすがに半ば当て擦られたと感じた佐々木が、怒りを含んだ口調になったが、貴子は嫣然と微笑みつつ言ってのけた。


「あら、何かお気に障りました? 先程から何やら支離滅裂なお話の様で、理解ができませんの。日本語で話して頂けません?」

 その言い草に、佐々木は思わず拳で机を叩きつつ恫喝した。

「そんなに引導を渡されたいのか! 退職金も出ない上に、トラブルを起こしたと知れたら、再就職もおぼつかないぞ?」

「まあ、こわ~い。……お顔が」

「……なんだと?」

 そこでクスッと笑った貴子が、とある人物の名前を口にした。


「ただでさえ冴えないお顔なのに、そんな顔をしたら聡美ちゃんだってドン引きですわよ?」

「なっ!? なんでお前が彼女の事を」

 そこで唐突にドアがノックされ、法人代表を兼ねる理事長の柳井が顔を出した。


「失礼します。事務長、次期入学者の追加書類を持ってきたから、管理をお願いね。あら、宇田川先生、こんな所でどうしたの?」

「事務長に呼び出されまして。でもさっぱり用件が理解できませんの。理事長、申し訳ありませんが、通訳して頂けませんか?」

 貴子のそんな申し出を受けて、柳井は目を丸くし、佐々木に向き直って怪訝な顔で問いかけた。


「通訳って……、佐々木さん、何語で喋っていたの?」

「あ、いえ、その……」

「一応、日本語の様ですが」

 突然の理事長の来訪に、佐々木がしどろもどろになっていると、貴子が笑いを堪えながら真顔で付け加える。すると柳井は益々変な顔をする。


「え? それなら方言か何か? でも佐々木さんは、東京生まれの東京育ちって、言ってなかったかしら?」

「…………」

 大真面目にボケた事を言われた佐々木は黙り込み、貴子は必死に笑いを噛み殺しながら、彼に向かってファイルを手にしたまま頭を下げた。


「それではお話は特に無い様なので、これで失礼します。講義の時間が迫っておりますので。これは頂いていきますね」

「あ、ちょっと宇田川先生!?」

「そうね、生徒さんを待たせたらいけないわ。特に宇田川先生に至急の事務連絡とかも無かったと思うし、またの機会で良いわよね? 佐々木さん」

「はあ……」

 さっさと踵を返した貴子を引き留めようとした佐々木だったが、したり顔で口を挟んだ柳井に反論する事ができず、曖昧に頷いた。それを幸い貴子は悠々と廊下に出たが、そんな彼女の背後から柳井が声をかけてくる。


「お疲れ様、結局何だったの?」

「これです」

 同性でも年長者である柳井に合わせて、若干歩く速度をゆっくりにしながら先程手渡されたファイルを手渡すと、中身にざっと目を通した彼女は、呆れた様に溜め息を吐いた。


「……相変わらず、懲りない人達ね。事情は分かったわ」

 そして貴子にそれを返しながら、事の次第を尋ねる。


「それで? 佐々木事務長が、あなたに自主退職を迫ったわけ?」

「正直、もっと言葉を尽くして頂ければ、なるほどそうかもと思って退職届を提出したかもしれませんが、全く感銘を受けなかったもので」

 真顔で貴子がそう申し出ると、柳井は苦笑いの表情になる。

「それは無理でしょうね。細かい金勘定しかできない、肝の小さな小者だもの。小粋な会話なんて、百年かかっても無理な人間よ」

 その酷評に思わず笑ってしまってから、貴子はその笑いを消して足を止め、何事かと自らも足を止めた柳井に対して、深々と頭を下げた。 


「個人的な事で職場をお騒がせして、誠に申し訳ありません」

 しかし柳井は、頭を上げた貴子の前で小さく手を振り、事もなげに告げる。

「気にしないで良いわ。それこそ今更だもの。あなたはこの柳井クッキングスクールに、不利益な行為をしたり、著しい迷惑をかけたわけでもないのだから、堂々としていらっしゃい。今後校内で何かあったら、直接私に連絡を寄越してね。それじゃあ私はここで」

「はい、失礼します」

 そして理事長室に向かって角を曲がって行った柳井に向かって、貴子は再度深々と頭を下げたが、ゆっくりと上半身を起こした所で、タイミング良く携帯電話の着メロが鳴り響いた。


「芳文?」

 昼日中の事であり、通常なら仕事中ではと思いつつ、貴子は応答ボタンを押した。


「もしもし? 今、大丈夫なの?」

「ああ、ちょうど患者が切れて、休憩していてな。メールを見ただろう? 今夜、一緒に飯を食いに行かないか?」

 唐突にそう言われた貴子だったが、先程未読メールのアイコンがあったなと思いつつ、快諾した。


「ごめんなさい。メールはまだ見ていないんだけど、食事は構わないわよ? 特に用事は無いし」

 すると、芳文の機嫌良さ気な声が返って来る。

「それは良かった。じゃあ神楽坂駅の改札に、七時でどうだ?」

「それで構わないわ。それじゃあ、後でね」

 そこで貴子は急に愛想の良さをかなぐり捨て、忌々しそうに呟いた。


「憂さ晴らしには、丁度良かったかもね。一人で考え込んでいると、ろくな事にならないし」

 そうして再びポケットに携帯をしまい込んだ貴子は、その日の仕事場に向かって歩き出した。


 その日の夜、首尾良く芳文と落ち合った貴子は、芳文が贔屓にしているという料亭に連れて行かれた。しかし当初普通に見えていた貴子が、食事を進めるにつれて、徐々に心ここに在らずの状態になっている事に、芳文は疑念を覚える。


「……それでその時、横切ったトラックが俺の目の前で、派手に脱輪したんだが」

「ふぅん、良かったわね……」

 終盤に出された炊き込み御飯を口に運ぶ合間に貴子が相槌を打つと、芳文は気分を害した様に眉根を寄せた。しかしすぐにいつも通りの口調で話を続ける。


「貴子? 桜が一番綺麗な季節は、やっぱり秋だよな?」

「そうね。私もそう思うわ」

 貴子が何気なくそう口にして吸物の椀を口元に運んだ為、芳文はバシッと音を立てて箸置きに箸を置き、非難の声を上げた。


「こら、貴子。何を上の空で、人の話を聞いてるんだお前は? 失礼極まりないぞ。食べるのに集中してるのならまだしも、味わってる様にも見えんし」

 そう指摘された貴子は全く弁解できず、箸を置いて如何にも申し訳無さそうに頭を下げた。


「ごめんなさい。ちょっと考え事をしていて、話を聞くのも食べるのも、おざなりになっていたわ」

 それを見た芳文は小さく溜め息を吐いてから、いきなり尋ねる。


「男か仕事か、どっちだ?」

「男の方だけど」

 打てば響く様に貴子が即答したが、芳文は自信満々に断言した。


「誤魔化すなよ。そうなると仕事か。因みにテレビの方と料理学校、どっちだ?」

「だから、男の方だって言ってるでしょう!?」

 思わず声を荒げた貴子だったが、芳文は平然と会話を続けた。


「ムキになって否定する所を見ると、テレビと学校両方か……。因みにとんでもないヘマをしでかしたのか? それとも嫌がらせでもされたか?」

「そんなヘマなんかするわけ無いじゃない!」

 反射的に答えてしまうと、芳文が楽しそうにニヤリと笑って続ける。


「お前、プライドが高いしな。それなら嫌がらせに決定か。そうすると、お前が有象無象の輩から変な物を送りつけられても、一々気にする筈もないから、父親関係?」

 あっさり推測されてしまった貴子は、途端にうんざりした表情になった。


「……何でそれを知っているわけ?」

「祐司君から、軽くさわりだけ聞いてる」

「祐司ったら……。どうして赤の他人にペラペラと……」

 思わず恨み言を零した貴子に、芳文が苦笑する。


「本当にお前、分かり易いよな? お前の事を理解不可能とか言ってるアホな人間が、世間に多過ぎるぞ」

 そう断言した芳文だったが、そこで話を打ち切って黙々とご飯を食べるのを再開した為、貴子は若干不思議そうに声をかけた。


「さっきの話……、詳しく聞かないの?」

「聞いて欲しいなら、聞いてやるが?」

 顔を上げて芳文が視線を合わせてきた為、貴子は何となく視線を逸らしながら答える。


「別に、そういうわけじゃ無いけど……。それじゃあどうして聞いたのよ?」

「心ここに在らずの原因が分かったから、俺としてはもう良い。人間は思考する生き物だ。好きなだけ悩め。余計な口は挟まん」

 淡々としたその口振りに、今度は貴子が不快そうな表情になった。


「……突き放してくれるわね」

「他人がつまらん事について、ウジウジ悩んでいるのを見るのが好きだからな。そうじゃなかったらあんな稼業、やってられるか」

 些か乱暴なその物言いに、貴子は思わず苦笑いする。


「なんか凄く納得しちゃったわ。芳文の仕事場には、迷える子羊さんがゴロゴロ居るのよね」

「そういう事だ」

 それからは言葉少なにご飯と吸物を平らげ、最後に出された柚子のシャーベットを無言でスプーンでつついていた貴子だったが、何を思ったか、顔を上げて徐に言い出した。


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