7月5日の月曜日、杵島郡江北町にある老人ホーム彩々に足を運ぶことにした美篶。
受付に「入所されている染澤セツさんを訪ねてここに来ました。わたしは染澤セツさんが大家として管理されている物件の住民の荻窪です。染澤セツさんが管理をされている物件でひとつ気掛かりなことがありまして、過去に何かあったのか、覚えている範囲内のことで教えてもらいたくて来ました。」と話をすると、受付の方は「染澤さんが大家として管理されている不動産にお住いの住人の方ですね。何かあればお通しをするようにと言われていますが、認知症の症状が進んでいるため、管理されていた物件のお話が出来る状態ではないと思われます。それでもいいのでしょうか?」と美篶に訊ねると、美篶は「それでもいいです。会って話がしたいです。案内をして頂けませんか?」と話をすると、受付の方は「わかりました。」と言って誘導をしてくれた。
「染澤セツさんが管理されている不動産にお住いの住人の方ですね。何かあればお通しをするようにと言われていますので、染澤さんが暮らされている3階の部屋までご案内します」
3階に到着した際に、染澤セツさんが入所している部屋にまで案内をしてくれると、美篶は案内をしてくれた方に「ありがとうございます。」といって一礼した。
染澤セツさんは、窓のほうを見てぼうっと眺めていた。
「染澤さん、はじめまして。染澤さんが管理している家賃7万円の5LDKの物件に住んでいます。豪邸なのに、この格安の値段で住めるには訳があると思いまして、過去に何があったのか、教えていただけませんか?」
わたしの質問に染澤さんがはて?といった感じで反応を示すと、美篶のほうを見て振り返った。
美篶の話した内容が理解できないのか、不思議そうに頭を傾ける。
美篶は「染澤さん、唐突なことを聞き出して申し訳ありません。出来る限りのことで良いんです。教えて頂きたいんです。」と話した。
傍にいた職員の小林みどりが、「ごめんなさい。こんなことを言うのもあれですが、人生で一番幸せな出来事でなければ覚えてはいないと思います。」と話したが、美篶は「認知症であるということは不動産から聞いています。わたしも染澤さんが覚えている範囲内のことがあればと思って、ここまで来ました。」といって説明すると、ようやく染澤さんが美篶を見て語りかけた。
「潤ちゃん、良いお天気だね。」
美篶が思わず「潤ちゃん?」となったが、小林が「染澤さん、潤一郎さんなら何年も前に亡くなっているじゃないですか。」と話すので、美篶が職員の人に聞いてみることにした。
「潤一郎さんの事、教えていただけませんか?」
美篶の質問に、小林は語ってくれた。
「染澤さんの一人息子だった潤一郎さんが事業に成功されてね、多久市内の当時畑だったあの土地を買い取って自分の豪邸にしたのは、もうかれこれ51年も前の話です。1970年の大阪万博が開催されたとき九州博としてパビリオンの一企業として潤一郎さんが経営する当時としては画期的な電気テクノロジー会社が入ったんです。そこで潤一郎さんは”これから先流行るもの”として充電式の扇風機とストーブを展示するアイテムとして持ち込んできたんですけどね。充電をしておくだけで扇風機やストーブを使えるというのもあって、潤一郎さんの会社はたちまち知名度を上げて、世界から注目を浴びる企業にはなったんです。しかし、幸せと言うのは長くは続かなかったんです。たちまち、万博を機に各地で新しい技術が開発されたことで、潤一郎さんが開発した技術はあっという間に過去のものとなり、忘れ去れてしまうような存在になってしまうと、会社はたちまち経営難に陥ってしまいました。会社の存続のために、従業員のリストラをせざるを得ない状況にまで追い詰められたのだけど、それでも赤字は続いたんです。精神的にも肉体的にも追い詰められた潤一郎さんは、1974年の7月23日に妻の豊子さんを果物ナイフで刺殺して殺害すると、長男の宏親君、次男の靖典君、三男の智紀君を次々と襲い殺害。妻や子供達を殺害した潤一郎さんは風呂場で凶器として使った果物ナイフで切腹して自殺をしました。そんな事件があったのがあの家なんです。」
小林の話を聞いた美篶が「それで、そんな過去があったから、あんな格安の値段だったわけですね。でもそれならば事故物件の一覧に掲載されていてもおかしくないはずなのにどうしてですか?」と聞くも、小林は「事故物件として掲載するか否かは、大家の判断に委ねられる部分がありますからね。売り上げのためにも知られたくないと言って公表しない人だっていらっしゃいます。染澤さんが管理をする物件のすべてが事故ではないが、今回の物件に限っては染澤さんも思い出したくもない過去の一つだからなおのこと知られては困る事情があったはずです。そこは染澤さんの判断ではなく成年後見人の判断によるものも大きいんじゃないかなわたしは思います。」といって説明してくれた。
わたしは小林の話を聞いて、益々あの家の過去が知りたくなった。
教えてくれた小林にお礼を言ってその場を後にすると、染澤さんは帰ろうとしている美篶のほうを見て「潤ちゃん、潤ちゃん。」としか言わなかった。亡き息子が生きていた時が染澤さんにとって幸せな時だったのかと思うと、とても胸が締め付けられる思いになった。
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