その間に、和則の知り合いで伊万里通信の桐生丈一郎から連絡がかかってきた。
和則が電話を取ると、丈一郎が一言告げた。
「その家はいるだけでも危ない。呪われ過ぎて話にならない。絶対に引っ越すべきだ。」
丈一郎からの助言に、和則は「それは一体何を言いたいのか?」と訊ねた。
丈一郎は、「電話で話せば長くなる。俺も今から荻窪さんの家に行って、見せたいものがある。それを見ればこの家が抱える闇の正体が分かるはずだ。」といって電話は切られた。
仕方なく隆治と美篶、志穂と和則はリビングのソファでゆっくりと待つ。
ずっと待っている時が退屈だったのだろうか、伶菜と美海が二人そろって美篶達の前に現れると、「お兄ちゃんたちがさっきからずっとゲームをしているから、お兄ちゃんたちがしているゲームをしたくても順番が回ってこない。」と言ってきたので、美篶が「美海ちゃんと伶菜にもゲームの順番を回してあげてほしい、お兄ちゃんでしょ!!」と一喝するのだった。それを聞いた聖夜が「仕方ない。美海ちゃんにも伶菜にも俺達ばかりゲームを優先するわけにはいかないしね。」と言い出し優先的にゲームを譲ると、続く蒼佑と堅斗も、聖夜の姿勢を見て、蒼佑も堅斗も「おっ、俺も。」と言い出してゲーム機を譲ったのだった。
お兄ちゃんたちが離れ、やっとゲームが出来ると分かった美海と伶菜は、嬉しそうにテレビゲームに夢中になってはしゃぎだす。その様子をじっと聖夜と堅斗と蒼佑はただじっと見つめることしか出来なかった。
電話がかかってから40分ほどが経過したころだった。
丈一郎が荻窪邸に到着し、インターホンを鳴らす。
「ピンポーン。」
チャイムが鳴る音に美篶が「はーい。」といって出たら、眼鏡をかけたインテリな感じの男性が目の前にいた。
「我妻和則の友達の桐生丈一郎です。」
美篶は「お待ちしてました。どうぞ中に入ってください。」といって中へ案内した。
リビングの中では、和則が丈一郎へと近付くと、「待っていた。報告したいのは何なのか、教えてほしい。」と訊ねると、丈一郎は「新聞社からこの家を報道した過去の記事をファイリングしてあるものがあった。それを持ってきたから、1枚1枚ページをめくってみてほしい。」と話すので、隆治と美篶、志穂と和則の4人で、丈一郎が持ってきた分厚くて青いファイルに目を向けるのだった。
丈一郎が最初のページをめくると、「先ずはこの事件から目を通してほしい。」と言って説明した。
「夫の無理心中か?妻・子供3人 惨殺死体で発見される。」
1974年7月23日夜23時頃に事件は発生。23時過ぎに夫の染澤潤一郎(34歳)が台所にあった果物ナイフを手に取ると、就寝中だった妻の豊子(34歳)をメッタ刺しにして殺害後、隣で眠る次男の靖典君(7歳)の口を口封じした末にメッタ刺しで殺害、さらに同様の手口で長男の宏親君(10歳)、三男の智紀君(5歳)を殺害した後、潤一郎は風呂場で自分の腹部を凶器の果物ナイフで切腹し自害した。ナイフで切っても死にきれなかったのだろうか、潤一郎はさらにナイフをさらに腹部の奥深くまでえぐるように刺し、自分の意識が無くなるまで刺し続けたのだろうと推測される。」
丈一郎の話を聞いた隆治は「それは、ここの管理人の染澤セツさんの一人息子だった、潤一郎さんによる無理心中事件だろ。それがあったのは知っている。」と話すと、丈一郎は「じゃあ潤一郎さんはどうして無理心中を起こしたか分かっているのか?」と訊ねたところ、隆治は「それは俺でもわからない。」と言い出した。
丈一郎は淡々とした口調で話し始める。
「潤一郎さんは非常に頭のいい青年だったようだ。アインシュタインの相対性理論に強い関心を持つ秀才だったとも聞いている。お母さんのセツさんにとっても自慢の息子だったのだろう。当時としては非常に珍しい、国立の伊万里大学にまで進学させているからね、セツさんの潤一郎への愛は相当なものだった。大学を出て、一度は電気設備の闐闐設備会社に就職するも、大学で培ってきた知識と今の会社で経験してきたことを生かしたいと思い、潤一郎は結婚を機にベンチャー企業のソメザワ・マテリアルを設立すると、潤一郎が開発した当時としては画期的な充電式の扇風機とストーブがあるということに、親しくしていた取引先の会社が目に就け、大阪万博のパビリオンの一つとして出店しないかという話になり潤一郎の会社は出店と同時にたちまち鰻登りに上昇していった。社長としての知名度も上がった潤一郎は順風満帆だったように見えた。しかし潤一郎には欠点があった。それは、頭がいい。それだけの人間だった。無論そんな潤一郎には社長として必要なカリスマ性も無ければ、商才すら掛け合わせていなかった。従業員は多い時は15名ほどはいたそうだが、頭が賢いだけが売りの社長に誰もついていけず有望な人間はそんな社長に失望して出ていったのが殆ど、残る従業員で何とかやってはいくも、営業マンとしての実力も無ければ交渉上手だったとも言えない潤一郎の営業では、離れていくのが殆どだった。次第に”万博のパビリオンの一画として出店しましただけが取り柄”になっていくと、時代はやがて潤一郎が開発したことすら忘れられていくようになっていくと、たちまち経営は赤字続きになり、ついには従業員のリストラを実行するようになった。しかしそれでも赤字を補填することが出来ずに、1974年の7月21日の事だった。もう借金をしなければいけなくなるぐらい経営は貧しくなった。だが潤一郎は借金をしてまでというプライドがあり、それだけは許せなかった。精神的にも肉体的にも追い詰められた末、彼は社長として死ぬ道を選んだ。それが無理心中事件だった。」
丈一郎がそう話すとあるものの写真を見せた。
「これは、警察も恐怖のあまりに震え、失神して倒れたものがいたそうだ。潤一郎の亡骸の傍に置かれてあったという、この設備図は、潤一郎が引きを引き取るまでに書かれてあった。そこには”未来の食糧対策”として、電気をエネルギー源として育てる食物の作成の計画の話だったそうだ。そこにはこう記されてあったそうだ。そこには必死になってペンで綴ったのだろう、”悪魔と取引したい”とね。それも、実はあの地下の隠し部屋に封印されてあるんだよ。」
話をじっくりと聞いた和則が「それだけなら、潤一郎が悪魔だという確固たる証拠がない。」と話すと、丈一郎は「次のページをめくってほしい。」と話した。
「無理心中事件があって、3年後のことだ。母親のセツさんが親族の反対を押し切ってまで、亡き息子が残した負の遺産ともいうべきこの家を、セツさん自身が大家になり賃貸住宅としてこの家を世間に提供すると独断で決めたんだ。親族は呆れて、”理解に苦しむ”と言い出して、セツさんの元から少しずつ離れていくのだが、セツさんの気持ちは変わらなかった。恐らくだが、息子を安心して成仏させたかったんじゃないのだろうかと思われる。同じような構成の家族が再びやってくることにより少しでも息子の御霊を慰めたかったのだろう。しかし、その行為が仇となって第1の犠牲者が出た。それが、1977年の9月5日の事だった。長崎県佐世保市より転勤のために引っ越してきた安村毅(32歳)とその妻千代(33歳)、そして長女の千景(11歳)と次女の愛実(9歳)、末っ子で長男の譲(6歳)が引っ越しをしてから1ヶ月が経った10月18日に夫の毅が千代を出刃包丁で刺し殺すと、千景、愛実、譲を次々と殺害した後、毅も潤一郎と同様に風呂場で切腹して自害をした。」
そう語った丈一郎はさらに次のページをめくる。
「悲劇はこれだけではない。安村一家の無理心中事件が起きてから6年後のことだ。1983年4月10日に鹿児島県指宿市から引っ越してきた細野忠司(35歳)と妻美知子(33歳)、長男の一史(10歳)と次男の義武(7歳)が新たに住み始めたが、住み始めて1ヶ月後の5月27日に一家を乗せた車は交通量の少なくなった真夜中の午前2時過ぎに旧馬神トンネルの中で車をいったん停車させると、車内で忠司が予め用意をしておいた練炭に火をつけ一酸化炭素中毒で忠司は死亡した。警察の話では忠司以外の美知子、一史、義武の首には絞殺された跡があり、また死因は一酸化炭素中毒ではなく、窒息死だった。恐らく忠司が妻の美知子、息子の一史、義武を絞殺した後、遺体を車に乗せ、この場まで辿り着いた後、自らも責任を取って自殺をしたのだろう。」
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