気が付けば太陽は山から完全に顔を出し、世を明るく照らしている。
話をしているうちに大分時間を喰ってしまっていたらしい。
始業の刻まで、あと少しだ。
「――んじゃ。制服はさっき渡したのを着てもらうから、そのつもりでお願い」
「はい」
「――受付嬢のバッジはそこの棚にいつも保管されてるから、出勤簿に名前を記入したら、勝手に取って着けちゃって」
「はい」
「――更衣室はそこのカーテンの向こうにあるから。狭いけどそこは勘弁してね」
「はい」
「……他に分からないことはある?」
はっきり、町娘は首を横に振った。
「特にないです」
「そっかー。じゃあ説明は終わりだねー」
本当のことを言えば、仕事についての質問は山ほどあった。
しかし、彼女はそれを控える。
右も左も分からない新人として正常な反応だろう。
自分のせいで先輩に手間を取らせたくない心理が働いたのだ。
それに実際に仕事をしてみて、初めて疑問に思うこともある。
ならば、その時々で質問をした方が効率は良い。
説明会だけでわかることなんて、交流電流の発明者がニコラ・テスラであることくらい初歩的な内容しかないのだろうから。
遠くまでエネルギーを運べるよう応用した後世の技術者と同じく、彼女もまたクエスト受付所の業界について学ばなければならない。
そういうわけで、町娘は早く働きたくて仕方なかった。
「――では、そろそろお仕事を教えてもらえませんか?」
チラチラ表に通じるドアを町娘は見る。
受付カウンターに行きたいと全身で匂わせる。
彼女は急いていた。
「ほら。時間もいい感じですよ?」
対して。
クロカミは耳の穴をほじっていた。
あっけらかんとした表情で、彼女は町娘を丁寧になだめる。
「まぁ落ち着きなよ。まだやることが一つ残ってるからさ」
「やること、ですか?」
まだ何かあるのか、と町娘は首を傾げた。
一通り仕事の説明は受けたし、こちらからの質問もない。
制服の支給も済んでいて、更衣室の場所も聞いている。すぐにでも働ける状態だ。
他にやるべきことなど存在しただろうか。
脳髄を絞っても、これといった答えは出なかった。
だから、クロカミはあっさり告げた。
「――――君のあだ名、それを決めようか」
「……へ? あだ名?」
意味不明だった。
仕事をするうちに同僚からあだ名が付くのならわかるが、普通こんなタイミングで議題として持ち出すものなのだろうか。
ベンチャー企業やパブでもないのに、初っ端からあだ名を付けようとしてくる先輩K。
この状況、町娘にはどうしても理解不能だった。
「なんで、あだ名を付けるんです?」
クロカミは口を開いた。
「伝統みたいなもんでねー。ウチは実名で呼ぶことが少ないんだ。
だからそれを先に決めちゃおう、って魂胆なわけ」
なるほど。
この受付所では慣例として、どうやら本名を使うことがないらしい。
オンラインゲームのアバターネームのような位置づけなのだろう。
一見無意味なルールにも思えるが、もしかしたらお客さん、または同僚に対して素性を明かしたくない職員がいるのかもしれない。
郷に入っては郷に従え、だ。
町娘は腹をくくる。
「……そういうことならいいですよ。好きに呼んでください」
ここまで『町娘』で通ってきた彼女の準固有名詞。
それが今、変わろうとしていた。
「こう呼んでほしいみたいな希望とかってある?」
「えっと、皆さんお好きに呼んでもらって構いませんが……どうしましょう?」
「んー、呼びやすくて可愛いのがいいよねー」
鼻唄を唄い、指を鳴らす。
そして、クロカミは言った。
「…………じゃあ、『バイトちゃん』で」
「バイトちゃん!?」
そんな安直な名前でいいのか。
ドイツ語が語源で有期労働契約に基づき雇用された従業員を示す、和風な俗称を由来にしてしまって、はたして異世界的に良いのか。
新生非正規雇用少女『バイトちゃん』は、些かたじろいでいた。
「……それ、他の人と被りませんか?」
「ぜんぜん被んないよー! だって私のあだ名が『クロカミ』なんだよ?」
そうでした。
この方、日夜クロカミと呼ばれているんでした。
とてつもなくテキトーな性格の持ち主なんでした。
まともなのを期待するだけ馬鹿を見ることに気付き、町娘は項垂れた。
そして、仕方なく町娘があだ名を受け入れようとした。
まさにその時、
「――ならば、俺が考えてやろう!」
……営業が、来た。
あだ名決めのあと、いよいよ仕事開始です。
次次回ですね。お楽しみに。
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