それは、クロカミの一言で始まった。
「……バイトちゃん」
「なんですか?」
「その辺に判子落ちてない?」
「ハンコ、ですか?」
昼食を食べた直後で、集中力が切れ始める午後の二時。
スタッフルームにて、バイトとクロカミは書類整理に明け暮れていた。
現在、待合スペースに依頼をしに来た客はいない。
周りに見せびらかすように籠手を磨くナルシストや、ベンチ脇に置いてある雑誌を読み漁りに来た文無しなど、クエストを請ける気なんてさらさらない冒険者がいるばかりだ。
ゆえに、バイトたちは暇だった。
受付につっ立っていても時間の無駄だった。
それならば、呼び鈴を置いて裏方に撤収しても然したる問題はない。
依頼書のリスト化作業に、クエストが達成されたことを依頼者へと伝える連絡業務。
やることはたくさんある。
長机にて、乱雑に置かれた書類の山に囲まれる中。
働き者の受付嬢たちは、互いに向かい合い仕事に没頭していた。
そんな空気の下で出た、クロカミの探し物。
「判子」。
書類の内容を確認した証明に必要なこの小道具を、彼女は探しているようだった。
羽ペンを動かす手を止めて、バイトは右へ左へと視線を動かす。
しかし、
「ないですね」
それらしき物体はどこにもなかった。
それもそうだ。
備品が詰まった木箱に書類の束などは数多あれど、世話好きなバイトのおかげで床にゴミはひとつも落ちていないのだ。
「そっかー、ないかー」
残念そうにクロカミは息を吐いた。
まだ紙の端を持ち上げて探している様子を見るに、よほど困っているらしい。
しかも、机の中央付近に置かれた受付所用の共用判子に目もくれないことから、おそらく彼女が欲しいのは彼女自身の名が彫られた判子。
つまり、借用書などに使われるような個人用印鑑を彼女は無くしてしまったのだろう。
この彼女、何か個人で取引でもする気なのだろうか。
思わずバイトは訊いてみた。
「……何か書類の申請で必要なんですか?」
「うーん、まーそんな感じかなー」
そういう彼女は、遠くを見るとほぅっとぼやいた。
「ちょっと二人が結ばれるための書類に、判が必要なんだよねー」
「……ま、まさかそれって!」
二人が結ばれるための書類。
それすなわち、『婚姻届』。
クロカミは今、幸せを掴もうとしていたのだ。
「――おめでとうございます、クロカミさん!」
燦々と花開くマリーゴールドのように顔を耀かせ、バイトは惜しみ無い拍手を先輩へ贈った。
「良いお相手が見つかったんですね!」
「いやぁ、何だか照れちゃうなー」
後頭部を掻くクロカミは、心底嬉しそうな表情をしていた。
その反応は思い切ってマイホームを買った冒険者のようにリアルであり、それゆえに彼女の話はますます真実味を帯びていく。
クロカミは本当に結婚するのか。
なにか騙されているんじゃないのか。
常識ある天邪鬼であれば、すぐに覚える違和感がそこには確かに漂っていた。
しかし、それを感じとることのできる受容器を、純粋なバイトは有していない。
だからだろう。
自分のことのように憘ぶバイトは、ニコニコ笑顔のまま先輩にこんな質問をした。
「ちなみにクロカミさん」
「んー、なーに?」
「お相手は誰なんですか?」
「あー、それはねー…………あれ?」
と、そこで。
土砂崩れを起こした書類の下から、クロカミは木製の小物を引っ張り出した。
「なんだ、これ」
それはマカロニのように細く短い棒。
先端には凹凸があり、赤いインクがこびりついていた。
間違いない。
それは剥き身の判子であった。
「やたー! 判子だー!」
どうやらお目当てのブツが手に入って、一時的にハイになっているのだろう。
嬉しそうにクロカミは諸手を上げた。
「見つかってよかったー!」
(……?)
探し物が見つかってよかったですね。
これで婚姻届を提出できますね。
そういう台詞が出てきても良いはずの場面だというのに、バイトは何も言わなかった。
何も言わずに首を捻っていた。
なぜか。
判子の先端に刻まれた模様が気にかかったからだ。
ここに来て、ようやく不信感を抱いたバイト。
恐る恐る、彼女は訊いた。
「……あの、クロカミさん」
「どした?」
「その判子、見せてくれませんか?」
「……? いいけど?」
はい、と手渡された小物をバイトは両手で受け取った。
そして、まじまじと先端に彫られた模様を観察する。
彫られていたのは、左右反転させられた文字。
それを脳内で裏返すと――――
「営…………業?」
営業。
この受付所で働く女好き。
神出鬼没のぬらりひょん。
仕事をしているところをほとんど見ず、暇さえあればキャバレーやパブに勝手にランキングを付け。
女性の前ではええかっこしいな態度しか取らない、休日のお父さんみたいなあの男。
なぜクロカミは営業の判子を欲しがったのか。
その理由が嫌な方向で見え始め、バイトは密かに戦慄する。
まさか。そんなはずがない。
そんなはずはないけれど、万が一と言うこともある。
これは白黒はっきりさせなければならない事象だ。
そう考えたバイトは、意を決して質問した。
「も、もしかしてクロカミさん」
「なんでしょーか?」
「以前から営業さんとそーゆー関係だったんですか…………?」
「…………前からの関係というか、今からの関係というか?」
「――まさか、爛れた関係だったと!?」
「ちょっと待って、きみ何か勘違いしてない?」
どうどうどう、と後輩を落ち着かせ、クロカミは弁明する。
「私はただ、営業の判子が欲しかっただけだよ。それ以上でもそれ以下でもない」
「……結婚するために、ですよね」
「は?」
「婚姻届けに判を押したかったんですよね?」
「ちがーうよ! 誰があんな奴好きになるか!」
クロカミは言った。
「私はある契約がしたかっただけ。
そのためにあの男の判子が必要だっただけなの」
「でも、他人の判子で一体何をするつもりなんです…………?」
「そんな大したことじゃないよ。この紙に判を押すだけだから」
そう言うと、クロカミは手元の紙をバイトに見せた。
ぺらり、と掲げられたそれには何行か文章が綴られていた。
それらを要約すると、次の通りになる。
借用証明書
《借入金》
300,000グラン
《内訳》
・個人用ビールサーバー設置費用
・ビール樽の定期購入代金
《支払い》
クロカミ
《連帯保証人》
営業
「――――てめぇ、ふざけんなクロカミィィ!」
間一髪。
仕事(?)から戻って来た営業は、クロカミから借用書を取り上げた。
「あーっ!」
不平そうにクロカミが大声を挙げる。
「営業のくせに、私の覇道を邪魔するとかサイテー!」
「お前の方が百倍最低だ、タコ!
なに勝手に他人の名前で借金しようとしてんだよ!」
「……アンタニナラ、ナニシテモイイト、オモッタ、デス」
「棒読み止めろ、腹立つわ!」
ぷぅーっ、と膨れるクロカミを他所に、営業はでたらめな借用書へ目を通した。
そして、署名欄で視線が止まる。
彼の眉が気色悪く吊り上がった。
粗が見つかったらしい。
彼は言った。
「――というか、『営業』ってただのあだ名だろうが。
文書に直接書いても、法的拘束力は皆無だぞ」
軽い仕返しのつもりだろうか。
意地悪く、営業は嗤う。
「もしかして、そんなことも知らなかったのか?
常識だぞ?
きみきみ頭、大丈夫???」
カッチーン。
クロカミが、キレた。
「うるさいなー!
なら、本名で書いてやろうか!
*****(営業の本名)!!」
「おいおいおい、マジでやめろ!
俺に借金背負わせた挙句身元曝すとか、いったい誰が幸せになるんだよ!
お前が幸せになるだけじゃねぇか!
…………あ、動機はそれですか」
「それだけじゃないわい!」
きっとタガが外れてしまったのだろう。
恥も外聞も捨てて、クロカミは己が欲望を吐き出していく。
「今週末はソロでビアパーティーする予定なの!
だから、今日中に業者に書類を届けときたいの!」
そう言い切り、クロカミは鋭く手を突き出した。
「だからその紙を渡して、早く!!」
「――んな理屈が通って堪るかよ!
それで損するの、俺だけだぞ!」
「もー、そんなに使われたくないんだったら判子は要らないよ…………『血判』にしてあげる」
「何恐ろしいこと言ってんの、お前!?」
恐怖で震えあがった営業の言葉は、もうクロカミの耳に届かないらしい。
サーバーから注がれるキンキンに冷えたビールのために、この酒豪は一種の狂人と化していたのだ。
「バイトちゃーん、そこのハサミ取ってくれるー?」
クロカミは言った。
「こいつの指、スッパリ切るからさー?」
「だぁぁッ! なんだよなんだよ、なんなんだよ!!」
もはや抵抗する意味がないと悟ったのだろう。
今まで心内に秘めていた本音を、営業はすべて曝け出していった。
包み隠さず、命も顧みず。
純度100パーセントの言葉で、語る。
「――そんなにビールサーバーが欲しいなら自分で買えよ!
なんでこういう時、毎回俺を一回経由するんだよ!
そんなに構ってアピールするとか、もう俺のこと大好きじゃ…………あ。
待って。
ちょっと待って、あ、ちょっと首!
首しまってるしまってるしまってるぅぅぅ!!」
《業務報告》
バイトの仲裁によって、クロカミのスリーパーホールドは解除。10秒間の失神のみで営業は復活。実質的に被害はなかった模様。
ちなみに、クロカミ自身も己の身勝手さを猛省し、営業へ謝罪したとのこと(ただし、心は籠っていなかった様子)。
また、購入予定だった件のビールサーバーは、皆の意見をすり合わせた結果、隣接した酒場に導入するという案で決着を見た。
この導入にあたっての金策は、現在水面下で『領主持ちにする』プランで進行しており、その点においてクロカミと営業は和解したとのことである。
……領主の報復が待たれるところである。
以上。
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