ある日の夕暮れ。
終業直後。
スタッフルームにて。
クロカミと営業は、残業に追われていた。
「……」
「……」
モチベーションの上がらない作業。
特に意見を交わす必要性のない課題。
所内に一般の人々はおらず、待合室の灯りは落ちている。
受付のカウンター周りを掃除しているのはバイトだけ。
毎日低リスクの依頼を漁りに来る冒険者たちは、軒並み隣の酒場へと繰り出してしまった。
だから現在のスタッフルーム周りは、冷え切った空気で囲われていた。
酒場の方から聞こえてくるのは、酔っぱらい共のバカ騒ぎ。
そんな対岸の祭りをBGMに、受付所のスタッフたちは机に向かっている。
「……ねぇ」
突如、クロカミが声を発した。
顔を上げずに営業が反応する。
「――なんでしょうか」
「この仕事、手伝ってくれない?」
手元の依頼書をひらひら振って、クロカミは言う。
「もーさー、今日何十枚も人の名前やら報奨金の数字やら書いてるからさー。
手首が腱鞘炎になりそうなんだよー」
「……だから?」
「半分、頼まれてよ。何か奢ってあげるからさ」
やっぱり顔をあげずに、営業は応えた。
「――やだよ」
「なんで」
「年下に奢られるのは、俺のポリシーに反するからです」
「じゃあ、私が奢られてあげる」
「それでも却下」
「なんでよ」
ハァ。
営業も手元の計画書をひらひら振り、苦悩を語った。
「俺も仕事中なんだよ。
明日までに計画の修正案を出さないといけないんだ。
だから無理なの」
「ふーん……相手は誰?」
「コウロ地方漁業組合の組合長さんだよ。
港の補修工事の件でさ、相談受けてんだ」
「あー。あのイカの塩辛好きのふとっちょマンか」
「資材的に金をもう少し出してほしんだけど、組合員の何人かが出し渋ってるらしくてさ。
しかも桟橋の設計にまでいちゃもんつけて来てんだよね」
「まぁ、あのふとっちょさんは信用されにくいかもねー」
「……そうなのか?」
「あれ、意外?」
「そりゃあな。
あの組合長といったら、賄賂貰わないことで有名だし」
「金回りのガードが固いのは、私だって知ってるよー。
前に一度だけ密猟者成敗の件で話したことあるから」
「んじゃあ、どの辺りがダメンズなんだ?」
「まー、一言で言えば『スケベ』なんだよ」
「…………あぁ、なるほど」
「前にあった時もしつこくお触りしてきてさー。
お尻触られそうになったもん」
「……で、その後はどーなったんだ?」
「んーとね。嫌な顔されるわけにはいかないから、笑ってその場を誤魔化したと思う」
「どんなふうに?」
そう訊かれると。
ガッツポーズをして、クロカミは朗らかに言った。
「――『もー、組合長さんのえっちぃー』って、肩のあたりをバシッとね。
はたいてやった」
「…………それでか。
この間あの人が、『肩脱臼した』って言ってたのは」
再び、スタッフルームが静寂に包まれる。
表のドアの方から音がするのは、バイトがカウンター内の道具類を手入れしているからだろう。
未だ職員たちは、仕事から解放されていなかった。
「……ねぇ」
「なんでしょうか」
また、クロカミが口を開いた。
ペン回しをしながら、面倒くさそうに営業はそれに耳を傾ける。
彼女は言った。
「最近、肌荒れが気になるんだよね」
「急にどうした」
「おでこなんだよ、おでこ。初めてニキビできたもん、この間」
美容に関するこの話題。
乙女からすれば、まさに一大事だ。
すぐに営業は、所で働く同士にアドバイスを贈る。
「酒、飲み過ぎなんじゃねーの?」
「それはないよ」
「どうして、そう言い切れる?」
「だって、お酒は正義だから」
「子供かよ」
「……いや、子供はお酒飲めないでしょ」
「揚げ足取るんじゃねぇ」
ペン先を向け、営業はぱっくり言った。
「酒の摂り過ぎは、血管に負荷かけるんだよ。
トイレに行く回数が増えるから、脱水にもなりやすい。
だから肌にダメージが回るんだ。
あと、お酒に含まれてる成分にも気を付けておいた方がいい。
酒精は言わずもがなだが、気を付けるべきなのは主に糖分。
こいつを摂りすぎると、なんつったか……『ほるもんばらんす』?
それが崩れるらしい。
そんで肌に脂が滲みやすくなって、肌が荒れるんだと。
内臓を痛めると顔が黒くなる原因にもなるし、まぁ酒はほどほどが良いんだよ、きっと」
「へぇー」
数字の記載を終えた書類を手続き完了の箱に入れると、クロカミは感嘆の声をあげた。
実際、酒通である彼女からしてもタメになる情報だったのだろう。
目を丸くして、思わずクロカミはこんなことを訊く。
「それ、どこからの情報?」
「え」
「アンタがそういうこと、本から学ぶわけないじゃん。
人づてに聞いたんでしょ?」
「まぁな」
「誰から訊いたの?」
気まずそうに頬を掻く営業。
そして。
斜め下を見た彼は、小さな声でこう述べた。
「――――2日前、看護師のカノジョが教えてくれた」
「…………」
「あ。もう元か」
「……聞かなきゃよかった。
いろんな意味で」
残業はまだまだ続く。
同じタイミングでインクの瓶にペン先を付け、二人はそれぞれ抱えた書類の処理に取り掛かっていく。
「お酒、節制しろよ?」
「そういうアンタは、早く運命の人と出会いなさい」
「…………」
「…………」
三度、スタッフルームが静寂に包まれる。
ぎぎっと何かを引きずる音がするのは、バイトが待合室のベンチを動かしているからだ。
新人受付嬢である彼女の仕事の終わりは近い。
加えて、呑み勝負でも繰り広げられているのか、酒場の方からは絶えず歓声が上がっていた。
一日の労働から解放された彼らは、冷えたビールとカラッと揚がった肉を全力で愉しんでいるらしい。
鬱憤の晴れたそのムードは、風を伝ってスタッフルームまで届いていた。
それでも、クロカミや営業は黙々と作業を消化していく。
ちゃぶ台を返して酒と食事にありつきたい思いをぐっと堪え、目の前の書類を処理していく。
…………五秒後。
「ねぇ」
「なんでしょうか」
クロカミは言った。
「――――この仕事、手伝ってくれない?」
「無限ループ!?」
……続く?
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