翌日。
学園では、普段通りに授業が行われていた。。
ミーナの教室では、教師が淡々とした声で教科書を朗読している。
教師の話を聞いていない生徒も何人かいて、そのミーナもその一人だった。
別に、さぼっていたわけではない。下腹がジクジクと痛みを発していた。
トイレに行こうか休み時間まで我慢しようか、迷っているところだった。
「大丈夫? 顔色悪いよ」
隣の席のリーゼルが小声で指摘する。
「ごめん、なんかお腹痛くて……」
「保健室で休んだ方がよくない?」
「うん……」
教師がちらりと視線を向ける。リーゼルが手を上げる。
「先生、ミーナが具合悪いみたいなんで、保健室に連れていきます」
「ああ。行って来い」
「ほら、立てる?」
リーゼルに手を引かれてミーナは教室を出た。
リーゼルは小さくて弱々しく見えるが、意外としっかりしていたりする。
廊下を歩いて、階段を降りている時に、腹痛の質が変わってきた。
「あっ……」
「どうしたの?」
「ごめん。トイレ行きたくなってきた」
「大丈夫?」
「うん、ちょっと時間かかると思うから、先に教室戻ってて……」
リーゼルの心配げな視線を感じながら、ミーナはトイレに入る。
トイレを済ませた後で、ミーナは一人、フラフラした足取りで保健室にたどり着いた。
保険医はミーナの病状について簡単な質問をし、熱を計った後、病院に連絡するかどうか聞いた。
ミーナはそこまで重症ではないと思ったので断った。
とりあえず寝ているように指示され、ベッドに横になる。
消毒薬の匂いがする枕に身をうずめていると、瞼が重くなってくる。
気づかないうちにしばらく寝ていた。
何か不気味な夢を見たような気もしたけれど、何も思い出せなかった。
「うっ?」
急にズキリと心臓が痛んでミーナは胸に手を当てた。
マラソンの後のように激しい動悸が脈打つ。それなのに体温は逆に下がっている。
やっぱり病院に行った方がよかったのではないか、そう思って声を上げる。
「あっ、あの……」
だが保険医の返事はなかった。何かの用事で外に行ってしまったようだ。
ミーナはベッドから這い出た。
誰か人を呼ばないと、そう思って電話機の所まで行こうとするが、数歩歩いただけで立っているのもつらくなって、しゃがみこんでしまう。
荒い呼吸の中、何かできることがないかと辺りを見回すが、何も思いつかない。
視界が青いチリチリした光に埋め尽くされて何も見えなくなっていく。
「あら、何をしているのですか?」
ばちん、何かのスイッチが切り替わるように、視界が元に戻った。
顔を上げると、いつのまにかシスター・エルミーヌいた。
「ずいぶんと具合が悪そうですね」
エルミーヌは、ミーナを抱えるとベッドに戻す。
「脱水症状かも知れません。水分は摂っていますか?」
「いえ……」
「これを飲みなさい」
ペットボトルのお茶を差し出された。なんで用意していたんだろう、とミーナは不思議に思いながらも飲む。
少し楽になった。
「昨日、寝る前にシャワーを浴びましたか?」
「いえ……匂いますか?」
「そうですね、上を脱ぎなさい」
何を、と反論する間もなく、強引に服を脱がされた。下着もだ。
「し、シスター? 何をするんですか?」
「ほら、大人しくしていなさい」
エルミーヌはお湯に浸したタオルで背中を拭いてくれる。
冷え切っていた体が温まっていく。
「すみません、こんな……」
「いいのですよ。具合が悪いときは誰にでもありますからね」
「っ……」
エルミーヌが指先で背中をつつくと、そこからピリピリと電流が走るような感じがした。
「いい感じに育ってますね」
「え?」
「ああ。子どもはいずれ、大人になるのですよ。ほら、服を着なさい」
よくわからないまま、再び服を着なおす。
エルミーヌは微笑む。
「今のは校長に内緒ですよ」
そして、エルミーヌは保健室から出て行った。
やっぱりレズの噂は本当なのかな? とミーナは思ったけれど、深く考えないことにした。
ミーナは毛布を被ってもう一度眠りにつく。
奇妙な夢はもう見なかった。
〇〇〇
フーベルトが会議室についた時には、フランツとプロトはもう来ていた。
フランツが言う。
「少し早いが、揃ったので始めるとしようか」
「三人だけか?」
フーベルトは席に座りながら聞く。
「遅れてきた君に説明するための場だからな」
プロトはつまらなそうに答えた。
フーベルトが知りたかったのはヨランドがいない理由だし、そもそも遅刻していないのだが。
「時間は間違えていないと思うんだが……」
「遅れたというのは、君が基地に到着した日付けのことだ。招集の決定が遅かっただけで、君の責任ではない」
フランツが言い、資料を差し出してくる。
「一つ目の資料は、ペトスコスヒッグスの概要だ。頭の中に入れておいてくれ」
ダイルデサントやセベクノートは、人間が怪物化することで発生する。
しかし、ダイルとダイル化する前の人間の違いは何なのか?
ダイル化した者を人間に戻すことは本当にできないのか?
多くの科学者がそれを研究していた。
そんな中、ある科学者がダイルデサントから特殊な物質を抽出して、薬剤に加工した。
これがペトスコスヒッグス。
この薬を飲むと、ダイルデサントのように奇跡が使えるようになる。
魔術は、装置を持てば発動できるが、完全な制御には訓練が必要になる。
それに対して、ペトスコスヒッグスで獲得した奇跡は、発現した当日に戦力化できる。
これで、人類側はお手軽に戦闘力を増やせる……と、当初は考えられた。
「……実際には、被験者は一週間ほどでダイルデサントと化し、しかもその変化は不可逆だということが確認された」
フランツは沈痛な表情で言う。
フーベルトは、資料を読んでいく。
「この特殊な物質というのは、結局何なんだ?」
「知らん。物質名や化学式が書いてある資料を見たことはない」
「そうか」
極秘なのだろう。情報が洩れてテロリストにダイルデサントを量産されたりすると困るから、仕方ない。
「その実験の被験者は? 怪物化して、それでその後はどうなった?」
「さあな……」
フランツは言葉を濁した。
だが、予想はつく。怪物として処理されたのだろう。
問題は二つ目の資料だった。
「これは……建物の見取り図?」
「ブルガダ寄宿学園、16番街にある教育施設だ……」
今度はプロトが説明する。
聞き覚えのある学園の名前。
昨日会った少女の顔が、フーベルトの脳裏に浮かぶ。ミーナがいるのも、ここだ。
「この学園に、ペトスコスヒッグスが流れ込んでいる」
フーベルトには信じがたい話だった。
前回プロトは、ペトスコスヒッグスが麻薬として流通している可能性に言及していた。
だが、昨日会ったミーナを見る限り、この学園はそこまで治安が悪いわけではない様に思える。
「ここ一か月ほどの間に生徒が六名、体調不良で入院している。そのうち四人が病院から姿を消し、そのまま行方不明になっている」
「四人も? 残り二人は?」
「残り二人は軍が身柄を確保した。だが、二人とも……ダイル化の第二段階に入っていた。現在も治療を続けているが、進行を止めるのがやっとだし、当人たちは意識不明の状態だ」
「証言が取れていないという事か……」
「それ以外に三名、生徒が行方不明だ。確実に学園の中で何かが起こっている。だが、情報が足りない」
七人が行方不明、二人が昏睡。一時閉校にならないのがおかしいぐらいの事態だ。
生徒の保護者は何か文句を言ったりしないのだろうか。
「被害者の友人からは証言が取れないのか?」
「やるだけのことはした。だが誰に何を聞いても、被害者は麻薬などに手を出すような人ではない、と本気で答えるのだ……」
プロトは困ったように首を振る。
「つまり、麻薬に紛れて流通しているわけではないと?」
「子どもの証言など当てにはならない。麻薬を最初から麻薬だと言って売りつけられて、買うバカがいるか? 違法性はないとか健康にいいとか、適当に騙して飲ませるのだろう」
「まじめな人間ほど、相手の言うことを信じやすいからな……」
フランツがうんざりしたように言う。
「しかも、ペトスコスヒッグスの場合は一錠飲ませればいい。麻薬と違って習慣化させる必要はない。最悪、飲食物に混ぜても効果を発揮するかもしれない」
厄介な話だった。それなら、砕いて学食のサンドイッチとかに紛れ込ませるとかでも十分かもしれない。
ただし、その場合は食堂の調理場に監視カメラを仕掛けるだけで犯人がわかる。
軍もそれぐらいのことは既にやっているはず。
「じゃあ、どうやって調査するんだ?」
「潜入捜査しかない」
プロトは資料の次のページをめくり、ボールペンでカツカツと叩く。
「君には教師に扮して学校に潜入してもらう」
「俺が?」
「生徒受けが良さそうな顔をしているぞ。適任だろう」
「授業なんてできないぞ」
急に教師に化けろと言われても、教員免許など持っていない。
それぐらいは軍で偽造できるのかもしれないが。
「心配はいらない。そもそも長期作戦にはしない。状況は完全に手遅れだから、強引にでも情報を集める」
「容疑者は絞り込めているのか?」
「全くダメだ。だが、情報の隠蔽能力を考えれば、犯人は生徒ではない。疑うなら教職員だ」
「それじゃ、潜入したことなんてすぐばれるだろ」
「本当の調査役は別にいる」
「じゃあ俺たちは囮なのか……」
フーベルトは、あまりいい気はしなかった。
だが、さほど複雑な仕事を期待されていないのなら、なんとかなりそうだ。
ついでに聞いてみる。
「それで、ヨランドはどうしてここにいないんだ? もしかして逃げたのか?」
「逃げた? 何から?」
「彼女の容姿なら、ここにいたら生徒役を割り振られそうだからな」
フーベルトはもちろん、冗談のつもりでそう言ったのだ。
だがプロトは真顔で応じる。
「もうやらせている。情報収集の要はそちらだ」
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