ヨランドは暗い川の中に立ち尽くしていた。
水面には様々な色彩が浮かび、流され、左右を通り過ぎていく。
色彩は生き物のようにも見えた。
紐のような手足が何本も生えていて、パシャパシャと水面を叩いている。
川の流れる先にあるのは大きな滝だった。
ヨランドは滝を見つめた後、川の上流のほうに向きなおる。左右からは岸に上がれそうにない。遡るしかなった。
だが、数歩進んだところで何かに後ろ髪を引かれる。
『おい、どこに行くつもりだ? そっちは違うだろう?』
誰かの声が聞こえた。
誰の声なのか、名前は思い出せなかったが、よく知っているような気がした。
滝の向こうで、誰かが自分の帰りを待っている。
ヨランドは名残惜しく川の上流を見た後、背泳ぎのように水面に浮き、流れに身を任せた。
川に流され、滝つぼに、落ちる。
ばちん
最初に聞こえたのは心電図の音だった。
しゃべろうとしたが、口に酸素マスクのような物が突っ込まれていて口がうまく動かない。
「起きたか」
ぼやけた視界。
プロトがのぞき込んでいるような気がしたが、すぐに見えなくなった。
「……」
世界がぐるぐると回転しているような感覚。
ヨランドはそれが収まるまでしばらく待ってから、目を開けた。
どこかのホテルの部屋。そのベッドに寝かされていた。
ヨランドは少し考え、ここが数日前に用意したセーフハウスの一つだと思い出す。
枕元に電気スタンドぐらいの小さいパラボラアンテナが二つあって、一つは自分の頭に、もう一つは隣のベッドの枕元に向けられている。
脳接続装置。
意識を失った人間に対して強引に呼びかけるための道具だ。
「……」
ヨランドは、自分がまた死んでいたと理解した。
酷い頭痛がするし、倦怠感もあった。
それでも重い腕を何とか動かして酸素マスクを外す。
起き上がり、上半身が裸なのに気づいて毛布を引き上げる。
毛布には血がついていた。もちろんヨランドの血だ。
「ええと……」
どうしたらいいかわからず、視線を迷わせると、プロトを見つけた。
部屋の隅のテーブルで、こちらに背を向けてノートPCを起動しているところだった。
ヨランドが黙って背中を見ていると、プロトはむっとしたような顔で振り返る。
「どうした? 記憶はあるんだろうな?」
「ええ、あると、思います」
「果たすべき任務の内容は?」
「ペトスコスヒッグスの流入ルートの解明、マルヴァジタの追跡、以上です」
ヨランドは正しく答えたつもりだったが、プロトは首を振る。
「フーベルト・アシアスの監視が追加されたことを忘れているぞ。あれは十中八九、マルヴァジタの端末にされている」
「そうでしたね」
「しかもこの男、どこを調べても気が滅入る情報しか出てこない。全く、こんな人間に武器を与えて仕事をさせる奴の気が知れんな。いつ暴走するか分かったものではない」
「私たちも、あまり他人のことを言えた物ではないのでは……」
ヨランドが言うと、プロトも自覚はあったのか、一瞬だけ考え込むような表情になった。
だが、その件には言及せず、話を続ける。
「それで? 君は自分がどんな状況で死んだか、覚えているか?」
「撃たれました。時計塔にスナイパーがいて……」
「覚えていることを正確に報告しろ」
ヨランドは目を閉じて、バラバラになった記憶を組み立てながら話す。
「……撃たれるとわかって、銃弾の軌道は見えていました。一発目は自分に当たらないだろうと。でも、私が何もしなければ、彼女たちに……一般の生徒に命中していたと思います」
「だから、わざわざ盾になったのか? 放っておけばいいものを」
「そういうわけにはいきません。命の価値が、私とあの子たちとでは違いますから」
ヨランドが言うとプロトは嫌そうに首を振る。
「自分の命を最優先に考えないのは、良くない傾向だ」
「言い方を変えてください」
「できるだけ死なないようにして欲しい。……これでいいかね?」
「微妙ですね。次はもうちょっと、私が嬉しくなる言葉を探してほしいです」
「その「次」が来ないようにしてくれと言ったつもりなのだが?」
プロトは困ったような顔をしていた。今回はそれで許すことにした。
毛布をどけて体を見下ろす。鳩尾のあたりに雑な縫い跡があった。
「この傷は?」
撃たれたのは背中側だったはずだ。
「弾丸は摘出した、はずだ」
「はず?」
「完璧な仕事などない。少なくとも私は医者ではないからな。違和感があるなら言え、なくても後でレントゲン検査を受けろ」
「そうですね」
つまり、ここを切り裂いて弾丸を摘出したのだろう。
ヨランドは傷に指先を当て意識を集中する。
傷が溶けるように消えて、何もなかったかのように綺麗になった。
実質的に不老不死と化しているこの体は、こういう時は便利だ。
「……また生き返ったのですね」
「幸せなことだろう。死んだまま生き返らないよりは……」
プロトが言う。これはたぶん本音。
「一度も死んだことがない方が幸せなのでは?」
「そうだな。君がそう思うようになってくれて嬉しいよ」
これはたぶん皮肉。
プロトの微妙な葛藤を感じて、ヨランドは苦笑する。
「それで、これからどうするのですか?」
「シューマッハとモルガナが現場に出ている。やつらは単純だ。標的を殺すことしか考えていない」
プロトは苦々しく思っているようだった。
ダイルを見つけて叩きのめす。それが一般的な軍人の仕事だ。
プロトとヨランドの任務は違う。
目的は情報収集だ。ダイル一体の抹殺よりも大事なことがある。
人間が、悪意を持って人をダイル化させているなら、軍がいくら戦っても根治には繋がらない。
情報を集めて真の敵を追い詰めれば、将来発生するダイルの数を減らすことができる。
大事なのは情報だ。
死体は情報をはかない。殺される前に接触する必要がある。
「どうして彼女たちは協力してくれないんでしょうね」
「指揮系統が違うからな。だが情報の速度ではこちらが上のはずだ。一休みしたら出発する」
今は時間が惜しいはず。
それでも一休みする余裕を与えてくれるのは、プロトなりの優しさだろうか。
「シャワーを浴びてきます。あなたも一緒にどうです?」
「今はそういう冗談が許される状況ではない」
プロトは感情を交えずにそう言い、PCの方に戻った。
ヨランドはベッドから降り、汚れた下着もその場で脱ぎ捨ててシャワールームへと向かう。
シャワーを浴びている途中、プロトの怒鳴る声が聞こえた。
敵襲かと思い、魔術で周辺を探査したが異変はなかった。
ただプロトが、イライラした様子でPCの画面を眺めているだけだ。
呼ばれていないようだったので、無視して最後までシャワーを浴び、体にバスタオルを巻いて戻る。
プロトはPCの画面を見つめ、何か考え込んでいた。
「さっき、何か叫んでいましたか?」
「ん? ああ……これを見ろ」
PCの画面に映っているのは、ドライブレコーダーの録画のようだった。
男が少女の手を引いて走っている。フーベルトとミーナだ。
「あら? あなたが車を離れていた間に横を通り過ぎていたと?」
「車は通用門の前に止めた。離れていた時間は、ほんの五分ほどだ。その間にこれだ」
この動きはたぶん、死んだヨランドを回収するためだろう。
同じ通用門からミーナは校外に出て、偶然居合わせたフーベルトが連れ去った。
フーベルトが近くにいることを、あの時点でプロトが知っていたら、現在の状況はかなり違ったものになっていた可能性がある。
「もしかして、私を後回しにした方がよかったのでは?」
「こんな物を予測できるか? それにあの時は君の回収が優先だった」
「今日聞いた言葉の中では一番嬉しいですよ」
「違う。目撃者を増やしたくなかったと言ったのだ」
死人が生き返る様を見られたら、大勢の記憶を消して回らなければいけない。
かなり面倒なことになる。
「それでこのあと、我々はどう動きます?」
「どうしたものかな。フーベルトを追いかけねばならないようだが……」
プロトはため息をつく。
「君はどう思う? どこから取り掛かる?」
「そうですね……。フーベルトは行き当たりばったりで行動しているように見えます」
「……」
「けれど、ミーナ・ニアルガは一般人です。連れて逃げるのは負担が大きいのでは?」
「なるほど。今日中に島を離れるのは難しい。それなら、ある程度の安全が確保できたら、どこかで休息をとるな?」
「ええ」
「では、その線で行こう」
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