言い訳は、できる。一度、不発だったものを、改めて撃とうとも、その成功率は低いだろう。そういう、言い訳だ。
だがもし、そんな言い訳を捨てて本心を打ち明けるなら、丁年は、もう、殺意など抱けなくなっていた、ということなのだろう。
なにかを決意した、眼前のロリババアの、表情。幼く見えようと、自身よりよほど長い年月を、その辛酸を経てきた、複雑さ。
もしかしたら自分より、よほど過酷な経験をしてきたんじゃないかと、瞬間、思って――。
「俺は、あんたを――」
続く言葉とは裏腹に、丁年は、リボルバーを捨てた。
「殺すっ!」
それが床につくころには、世界はまたも、白い非現実に変わっていた。丁年の心には、いま、殺意がなかった。だが彼は、義務的に目の前のロリババアを、殺さなければならないと感じていた。だから、生々しく殺したくはない。己が手を汚したくない。そう、無意識が働いたのである。
世界は白になる。だが、それは一瞬。丁年は考えてなどいない。だが、無意識に世界を、形成した。
白い世界をスクリーンにして、そこに、砂漠を形成。その舞台が選ばれたのは、彼の無意識に、いつか少女と――あるいは他の家族たちとも訪れた、アスワンでの旅が想起されたからだろう。過酷な熱波と日差し。そののちに相まみえた『試練』での頭脳戦。さらにはその後の、現実での、強者との邂逅。丁年としてはどれも、うまく立ち回れなかったと反省する経験だった。その苦みが、世界に顕現する。
にいっ、と、なぜだかロリババアは口角を上げて、笑った。それは彼女自身、理解できない感情だった。だが、なんとなく、ようやく眼前の丁年と、言葉が通じたような気が、したのである。
「ワタクシは、死にたくないよっ!」
ただの感情を、伝える。口を開いた隙に、じゃり、と、細かい砂を噛み締めたのが不快だった。だから、彼女は世界を上書きする。そばにあった『異本』、『グリモワール・キャレ』を拾い上げ、即座に発動。
丁年はここにきて、拳を掲げて迫ってきていた。あえてリボルバーを放り捨て、おそらくさして強靱ではない、拳を。そもそも右腕はもうぼろぼろで動かないはずだ。であるのに、あえて、肉弾戦を選んだ。
いくらなんでも、無策ではないだろう。これまで白の世界で、現実的な物質を生成していない丁年だ。だから、砂漠を生み出したのは、それをコントロールし、自分を仕留めるためだ。そう、ロリババアは考える。
だが、なにをしようとしたかを実感する前に、彼女は、世界を上書きした。瞬間、砂漠は黒の世界に書き換わる。それからすぐに、黒いスクリーンに映像が表示されるように、世界は闇夜の墓地に変わった。それでも、丁年の攻撃は止まらない。ロリババアも拳を掲げ、迎え撃つ。
しかし、互いに近付けば、すぐにどちらかの力で、配置は変動した。互いに互いを殴ろうと、拳を掲げる。であるのに、彼と彼女は、一度もその拳を交わすことなく、ただただ走り、永遠に近付こうとするのみだ。
その間にも、世界は目まぐるしく上書きされ続ける。
白の世界。それはすぐに、極寒の雪化粧に。黒の世界。即座に、岩肌の突き出た山麓へ。樹木の生い茂る密林。広大なサバンナ。高層ビルの林立する大都会。薄暗い監獄。
掲げた拳は、せめてもの敵意。実質的には、丁年もロリババアも、自身が形成した世界で、それを掌握して、相手を仕留めようと画策していた。あらゆる世界を武器に――それは、想像力の勝負。
西部開拓時代の、荒涼とした街。中世ヨーロッパのような、ファンタジックな国。大空を落下し、深海に溺れ。轟雷鳴りやまぬ絶壁や、一寸先すら見えないほどの大嵐。神々の支配する天空聖域。悪魔の蔓延る暗黒世界。さらに概念的な、天国や、地獄。
互いのイメージを、押し付け合う。心の中を、晒して。
言葉のない議論――いや、ただの自己主張だけを、し続ける。
「おおおおおおおおぉぉぉぉ――――!!」
「ああああああああぁぁぁぁ――――!!」
幾十――幾百の世界を越えて、結局最後は、白と黒が綺麗に半々、世界を区切ったただの空間で、丁年とロリババアのその拳が、同時に、互いを射抜いた。
*
ことここに至って、肉体的な差異など、ないに等しい。というのも、外観上、彼らは拳を打ち合っただけではあるのだが、その実は、互いに『異本』で生成した空間をぶつけあっているからである。ゆえに、肉体的にだいぶ劣っている丁年が不利であるとは、まったく言えない。
そして実際に、倒れたのはロリババアの方だった。彼女だけが、黒と白が綺麗に世界を二分する、その空間の狭間に、音もなく倒れたのである。
「はあ……はあ……」
肩で息をして、丁年は、自身の拳を見つめた。当然と、己が力で――肉体的な腕力で敵を打倒したとは、思っていない。
ただ、今回はかろうじて、彼女の心に、自分の心が、勝ったのだ。そう、理解する。
自分の弱さ、醜さには、丁年は凝り固まった確信を抱いていた。俺は、弱い。そう知っていた。だから、勝てたとは言っても、わずかもそのネガティブは払拭しない。しかして、ただ彼女が、自分以上に弱かっただけのことだと、状況だけは理解した。
幾十、幾百と、互いの弱さを晒し合って、だから、やけに素直に、そう解った。
そして、彼女を知ってしまったからこそ、もう、殺意など、微塵も湧いてこない。一撃を喰らわせた。それなりのダメージを与えたし、おそらくとうぶん、気を失っているだろう。しかし、彼女はまだ生きている。であるのに、もう、その生命を終わらせようとは、考えられなかった。
白と黒の世界で、倒れたロリババアの手元に落ちた、濃緑色の装丁をした『異本』を拾い上げる。すると、世界の半分――黒の部分が、すっと消える。世界は白一色になり、だがそれも、数秒の時間差で、解除された。
世界は、現実に、回帰する。だが、その部屋には、非現実的な――倒れ込んだひとりの女性と、物々しく突き立った巨斧が見て取れる。それでも、それ以外には特段に、部屋が散らかっている様子はない。それがまた、妙に不自然な光景だった。
「痛ってえ……」
それどころではない痛みが、丁年の認識に追い付いてきた。右腕は、ぼろぼろだ。適切な治療をしようとも、もう、以前のようには動かないかもしれない。それほどに、ぼろぼろだった。
医療分野に関しても、丁年は勉強している。しかし、理屈はともかく、実践はさして積んでいない。それにそもそも、器具がなにもない。『異本』、『神々の銀翼と青銅の光』で、体の内側へ容易に干渉できるが、そのアドバンテージを用いても、バキバキに折れた腕に、この場で自ら、治療を施すのは無理そうだ。
「どうせ俺は、この程度だよ」
さして体力を使ったわけではないが、気疲れして、丁年は沈むように腰を落とした。壁にもたれ、虚ろな目で、天を仰ぐ。
この腕では、他の戦場へ助っ人にも行けない。三つ子の姉ふたり――長姉に関しては助力など嫌がるだろうが、彼女らの戦いには参加できないだろう。あるいは、少女の助けにも、もうなれない。『異本』の一冊こそ手に入れたが、しょせん俺は、この程度だ。そう、自己嫌悪する。
そうして自己嫌悪すると、やはり思い出すのは、仲睦まじい兄夫婦のこと。尊敬する兄と、秘かに思い焦がれた女性。彼にはなれない。彼女の特別にもなれない。そう理解して、格好をつけて、諦めた気になっていた。愛する女性が幸せなら、それでいいじゃないか。と。
だが、どれだけ言い聞かせても、心は言うことをきかない。彼女が笑顔を向けてくれるなら、そのためなら、なんでもできる。尊敬する兄さえ、血を分けた姉たちでさえ、他のどの家族でだって、敵に回そう。彼女が自分を、選んでくれるなら――。
「はっ……」
失笑する。あり得ない空想に、首を振る。
相変わらず、馬鹿だな、俺は。と、そう思う。だから彼女は、自分を選ばないのだ。そうとも思う。
もう、忘れよう。今度こそ。そう、何度目か解らない決心をして、丁年は、ずるずると立ち上がった。右腕を押さえながら、ふらふらと歩きだす。
誰かの加勢には行けないが、せっかく『異本』を回収したのだ。その後、どこで待ち合せればいいかは解らないが、とにかくこの場は離れた方がいいだろう。とうぶん起きないだろうとは思っているが、まだロリババアも、死んだわけではないのだから。
「『アニキ』……死ぬんじゃねえぞ」
そう口にしたのは、醜悪な心を騙すため。
ほんのわずかでも、あの人が死ねば、自分にもチャンスがあるかも、と、考えてしまった。その醜悪すぎる考えを、搔き消すため。
「ノラを泣かせたら、許さねえ」
部屋を出て、天井を見上げる。上層階で戦っているはずの、兄を睨むつもりで。
身体よりもよほどぼろぼろな心を抱えたまま、あてもなく丁年は、進んだ。なにかをひと区切りするように、部屋の扉が閉まる。
WBO本部ビル、地上10階、『特級執行官 ガウェイン私室』での一戦。
稲荷日秋雨の、辛勝。
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