地割れのごとき災害に、あらゆる化物すら、瞬間、停止した。そして男の思考も同様、停止したのである。
「呆けている場合じゃありません! 立って走りなさい!」
その災害を引き起こしたハゲ――失礼――僧侶は、思わず腰が抜けていたらしい男を引き起こし、無理にでもその手を引き、走った。突っ込むべきところはあれど、敵を止められるのも一瞬だ。ゆえにとにかくは、少女も紳士を引き起こし、その後を追う。
「次やろうとしたらきらいになるからね」
少女は言って、その頬を引っ張り、紳士を走らせた。
「ふぇも、ノラ――」
「でもじゃない!」
少女にも慧眼が追い付いてきて、紳士のやろうとしたことが成功しそうだったことには、理解を始めていた。それにしたって、紳士自身はそれを理解しないままに――つまり、最悪、死んでもいいという気持ちで行っているのだ。追い詰められて、それでも火急に、土壇場に知恵を絞ったのだろう。だからといって、自らを犠牲にするような選択を除外しきれていない考え方に、無性に腹が立った。
どうしてここまで腹が立つか、それを少女は自覚していたから、なおさら――やつあたりに近いほどに、怒っておく。やつあたりだ。だって、その考え方は、まさしく少女が選び続け――これからも選んでいくであろうものと、とてもよく似ているのだから。
「なんで生きてんだよ、てめえ!」
「ええ!? 生きてちゃ悪いんですか!?」
食い気味に男が言うので、僧侶も額を寄せて抗議する。結果、ふたりのおっさんは額をぶつけ合わせ睨み合うこととなる。
「悪いに決まってんだろ! 生きてんなら最初からそう言え!」
「気を失っていたんですから無理ですよ! なんなんですか! 私が死んだと思って悲しんでくれてたんですか!?」
「誰がいまさらてめえの毛根なんか気にするか!」
「それは気にしてください!」
どうやら冗談を言えるほどには落ち着いたらしい。ともあれ、体勢も立て直り、元気も出てきた。
だから、男は呼吸を整えるように、僧侶とぶつけた額を退いた。ずれてしまったボルサリーノを押さえて、目元を隠す。自身よりやや背の高い僧侶に気取られぬように、少しだけ、口元で笑った。
そんな彼らの背を、悠長に見遣り、妖怪は高いところから見下す。
ほんのわずか、生き残ったところで、どうにもならねえ。と、薄ら笑んで。次の部屋に向かう彼らを緩やかに追い、じわじわと、追い詰めるのだ。
*
「いいですか、ハクくん」
神妙な顔付きと声で、僧侶は切り出す。
「なにがあっても、我々の、誰がどうなっても、君たちは逃げてください。力の限り、この地から、離れてください」
「そ――」
男は抗議しようとする。だが、そんな思い付きの、咄嗟の言葉くらいでは、すでに決意した者の言葉は遮れない。
「この件に関して、君たちはただの被害者です。巻き添えを喰らっただけです。これは、我々がなんとかすべき問題。君には――『本の虫』ではない君には、なんの関係もない問題なのです」
そんなことは、解っている。男にだって、解っていることだった。
だから、解っていないのは、僧侶の方である。いいや、僧侶にだって、解っているはずのことだ。
長く会っていなくても、共に進む道から違えても、仲間や、家族というものは、運命共同体だ。その間に、関係のないことなど、なにひとつないのである。
だから、それは、互いにまったく、わがままな願いだった。理由などなくとも、助けになりたいという気持ちにも、突き放す言葉を用いてでも、危難から逃れさせたいという気持ちにも、互いに互いでそれを解ってはいるけれど、まったくもって自分にとっては不利益にしかならないのに、相手を慮ることをやめようとはしない。
それは、本当にわがままな言い分だ。相手がいなくなれば、自分が辛いから。そんな、あまりに自己中心的で、相手の気持ちなど無視した、本当に本当の、わがままでしかないのである。
「ハゲ……いや、タギー・バクルド」
真剣な僧侶の言葉だった。だから、男も真剣に、気持ちを伝えようと、彼の名を、呼ぶ。
「俺には、理由がある――あった。だから、おまえがなんと言おうが、逃げねえ。逃げるのは、やめだ」
「しかし、ハクくん――」
「策がある。俺がなんとかするから――ノラ!」
僧侶にだけ聞こえるような声で話していた男が、ふと、後方で殿をつとめる少女に顔を向け、彼女の名を、呼んだ。
少女は、視線でだけ、応える。きっと、自分にはできない。そう、少女は思った。だけれど、たしかに男なら、それ――この場を切り抜ける策の実行は可能だと。淡い希望だけ抱いて。少し、笑って。
「ヤフユ!」
「はい!」
紳士は、なにも解っていない。しかし、隣を走る少女の表情から、自分に向けるのとは毛色の違う、大きな信頼を読み取って、自らにもなにかできるのであれば、と、溌剌に、声を上げた。
「タギー」
ぽん、と。改めて、僧侶にだけしか聞こえないほどの声量で、彼を呼び、その肩に軽く、手を乗せる。
「俺がなんとかする。だから……助けてくれ!」
ぽかん。と、特に紳士が、虚を突かれて、呆けた顔付きになった。気難しげに眉をしかめていた僧侶も、男の宣言を聞き、それをゆっくり噛み締めて、徐々に、首を傾げていく。
だけど。少女だけは、嬉しそうに笑って、きっと男の言いたいことを理解して……逃げる足を止め、一変。振り向き、急停止した。
「あいあいさー」
少女は、刀を構える。迫る化物たちを見るに、改めて、『絶対に勝てない』と、理解する。それでも、負けるような気は、もう、まったくしなかった。
まったくもってあっけなく、それでいて力強く、であるのにこの緊迫した状況に対して、男は心底からの、しごく真面目で、途方もなく馬鹿げた宣言で、いともたやすく打ち破ったのだ。
シリアスをギャグに変えてしまった。だから、もう、大丈夫だ。だって、ギャグ展開に、死者は出ないのだから。
*
「速度を遅らせるわ! だから、なんとかしなさい! ハク!」
叫んで、一太刀。焃淼語を、振るう。先頭を走っていた餓者髑髏の群れに一刃。硬い骨の装甲に切りかかり、砕けはせずとも、瞬間、動きを鈍らせることに成功した。
だからか、少女の敵対に対抗するように、化物の群れはわずかに、少女へと一点、集中するように行軍を収束させ、仕掛ける。
体長二メートルを軽々超える、筋骨隆々な鬼が、複数、左右から少女へと、金棒を持ち上げ、襲いかかる。餓者髑髏の群れを飛び越え、正面からは、天狗が刀を抜き、大上段から切りつける。上空からは、一反木綿や轆轤首の長い首が隙を狙い、軍の後方からは、雪女が氷の塊を生み出し、不知火の炎がうねり、射止めんと冷気や熱気を掃射する。
以上のような、圧倒的な一斉攻撃にも、少女は気後れせず、一手ずつ対応した。鬼の金棒は、ひとつずつ丁寧に、焃淼語で受け流し、逸らした勢いで、むしろ餓者髑髏たちの動きすら阻害した。天狗の一刀は強靭に、そして鋭い。さすがに一太刀でやり過ごせはしなかったが、二三合やり合い、わずかに退かせることに成功する。そうこうしながらも、上空への警戒も怠らない。その隙のなさに、一反木綿や轆轤首。あるいは、白うねりや黒手なども牽制以上のことは手が出せずにいた。雪女や不知火の遠距離攻撃も、ひとつひとつ避けて、あるいは、後ろの男たちに飛び火しそうなものは適切に、払い落とす。
「やれ、『九尾』」
その程度の戦闘力など、妖怪にはお見通しだった。だから冷静に、担ぎ上げられた大将椅子にて、ただ無慈悲に、最高戦力の大狐へと指示を出す。
ギュウウゥゥ――。と、甲高い声を上げ、空気を震わせる大狐。黄金の毛並みも逆立ち、金の瞳を細め、少女へと狙いを定めて、地獄へと誘うほどの威容を、ただの人間へ突き付けた。
それは、圧倒的な力の、現実以上もの破壊力を持った、幻術。地獄の業火で瞬間に、骨も残さず焼き尽くす。もとより逃げ場すらない空間に閉じ込め、それでもさらに、十字架に張り付け、その四肢を縛り、身動きすら封じる。津波や突風のような勢いで、矮小なる人間の、ただの一個の生命を焼き尽くすために、空間が、炎が、あらゆるすべてが牙を剥く。それだけの大仰な幻覚を用いて、完膚なきまでに大狐は、少女を葬った。
「精神干渉は、わたしには効かないわ」
その声は、大狐の脳内に、直接響く。まるでそれに、空間ごと切られたように、少女を襲っていた幻は、綺麗に裂け、崩壊して消えた。威風堂々と、少女はひとり、仁王立ちして、握る刀の切っ先を、大将である妖怪へ向ける。まだ止めどなく攻勢を衰えさせない化物たちの、その中でも。
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