それは、いまとなっては昔の話。涙に濡れた彼女の姿が、満点の青空を隠していた。
そうだ、あの日――彼女が飛び降りた日。俺も同じように、その後を追った。――と、壮年は、想起する。
なんという因果か。こんなところだけ、似てしまうとは。
壮年は、終わった。その人生を、閉じた。――そのつもりで、後悔と、懺悔と、深い深い安らぎとともに、愛した者の姿を脳裏に浮かべていた。
愛したつもりになっていた者を。彼女のすべての、表情を。言葉を――。
「…………?」
その走馬灯は、あまりに時間を超越していた。し過ぎていた。
もうとうに、死んでいてもいいはずなのに――。
「リュウ様っっっ――!!」
「――――っ!?」
おそるおそると瞼を持ち上げて見るに、そこには――。
「わだっ――私は――!!」
「フルーア――!?」
ほつれかけた栗色の三つ編み。大きな丸眼鏡を傾けて。ぐしゃぐしゃの表情をした、友がいた。
友のようで、あるいは娘のような、大切な、『家族』が――。
「リュウ様が、いなくなるなんて、ぜったいに、いやっ――!!」
取り繕わない言葉が、鋭く心へ、響く。
なにが、どうなった? 乱暴に彼女に腕を掴まれ、庇うように抱き寄せられ、壮年は状況を確認した。
……だが、解らない。たしかに地面への落下の幾分まえに、そばかすメイドに抱き留められ、助かっている。しかし、どうして助かっているかが理解できない。まるで、見えない氷に、空中へと縫い付けられているかのよう。しかし――。
「フルーア! 私はいいっ! あいつを――」
その氷が、みしみしと、崩壊する音がする。落下の衝撃に耐えられないのだろう。おそらく、こうして減速をし続けるにも限界が近い。たしかに威力は殺せたが、まだ、このままだと十二分に、死に至るほどの落下は免れない。
だから、生き残るべきもうひとりを――。そのように、彼は即座に判断した。もうまもなく追い付いてくる男を、救うチャンスだと。そう思い、手を伸ばす。あの、天上に煌々と輝く、月を掴むように――。
「いまさらだけど――」
その手を、違う誰かが掴んだ。その視界を、いまだ幼い表情が、塞ぐ。
「やっぱりこんなの、逃げでしかないよ。ヨウ――」
「ゾーイ――!!」
瞬間移動、だ! 彼女の『異本』、『啓筆』、序列九位、『フォルス・エンタングルメント』。量子を操るその力で、身体を量子単位に変換。その姿であれば、情報を瞬時に、長距離を移動させられる。
その力が、自分を救った。だが、そんなことはどうでもいい!
「頼む! ゾーイ! あいつを――あの子を――!!」
「だいじょうぶ、ヨウ」
見ると、すでに地面の上だ。それでいて、壮年は微塵も、傷付いてなどいない。
しごく、健全だった。
「違う! ゾーイ! あいつが――お、落ち――」
「落ち着いて。理解してる」
でも、だいじょうぶ。そう、司書長は空を見上げ、目を細めた。
「信じてみてよ、ヨウ。あなたの子を。あなたとシンねえさんの、子を」
細めた目のままほころんで、司書長は微笑む。まぶしいものを、見るように。
「…………?」
だから壮年も、改めて天を見た。
立派に育った、その子を。その子が育んだ、『家族』を――。
*
まだ、男の目から見て、壮年は落下している最中だ。いや、事実壮年は、その時点ではまだ、普通に落下している。
だが、もうそろそろ間に合わない、と、男も理解し始めていた。結局、自分はなにもできなかった。いや、だから追い付けたところで、なにができたとも思えないのだけれど。
「く、そ……!」
それでもまだ、男は後悔していなかった。死の恐怖すら、まだ追い付かない。
男の頭にあるのは、ただただ、壮年に追い付き、その手を掴み、それから――それから――。
いや、そこまでか。本当に、彼は愚かだ。時間がなかったというのもある。だが、考えがまとまるまえに行動に移し、結果、こうして死にかけている。
やはり、男は馬鹿だった。だから――。
「ふむ、相変わらず、無茶な馬鹿である」
いつの間にか、隣に、落下する人物が、もうひとり。
「く、クレオパトラ……!?」
「口を閉じよ。舌を噛むぞ」
「…………!?」
言われたから、言葉を飲み込んだのではない。瞬間、彼は、なにをどう伝えるべきかを迷ったのだ。
彼女が、男の懐にあった『箱庭図書館』から出てきたのは理解できた。だが、なぜこのタイミングで? 男が落下中であることは、中にいた女流にも解っていたはずなのに。こんな空中で外に出ては、彼女までも、死の危険にさらされるというのに――。
「『白鬼夜行 白溶裔之書』」
言葉と同時に、ぼろぼろの布切れのようなものが、龍のごとく空を駆けた。それは弧を描き、その牙を、男に向ける。
「うおぉ……!!」
とっさのことに、男は目を瞑った。だが、その後もダメージはない。それどころか、急
激な浮遊感に襲われた。
落下する速度が、減速する。神にでもつまみ上げられるように、男の体は、天に昇るような錯覚さえ覚えた。
「……これは――」
目を開けて見るに、パラシュートに吊られたような状態だった。あの、瞬間見えたぼろぼろの龍が、男を――男と女流を、引き上げている――?
「……いや、ちょっと待て――」
その状況に、男は異を唱える。……唱えようとした。
そもそも男は、落下速度を上げたかったのだ。空気抵抗を減らして、速度を上げて、壮年に追い付きたいと――。
追い付いてどうするのか。なにができるのか。それは、また、別の話。だが、彼の頭にはまだ、自身の身命を慮るより、壮年に追い付くことこそが重要に感じられていた。
だが、そういう問題でも、なかった。男は、言おうとした言葉を軌道修正し、いましがた自分たちを引き上げ始めたパラシュートを、指さす。
「破れてる破れてる――! これじゃ普通に落ちるのと変わらねえ! おまえはもう、『箱庭図書館』へ戻ってろ――!」
パラシュートのごとくふたりを支えていた龍が、破れかけていた。もとよりぼろぼろな形状をしていた。それゆえに、男と女流、ふたりの体重や落下速度を受け止めきれなかったのだろう。
「ふむ……」
その危機的状況にも、女流は余裕そうに、天を見上げていた。破れかけた布切れの隙間から、なにかを見付けるように。
「余がいては、どうやら邪魔のようである」
んじゃ。そう言い置いて、女流は消えた。破れかけの龍とともに。
なにしに来たんだ、あいつは。男はそう思う。だが、そんな呆れも、再度速度を増し始めた落下に、一気に飲み込まれた。
「うおおおおぉぉ――――!!」
余計なクールタイムが挟まったからだろう。男はこの瞬間に、ようやく恐怖を感じ始めていた。
後悔は、していない。不思議なことに、本当に後悔は、なかった。いや、それもただ、それを感じるだけの時間的余裕がなかっただけかもしれないが。
だが、本気で、怖いと。おそろしいと。それだけはとうとう、感じてしまったのだ。
「うわああぁぁ――!!」
「なにやっとんねん。ほんま」
その叫びを、呆れた関西弁が、引き止めた。
「ぱ、パララ――!? ――――!! うがああぁぁ――――!!」
「もう叫ばんでええって……。ん……? ……あ――」
騒がしい男を見て、遅れて女傑は、己が過ちに気付いた。
女傑は、男を助けるため、その片腕を引き上げるように掴んでいた。落下とは逆方向へだ。それはすなわち、落下の力と、引き上げる力が、男の片腕に集中したことを意味するわけで――。
「痛ってええええぇぇぇぇ――――!!」
その関節は、肩で外れ、そのうえ肉ごと千切るように引き伸ばし、その勢いで骨が一部、砕けた。
はっきり言って、大惨事だ。そのまま落下して地面に叩きつけられれば、それどころじゃない悲惨が訪れるわけではあるが、それでも、いまの男にとっては腕の痛みの方が大問題である。
「…………すまん」
女傑も、焦っていた。それゆえに、失態を犯した。
そして、つい、掴んだ手を離してしまう。そのまま掴み続けていては、本当に男の腕が、どうしようもなく引き千切れてしまうと思ったから。のちのち再計算してみるに、そこまでの事態にはならなかったと理解はするのだが、やはり、このときの女傑は焦っていたのだ。
しかし、改めて落下する男を追うことは、あえてしないでおいた。もうそんなことをしなくても大丈夫だと、思ったから。それに、一度失態を演じたのだから、男に合わせる顔がなかった。
ともあれ、時間は稼いだ。女流と、女傑と。彼女たちふたりは、どちらも自分自身で男を助けきるつもりでいた。しかし、それは叶わなかった。
それでも、最後のひとりが追い付くだけの時間は、期せずして稼いでいた。
男が、確実に助かるだけの、時間を。
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