黄昏時の空を見上げ、思う。
煌びやかにライトアップされた『台北101』。天をも刺し貫くような尖塔。夜を消した輝き。天界にまで手を伸ばし、与えられた時を克服する。
人は、神に反逆している。
――などと、達観したようなことを思おうと、結局、最後に思い出すのは、くだらない記憶だ。ひどくありふれた、ノイズまみれの記憶。
二度目の墓場まで持っていく、老人の――『先生』の、贖罪。
――――――――
1989年。世界を変える出会いが訪れた。
1992年。あの事件が、みなを変えた。だから老人は、ひとりの女の子を拾うこととなる。ひとつめの、罪。
1994年。唐突に現れたもうひとりの子どもが、ともに生活するようになった。ふたつめの、罪。
1997年。彼は目的を終えたのだろう。別れの言葉もなしに去って行った。
1998年。新たに男の子を迎え入れる。みっつめの、罪。
そして、その半年後だ――。
老人は予定通り、物語を、始めた。
――――――――
高層ビルの立ち並ぶ街中で、老人は腰掛ける。
体に不具合はない。すこぶる健常だ。それゆえに、こんなものは偽りだと理解できる。
「リュウよ……」
視線をわずかにずらし、『台北101』、そのそばに建つ、これまた天を突くような高層ビルを見据える。そうして、その最上階にいるはずの、かつての教え子の名を、呼んだ。うわごとのように。
何度、その言葉を紡いできただろう? 直に、空に。
そのたびに先の言葉を噤んできた。もう遅い。だが、だからといってこのままでいいのか? 何度も自問し、その結実として、彼の名を呼んだ。また、先を噤む。
「リュウよ……!」
なぜ、こうなった……!? その言葉は、やはり、口を突いて出ない。なぜなら、こうなることを解ってやってきたからだ。こうなることを解って始めて、こうなるようにやってきたからだ。
それでも、こうなることを望んで、やってきたわけではない。
「……シンファ――」
彼の前では、けっして言えない弱音を、吐く。やはり、うわごとのように。
なぜ死んだ? おまえがいれば、なにも壊れなかった。
それもこれもすべて、あれのせいだ。
「リュウ……!!」
やはりおまえは、間違っている。そう、思う。
だが老人に、そんなことを言える資格はない。
そしてやはり、もはやすでに、遅すぎた。
――――――――
1994年、四月。
「どっから湧いて出やがった、この悪ガキが」
ニタニタと、気色悪い笑みを浮かべた男の子が、気配も薄く、いつの間にかそこに、いたのだ。
特段に驚いた様子もなく、老人は言った。それでも、敵対的に腰を上げ、拳を握り込む。
「ここに『宝』があると聞いてきた。それは僕んのだ」
確信に満ちた目でそう、気負いもなく言い放つ。その目は、すでに人間とは、違う色をしていた。
「ほう……。それはなんという、どのような『宝』じゃ? 言ってみろ」
「そんなもの、知るものか」
「知らねえものを探しに来たのか。ご苦労なこって」
くだらない。そう言い捨てるように力を抜いて、老人は上げた腰を落ち着ける。
「どうやら、あんたはその価値に気付いていないらしい。場所を聞こうと思ったが、知らないなら勝手に探す」
「おまえそれ泥棒じゃって解ってやっとるのか?」
「知るわけがない。世界はもとより僕んだ。この世界に存在している時点で、それはもう、僕のもの。世界は、僕のために生み出された小さな、箱庭だ」
背を向けかけていた老人は、その言葉に改めて、振り向いた。それは、あれが言っていた言葉と、よく似ていたから。
逆に、その男の子は、老人になどもう興味もないように、その部屋を出て行こうとしている。その背へ、声を――。
「『パパ』―! ご本読んでほしいのじゃ! 自分で読むのめんどいのじゃ!」
うおお! と、勢いよく走ってきた女の子が、いまだ小さい、その体を覆い隠せるほどの大きな書籍を取りこぼした。それは、間一髪ぶつかりかけた男の子の、足の小指に直撃する。ニワトリを絞め殺したような叫びが、上がった。
「…………」
その様子をきょとんと見つめ、女の子は一拍、沈黙。それから「『パパ』―」と、再度、老人を呼ぶ。
「なんなのじゃ、この、妙な動きをする物体は」
「誰が……妙……っ!」
うずくまり、叫びを押し殺して、抗議しようとする。そうして見上げる彼の姿は、どこか――
その姿に目を見開き、彼は確信する。
――神聖なものにひざまずく者の、ようだった――
これこそが、最上の『宝』だ。
――――――――
くだらないことを思い出す。そう、青年は思った。
「どうしたどうした!? 動きが鈍ってきている――ぞっ!」
最初こそ、力は拮抗しているように見えた。だが、徐々に力量差が浮き彫りになっていった。文明の中でのうのうと生きてきた者と、過酷な自然と共存してきた者。互いに相当な努力を積んできたふたりだけに、その生まれの差が顕著になっていき、やがて青年は防戦一方になっていった。
「なんでもない。ただ、走馬灯を見ていただけ――だっ!」
黄金の杖――ブレステルメクの守りを易々と壊し、攻めてくる好青年に、そこから抜き取った刃にて切りかかる。だが、動物の勘というべきか、その太刀だけはどうしても彼に届かない。飄々と躱され続けていた。
「おっとと」
と、好青年は大きく後退し、危なげなく着地した。
「その刃は使わない方がいい。本体がバレるぞ」
その言葉と同時に、青年の視界は瞬間、ブレた。回避の瞬間に顎でも蹴られたのだろう。脳が、揺れている。
「やはりこの程度――」
歴戦の者たちには、すぐに看破される。そう思う。
『宝杖』、『ブレステルメク』。その本来の姿。杖に仕込まれた、『概念断絶の剣』。どのようなものも抵抗なく切れる、絶対の刃。これだけはどうしても、太虚転記による式神では扱うことができなかった。剣自体は振るえても、うまく切れないのだ。
だからこそ、以前はそれを使うことをためらった。好青年の指摘通りだ。本体がバレる。太虚転記で分身体を生み出し、安全に戦うことを覚えてからは、その戦法が青年の基本となっていたから。
だが、そうじゃない、と、気付いた。
身共の求めた努力とは、そんな生易しいものでは、ないだろう、と。
ぼやけた視界に、自らと同じ姿が、見える。まだ動けない本体を守るように、太虚転記で生み出した、天照、月読が、好青年を抑える。こうして俯瞰で自分を見ると、気が滅入る。
中性的な顔付き。ワカメのような濃い緑の髪。ニタニタとだらしない笑み。どれもこれも、気持ち悪い。
――そうだ、身共は、自分が嫌いなんだ。そう、思い出す。だから己を高めようとした。最底辺の存在だからこそ、もう落ちるところはない。あとは這い上がるだけ。暗い深淵から垣間見た世界のすべては、どれもこれも、輝いて見えた。世界のすべてが、自分を祝福しているように――『宝』のように、煌めいていた。
だから、すべてを手に入れに出たのだ。世界は自分を迎えてくれる。世界のすべては自分に優しい。その中でも、最上の『宝』を――
そう、求めた。いまでも、求めている。
そして、それを思うとき、脳裏にいつも浮かぶのは、あの日の光景だった。
彼女との邂逅。素っ頓狂に目を見開き、自分を見下ろす、赤い髪の少女。
「ああ……まったくもって、努力が、足りない」
ブレステルメクに体重を預け、立ち上がる。その背に、彼女を感じる。
灼葉焔。
彼女を好きだと認めるのに、いったい、どれだけの遠回りをしてきたのか。
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