2027年、二月。ニュージーランド、パーマストンノース。
ビクトリア・エスプラネード・ガーデンズ。
植物園。バードパーク。綺麗に整った芝生。プール。自転車道。カフェもあれば、子ども用のミニ鉄道やらも走る。クロケットを楽しむ若者たち。走り回る子ども。バーベキューで騒ぐ家族連れ、ベンチに腰掛ける老夫婦。あらゆる年齢層が、各々の楽しみ方で集う、広大な公園。それが、この、ビクトリア・エスプラネード・ガーデンズだ。
特段に取り上げる必要もないのだが、その園内を、ふと、一枚の紙きれが飛んだ。それはまるで、よっつある角のうちふたつを忙しなく駆動し、人間のように小走りに駆けているようにも、見えるのだった。
『ふははははは! 絶好調だぜ! ニュー・俺! いやさ俺様! 前の落書きとは、まさに別物! もうこうなった俺様を、止めるものなどなにもない!』
ふはははははーー!! その騒がしさは、園内の至るところで上がる同質のものに紛れ、意外なことに誰の注目も集めなかった。
まあ、騒がしさは前述の通り、周囲の喧騒に紛れているし、動きに関しては、風にあおられる紙切れにしか見えないからだろう。
だからこそ、それは――
『ぎゃああぁぁ! 猫! 俺様の天敵がなぜここに!』
猫に絡まれる。『奥義! 死んだふり!』。落書きは叫び、その場に倒れ込んだ。そのまま、微動だに動かず、やり過ごそうとする。
いくらニュー俺様といえど、こいつの俊敏性にはまだ及ばない。こいつらは動くものに反応しじゃれあっているだけだ。ならば、相手を刺激しないように、静止した状態でやり過ごす。そう、落書きは決心したのだ。
『にゃああぁぁ』
『ヴォゲエエェェ!』
猫パンチを喰らう。それにより、ひらりと空に舞う落書きからは、思わず絶叫が響いた。
『にゃおん』
『ヴォガアアァァ!』
逃がすまいと、猫は飛び上がり、落書きの上からのしかかる。爪が立てられていないのだけが落書きにとっての救いだった。
『にゃー。にゃー』
『ヴォガッ! ヴェガッ! ……ま、待て! お、俺様は、こんなところで――』
猫は落書きの上に寝転がり、ゴロゴロとくつろいだ。落書きには大ダメージだ。走馬灯まで見え始める。
それは、自身が生み出されたときの記憶だった――。
*
猫を追い払い――猫は飽きて去っていった――落書きはとぼとぼと、先を急ぐ。気持ちは急いても、満身創痍の体は、うまく動かない。
しかし、それこそが、『生』の証明でもある。物質的な肉体に感情が追い付かない。そのもどかしさこそが、この世に『生きている』ということなのだ。
『はあ……はあ……。まったくひでえ目にあったぜ……』
よろよろと、進む。その緩慢な動作は、やはり周囲からの注目を集めなかった。誰しもが、自分たちの世界に没頭している。そしてそれは、きっと、落書きも。
『ベル』
そう、彼女の愛称を呟く。だが、その名に、違和感を覚えた。
ああ、終わりが近い。急がなければ、そう、気を取り直す。
ビクトリア・エスプラネード・ガーデンズからようやく出て、街中を進む。園内よりかは、人の目が顕著だ。それは、仕事に、学業に――つまりは、『いま一番にやりたいことではないこと』に追われているゆえの、現実逃避に近い視線が、奇特なものを無意識に探しているから、なのかもしれない。
落書きの足では――短い歩幅や、隠れながら進む慎重さ、あるいは、満身創痍に衰えている足取りでは、数時間を要した。そして、ようやっと視界に、見据える。
帰巣本能、に、近い。しかして、帰ってみると、それは、不思議な郷愁を落書きにも、感じさせた。
もはやもう、ただの落書きでしかない、その精神にも。
『ああ……、変わってねえなあ……』
だから、安心したのだろう。
落書きは、ほんの少し休むつもりで道路脇に腰掛け、思わず、気を失っていた。
*
「お母さま、お母さま。帰ったのだわ!」
「あらあら、ずいぶんお淑やかになって。学校は、楽しかった?」
遠くに、声が聞こえる。懐かしい、声。
「楽しかったの! ……お淑やか?」
「大きくなったわね、ってこと。『お母さま』だなんて、本当に、メイドさんみたいね」
母親が、娘に優しく、言葉を紡ぐ。頭を撫でられ、娘の方は嬉しそうに、胸を張った。
その声を聞いて、落書きは、身を起こそうとする。しかし、体は動かない。
「そうだ! お友達を紹介しなきゃ! ラーフ! ……ラーフ?」
「ええい! うっとうしいのでしょ! 紹介とかいいの! 帰り道、ちょっとご一緒しただけなのでしょ!」
「ママ! このでしょでしょしてるのがラーフ! 口うるさいの!」
「ちょっと、誰がでしょでしょしてるのでしょ!? 紹介するならちゃんとするのでしょ! つーか、お母さまの呼び方、ママになっちゃってるし! ちゃんと本名で紹介してほしいのでしょ! なにより、誰が口うるさいのでしょ!?」
「ねー、ママ。でしょでしょうるさいのでしょ?」
「がー! 口癖をマネするな! でしょ!」
子どもたちの寸劇に、母親は楽しそうに、あるいは嬉しそうに、微笑むのみだ。
落書きは、ぼやける視界で、それを捉えようとする。しかし、もう、世界には靄がかかり始めていた。
「とにかく、おうちに入りなさい、ベリー。ラーフちゃんも、寄っていきなさい」
「はーい」
「いや、おばさま、わたくしは――」
その言葉を遮るように、一陣、強く風が吹いた。それが、動けなくなっていた落書きの体を、ふわり、と、空に持ち上げる。
それはまるで、天へと召し上げる、神の腕のように。
「ぶべえっ!」
それは、奇跡のように揺蕩い、小さな娘の顔にへばりついた。率先して実家に入ろうとしていた彼女は、ぶるんぶるんと顔を振って、それを引き剝がす。
「なんなの……? ……って、あれ、これ?」
ひらひらと足元に落ちた落書きを見て、その子は瞬間、いつかの記憶を呼び起こした。
それは、夢のような出来事だった。いや、それはそのもの、夢だったのだろう。そう、少しではあれど『大人』になった彼女は、思う。
小さなころの、幻想的な思い出だ。
父親を亡くし、母親は、女手ひとつで自分を育てるのに、いくつも仕事を掛け持ちした。生活はなんとかなっていたが、しかし、母親ひとり、娘ひとりの生活では、娘は母親に甘える時間を失ってしまっていた。
そんななか、うろ覚えに描いた、一枚の落書き。気まぐれに名をつけ、友達のように接した、そんな、幼少の遊び相手。
それは、いつからか言葉を話すようになった。……いや、あれは幻想だ。きっと、寂しかった心を癒やすために、自らが自らを騙した結果なのだろう。さらに時間が経てば、動くようにもなった。いつもおどけて、自分を楽しませてくれた。そんな記憶すら、小さなころの、夢のような、幻影だ。
それでも、思い入れは残る。夢を夢だと認識できるに成長しても、かつての友達を、懐かしむ気持ちは、変わらない。
「……なんなのでしょ? それ」
いまの友人が、肩口から覗き込み、不審な声を上げる。
「なんでも、ないよ」
そう、答える。
「うわあ、キモっ。なんでムキムキなの? 虎柄だから、虎さんなのでしょ? 『R』って書かれた服も、意味解んないし」
友人からのまっすぐで、加減のない罵倒にも、苦笑で返すしかない。だって描いた本人ですら、そう思っているのだから。……いや、しかし、筋肉をムキムキに描いた覚えは、なかったのだけれど。
「でも、表情は悪くないのでしょ。なんだか……安らかで、目を瞑って、心地よさそう。翼が生えているから、あの、……お空に還るところなのかしら?」
子どもらしい表現で、友人は言った。それに対して、彼女はなんとも、答えない。
小さなころの記憶なんて曖昧だ。もしかしたら自分は、最初からそう描いたのかもしれない。だけど、もし、あのころの、奇跡のような友達が本物なら、こうやって、変わってしまったように思える表情にも、それなりの意味があるのだろう。
「ママ。パパにも、ただいま言ってくる」
そう言って、彼女は、走って家に入っていった。長く、離れていた家だ。うろ覚えの間取りを突き進んで――しかし、すぐにその全容を想起した。
父の写真が飾られた部屋に入って、その横に、落書きを飾る。
「ただいま、パパ」
彼女は言って、ううん、と、難しい顔で、腕組みをした。
「やっぱり、似てないや」
呟く。
玄関先から、母親と、友達の呼ぶ声が響く。「はーい」と、返事をして、その子は、ふたりの父親に、手を振った。
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