紳士は、えずきながら部屋の隅に行ってしまった。まだ、連れ帰るには体調が回復しきっていないようである。
それに、逃げてはいけない、気がした。この存在から――女神さまから、逃げてはいけない。その理由も、いまの少女には解らないのだが、しかし、きっと自らの慧眼が通用するなら、ちゃんとした理由があるはずだと、なぜだか確信できた。
そもそも聞き捨てならないワードが飛び出しているのだ。
「どういうこと? 『シェヘラザード』が、あなたの頭の中に……?」
狼狽する。しかし、あり得ない話ではない。少なくとも少女が、自分自身の頭に残っているその物語を語り聞かせることで、この地で出会ったひとりの男の子――いまとなっては白雷クロと名付けられた彼は、部分的にであれその力を行使できている。決して自分だけが特別なのではない。『異本』は、それに適応した者に、分け隔てなく超常の力を授けるものだ。
とはいえ、いったいいつ、どこで『シェヘラザード』を女神さまが『目にした』のかは疑問だった。いつどこで、その内容を頭の中に収めたのか……。
「そうだよ。ノラ・ヴィートエントゥーセン。君と同じだ。僕の頭の中に、『シェヘラザードの遺言』、『シェヘラザードの歌』。この二冊が明瞭と記録されている。身体強化系としては高水準の性能を持った『遺言』。そして外部干渉系の一冊、『歌』。僕は過去に、この二冊に適応し、双方共を手放してもなお、記憶されたそれらを『異本』として用いられる。……これは、『遺言』の力だね。身体強化による完全な記憶能力。それが物質として存在する『異本』を完全な形で『記憶』として転写し、ある種のコピーを脳内に作り上げた。……その程度のことは君にも解っているだろうが、『遺言』がそれそのものを失っても効力を発揮し続けているのは、そういう理由だね」
メカニズムについては、本当に言われるまでもない。当然と少女も理解している。だが問題は、彼女がどこでそれを『見たか』。その一点だ。
確かに、『シェヘラザードの遺言』は元来、少女の手元にあったわけではない。いや、少なくとも少女の『記憶』という観点で言えば、『元来』――少女が生まれる以前から少女が幼少期を生活することとなった家にあったことは確かだ。それでも、それが書かれたのは決して少女と関わりのあるどこかではないし、つまるところがある一定の人間の手を渡って、最終的に少女の手に収まった、という経緯はある。だから、その経緯のどこかで、他の誰かが少女と同じように力に目覚めた、ということは、決してあり得ない話ではない。
特に、少女が『遺言』の力に目覚めたのは、どうやらあの、死の間際だった。男と出会ったロングイェールビーン。しかも、その『異本』が焼失した、それよりも後に、だ。
女神さまの言う通り、本来なら、『遺言』を脳内に転写するという行為は、先に『遺言』の能力に目覚め、身体強化により記憶力を向上させることでようやく可能になる。
しかし、少女に関しては特異だった。少女は『遺言』の能力に目覚める前に、何千回も、もしかしたら何万回も読み耽り、その過程で完全な記憶をしてしまっていた。それが、先なのである。そして能力に目覚めたのが、先述の通り『異本』焼失後、なのだ。
だからこそ、少女は身体強化による、飛び抜けた洞察眼を『シェヘラザードの遺言』という一冊の『異本』に対して行えていない。いや、それが失われたいまでも、ある程度の洞察を行うことは可能だ。しかし、それでも実際に実物を見るか否かでは、洞察の深さが段違いである。だからこそ、『遺言』に関して言えば、少女はその出自を、完全に遡ることができないのだ。
それは、杞憂ではあるけれど、十分に警戒していた事態だった。少女は、自分の、人間離れした強さ、賢さ、洞察眼に、自ら怖れを抱いているほどだったから。もしもこのさき、自分と同じ『シェヘラザード』に適応した者が現れたら、そしてその者が敵だったら、どれだけの苦戦を強いられるか、と。
そしてその事態が、とうとう現実になってしまった。現状は、そういうことである。
「ああ、そんなに警戒しなくていいよ。少なくとも現状、この世界に『シェヘラザード』を、わずかでも頭に残しているのは、君と、せいぜい白雷クロくんくらいだ。他には誰もいない。僕が保障しよう」
あっけらかんと、女神さまは言う。少女と違って、その力を――『遺言』を用いた完全な洞察眼にて、その『異本』の実物を見たはずの彼女の言だ、それは間違いなく、正しいのだろう。もちろん、それが嘘でないとは言い切れないのだが。
「まあ、立ち話もなんだ。……どうせヤフユが回復するまで待つ気だろう? 座らないかい?」
「座るって……どこに?」
見渡す。この部屋は、簡素だ。あるのはキングサイズの豪奢なベッドくらいしかない。しかし、ずっと女神さまと紳士がいちゃついていただろうそんなところに腰を落ち着ける気は、少女にはなかった。
「用意しよう。……下僕くん」
女神さまは可哀そうな呼び方で、男性に声をかけた。下僕くんは、黙って頷く。
*
なんだろう。『シェヘラザードの遺言』をその頭に収めて、『本の虫』の信仰対象ともされる重要な女神さまなのだから、なんらかの超常の力でその用意をするのかと身構えていたが、普通に下僕と呼ばれた可哀そうな男が、どこか別の部屋から、テーブルと椅子を抱えて戻ってきた。
「ありがとう。下僕くん」
女神さまはたいして心もこもっていなさそうな礼を述べ、先んじて腰かけてしまった。
「…………」
なんらかの罠ではあるまいか。そんなことを考えつつ、少女はなんの気なしに下僕と呼ばれた彼を見る。……目が合った。
「あなた、彼女の下僕なの?」
「……まあ、そうだな」
少女の耳には初めて、彼の声が響いた。それは、なんだか知っているような声色だった。
「……そう」
「下僕くん。お茶もお願い」
少女が、自分や女神さまより、一回りは年上らしい下僕に憐れむような目を向けていると、さらに女神さまが追い打ちをかけた。下僕は軽く嘆息して、そのまま黙って行ってしまった。
「さあ、座りなよ。ノラ」
どこか楽しそうに、女神さまは言った。
「言っておくけれど、わたしはあなたと仲良くなった気はないわよ」
確かに、言葉を交わす気はあった。まだ、聞きたいことは残っている。……その真偽を判別はできなくとも、聞いておいて損はないだろう。そう、少女は考えた。
それでも、少しだけまだ間を溜めて、警戒を態度で示しておいた。腕を組み、女神さまを見下ろす。
「僕もそのつもりだよ、ノラ。僕は世界中にいるみんなを愛しているけれど、君だけは別だ」
「あら、それはヤフユの妻だから?」
少女は鼻で笑うように、少しだけ態度を軟化させた。もしそうだとしたら、女神さまもたいしたことはない。ただの少女だ。そう、認識を改めるところだった。
「もちろんそれもある」
女神さまは、そんなことはたいしたことでもない、とでも言うように、適当な語調で肯定した。
それから、上目で少女を見上げ、少しだけ言い淀む。言うべきか、迷っているような表情だった。それから一度、長いまばたきのように目を閉じて、細く、開き直す。
「君には、遠慮する必要がない。それだけだね」
どうやら、具体的な言についてははぐらかしたようだ。少女はそう、判断する。ようやっと一般的な対人関係に慣れてきた。あるいは、女神さまが感情を表に出してきたのかもしれない。
「それは好都合ね。わたしだって、まだ怒ってるんだから。あなたに遠慮する気はないわ」
言って、ようやっと、少女は席についた。
そのタイミングを見計らってか、そっと、ティーセットが置かれる。また、この部屋以外のどこかから持って来たようだが、それに関しては女神さまと呼ばれる者の所持品らしい、高級そうな一品だった。
だが、そのティーポットを片手で、なおざりで適当に扱い、女神さまと少女に、それぞれ下僕が注ぐ。
「さて、ようやく舞台は整ったか……」
女神さまは、両目を閉じ、一拍、間を空けた。
*
「ようやく殺し合えるね。ノラ」
言葉とは裏腹に、悠長にティーカップを持ち上げて、まるで天気の話でもするような気軽さで、女神さまは、言った。
読み終わったら、ポイントを付けましょう!