ふわり。と、ロングスカートをなびかせて、そのメイドは舞い降りた。
「ノラ様のご懸念通りです。お姉さま」
やや棘のある語調で、ふがいないお姉さまに視線を落とし、彼女は言う。
「汝は……」
末弟の――いや、あるいは、弟たちの使用人か。と、女は想起した。殺されていた。その程度の見切りは当然と、できている。つまりは死にかけたわけだが、しかし女は、その点に関しては、自らで意外に思うほど、なんとも感じていなかった。
「おや、これは、懐かしい顔だ」
青年も、想起する。こちらに関しては、女よりもよほど古い記憶。メイドが以前に仕えていた主とは、WBOの会合で顔を合わせたことがあり、その付き人として見知っていた。いや、見知っていた、などというだけでは生ぬるい。一度、本気で殺し合ったこともある仲だ。
それよりも、青年は、己が内に燃え滾っていた怒りが、幾分、薄れていることに疑問を抱いていた。対象としていた目標を、実質的には仕留め切っていたことに達成感を抱いたのか。あるいは、横槍が入って、怒りが分散したのかもしれない。……自己分析はすれど、彼自身は、どうにも腑に落ちなかった。だがまあそれは、いい。と、捨て置く。
「あなたも目標として、まだ、仕留め切れてない。いい機会だ。ここで努力を完遂するのも、いいかもしれない」
彼は彼らしく、ニタニタと、見ていて不快になるような笑みを、大きく浮かべた。
「此度、あなたに用はありません、織紙四季。私は、主人の命により、今日この日の、灼葉焔様の生存を、ただ守るために参りました」
ボラゾン製の警棒を抜き、それを青年に突き付ける。そうして距離を保ちながら、全身を上気させる。肌はみるみる赤く熱をもち、全身の毛が逆立つ。額の一部はぐんぐん突きあがり、角のように凶器へと成っていく。――彼女の極玉の、発露だった。
それを見て、青年は、さらに凄絶に、口角を上げて、笑う。
「いい……! それでこそ、殺すかいがある!」
「死ぬのはてめえだ。クソキチガイがっ――!」
一触即発。いまにもどちらからともなく、殺しかかりそうな雰囲気の中、女は、ふと、わけの解らないことを、悟った。
「そうじゃ。妾、死んだ」
マジで、わけが解らなかった。
「「はあぁ!?」」
当然の疑問が、語尾とともに、上がる。
*
「なんかおかしいと思ったんじゃ。妾、いますげえだるい。こうね、心の中が、いろんな感情ぐるぐるして、よく解らんのじゃ。シキはクソじゃし、殺したいけど、でも、死んじゃったらいろいろ終わるじゃん? なんかこれで終わっていいんじゃろうか。とか、思ったり。かといって、おまえみたいなの相手に逃げるとか、プライドが許さんじゃん? もうね、どうすればいいか解らんで、それでさっきも不覚を取ったのじゃ。じゃから、妾、死んだ。シキ。おまえの知る、おまえの殺したかった妾は、もうおらん。もう死んだ。こんなわけ解らん状態の妾なんぞ殺しても、おまえも虚しいじゃろう? つうことで、そこのメイド。ハクとノラには、妾、死んだって伝えといて。これ、やるから」
女は。どうだこれは完璧な論理なのじゃ。予断を挟む余地もないのじゃ。妾すごいのじゃ。みたいな顔をした。他のふたりの表情とは対照的に、実に晴れやかである。
そのようにして、とてつもない気軽さで、メイドに『嵐雲』を差し出している。
「ちょっと、待て……」
当然のごとく、青年が異を唱えた。頭痛を感じているのか、額に手を添えながら。
「そんなわけの解らない論理で、この場を切り抜けようと? ホムラ。君こそ誰かに乗り移られたんじゃないですか?」
「それなのじゃ!」
ずびし! 女は、取りこぼしたグラスに手を伸ばすように反射的に、青年の言葉に指を差した。その嬉々とした表情に、青年は怯む。
「妾、乗り移られたのじゃ! それで、元の灼葉焔は死んだのじゃ! うむ、それがよい!」
女は。さすが妾なのじゃ。天才なのじゃ。超かわいいのじゃ。とでも納得するように、自身の掌に、逆の拳を叩きつけた。そこまでされると、もう、青年ですら納得するしかない――
「わけあるかボケエエェェ!!」
こちらはもはや、キャラを忘れて切りかかる始末だ。宝杖、ブレステルメクの、本当の姿。剣と鞘に、分離させた刃で。
「お姉さまっ!」
メイドはとっさに、彼女を抱え跳び上がる。アルミラージの力を解放した彼女の跳躍は、もはや飛翔だ。そのひと跳びは、軽々と空を歩き、『ラス・ベンタス闘牛場』から離脱した。
*
そのひと跳びがいくら強大とはいえ、それだけであの青年を撒けるはずもない。ゆえにメイドは、その後も何度となく跳躍し、十分に距離を取った。取って、落ち着く。まだぜんぜん落ち着かないが、深呼吸をして、落ち着く。落ち着いたことにする。
「お・姉・さ・ま?」
拳を掲げて、こめかみを歪ませ、メイドは笑顔を向ける。とりあえず、逃げおおせられたのはよかった。しかして、さきほどの言動は、逃亡のための策謀であったとは思えない。ともすれば、敵に隙を晒しすぎでもあった。警戒を解くなど、危険極まりない。
「なんじゃ。汝なんぞにお姉さまと呼ばれても、妾、ぜんぜん嬉しくないんじゃからね!」
プイッ、と、女はこれ見よがしに顔を逸らした。
「なんですか、その、わけ解らんツンデレは!」
メイドは、掲げた拳を、さらに高く突き上げて、威嚇した。しかし、女は顔を逸らしていたので、そんな叱咤を見てもいない。だから間もなく、ふっ、と、メイドは脱力する。暖簾に腕押すことの愚かしさを、理解したからである。
そんなメイドに感化されるように、女も、軽く脱力して、目を伏せた。
「だって、さっき話したことが、妾の本当の気持ちなんじゃもん」
幼い顔で、幼い言葉を、幼い声で、言う。
「妾は、変わったんじゃ。良くも悪くも。妾を知っておる者たちが、妾を妾と思う要因が、妾の中から消え失せたのじゃ。姿かたちは灼葉焔でも、もはや妾は、みなが信ずる灼葉焔ではない。……そう言っても、汝には解らんか。汝はそもそもの妾を、知らんからのう」
困り顔で、女はメイドを、見た。眉を落として、困り顔であるのに、その目には、強い確信が、見て取れる。
だからメイドは、はっとした。
「たしかに、私はあなたを知りません。でも――」
自分が、過去の自分とは違うものになる。そういう感覚は、よく知っていた。そしてそれは畢竟、自分を理解してくれていた方々との関係を、良くも悪くも変えてしまう――否、むしろ自ら、変えたいのだと。そう思うことにも、繋がるのだと。
「――いいえ。なんでもありません」
そう理解する。だけれど、そんなことを言葉にするのは、ためらわれた。理解しているのだから、わざわざ自分が言うまでもない。そう、後付けで理由を、見付ける。
「ともあれ、こうなってしまったなら、お姉さまのおっしゃる通りにいたしましょう。こちらも、『異本』が回収できるなら儲けものです。しかし――」
ハク様にも本当のことを言わなくて、よいのですか? そう、控えめに問い質す。ご姉弟のことだ。それを問うのは、出過ぎた真似かと、内省しながら。
その問いに、さすがに女も迷ったのだろう。「ううん」、と、一拍、唸って、時を稼いだ。
「まあ、あやつも騙さねば、ノラを騙しおおせることはできんじゃろう。まあ妾、死んだっていっても、この心の整理がつくまでじゃ。いま混沌としている気持ちに整理がついたら――その結論次第では、また、生き返る」
「便利な感情ですね」
メイドは呆れ口調で、軽口をたたいた。
「まあ、いいでしょう。請け負いました、お姉さま。そのときが来るまで、私が責任をもって、ハク様、ノラ様を騙し通して御覧に入れましょう」
「つうか、汝、そもそもノラを騙せるのか?」
男のことには微塵も言及せずに、女は思い出したように、言った。
メイドは少々思案して、頷く。
「まあ、大丈夫でしょう。ノラ様ほど聡明な方が、まったくの見知らぬ他人であったなら、無理と判断するしかないでしょうが。あいにく私はノラ様を、少なからず理解しておりますので」
「ふん。お姉ちゃんを気取る気なら、妾は容赦せんぞ」
「なんですか、その、妙な脅迫は」
メイドは嘆息するが、見るに、どうやら女は本気らしかった。それでメイドは、ここにきてようやく、女のことを理解する。ああ、この方は、たしかにあの方々のお姉さまだ、と。まったくもって、わけが解らない。
とりあえず、こほん、と、咳払いをして、場を引き締める。
「とにかく、委細承知です。たしかに――」
女が平然としているから、メイドも、危機察知に出遅れた。だから無作法な強硬策で、女を蹴り飛ばす。
それから完全臨戦態勢に変化して、怒号を、上げた。
「お引き受けいたしました! お姉さま! ですから――」
とっとと行け! もはやメイドではない――彼女の中にいる、もうひとつの人格の声で、最後の一声はこだまする。
「……また、ここから――」
ゆらりと、身をよろめかせ、彼は、ニタニタと笑いながら、黄金の杖を、持ち上げた。
「努力を、始めよう」
――――――――
「えっ、えっ……? なにそれ終わり? そっから! そっからメイド、どうなったん!?」
「なにを楽しく、物語を満喫してんだよ、じいさん。……メイドのその後に関しては、本人に聞いてくれ。おれが話すっていったのは、ホムラさんのことだろ」
「いや、おまえ、聞きたいことは聞けって、ここ到着したときに言ってたじゃねえか」
「聞けとは言ったけど、なんでも答えるとは言ってない。……バルトロメイさんのその後は、まあ、たぶん本人が、聞かれたくないだろうから」
「なんだよ。仮にメイがシキを殺していたとしても、俺は驚かねえぞ」
「それは驚いてあげてくれ。あんたあの人をなんだと思ってんだ……」
男の子は演技のように大仰に、うなだれた。
「とにかく、バルトロメイさんが嘘をついた理由は、こんなところだ。ホムラさんが死んだことになってた理由もな」
とはいっても、未来のその場で、ただ話を聞いているだけの男には、彼女らの思考回路は、まるで理解できなかった。そもそも男の子の語りの中には、彼女らの感情の動きは含まれていない。ただの、事実の羅列でしかなかったのだから。
「まあ、いいさ。どうせ愚かな俺には理解できない、あいつらなりの考えあってのことなんだろ。現実の話。結果あいつは生きてたんだ。それならそれで……うん。まあ、よかった、の、かなあ……?」
曖昧に、男は首を傾げた。しかし、その顔は、まんざらでもなさそうである。
ともあれ、メイドの嘘に関しての物語は、これにていったん、幕引きとなる。彼女がその後、青年との抗争の中で、どうなったのか。どう生き残ったのか。それは、いつか語るときが、きっとくるだろう――。
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