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「やはー、『先生』。はうばーちゅー?」
「てめえの言ってることは、いつまで経っても解らねえなあ」
潰れて、その大部分が灰となり、消し飛んだ。それでも、どうやら顔だけは守っていたようで、言葉を紡ぐ機能くらいは残しているらしい。
そんな、かつての教え子を見て、老人は腰をかがめた。瞬間、抱き上げようかと腕を向けかけたけれど、わずかな機微で、パリピがそれを望んでいないだろうことを感じ取り、やめておく。
「なぜ、儂がここに来とると解った?」
「知らんし。でもまあ、来たって中には入んないっしょ? どうせ感傷に浸りながらビルとか、空とか眺めてると思ったし」
これが最後だからか、とうに人間を終えた姿となっても、やけに安らかに、パリピは話した。
「来てないなら、そりゃしゃーなし。どうせうちにはもう、時間がなかった。やれることを、やっただけ」
フアたんみたいにね。そこだけは、わずかに、声を落として。
「『先生』はさ、まだ少し、生きられるっしょ?」
「さあな。そもそも、こんな存在を『生きている』などと定義できるかどうか」
「『逃げんなよ』」
年齢相応というのか、しおらしく言う老人にぴしゃりと、パリピははっきりとした声で、言った。
その声に、老人ははっとする。内心の懺悔を、見咎められたと、そう思って。
「――そう、言っといてよ。ヨウにさ」
はんっ! と、老人は息を吐く。鼻で笑うように。
「そんなもん、自分で――」
瞬間、目を逸らした隙に――
もう、パリピの残骸だったものは、なくなっていた。
はあ。と、老人は、息を吐く。
「今度こそ、……おまえもか。リオ……」
彼女が飛んでいった先か、あるいは、託された言葉の矛先を見上げ。
やはり老人は、息を、吐いた。
――――――――
やがて、麗人も力尽きて、膝をついた。肩で息をして、乱れた髪を揺らす。
「……ごめんね。ヤキトリ」
『約束しただろう』
「うん。ごめん」
割れた窓から、風が吹きすさぶ。その音だけが、沈黙を支配していた。
ややあって麗人は立ち上がり、菓子の包装が散らばるテーブルの上から、黄色と縹色、二冊の『異本』を抱え上げる。そのうちの一冊を見つめ、決意を。
「そろそろ、お別れだね、ヤキトリ」
解っていたことだ。男が、すべての『異本』を蒐集する。そしてそれを封印すると聞いていた。実体であるジャガーを『異本』で飼っていた淑女とは違う。麗人の友人である鳥人は、『異本』から生み出された存在だ。『異本』の力なしに世界に顕現し続けることは、できない。
「ごめんね、あなたに、人格なんて宿らせて」
自覚はあった。事実は、感覚的な部分の話だ、確証はない。しかし、麗人が望んだから、鳥人は人格を――心を得た。きっとそうなのだろうと、彼女自身、思っていたのだ。
それは、『普通』を演じ続ける上での、弊害。ある程度は素質もあり、望んで選んだ道とはいえ、心のどこかでは、『こうするしかない』と進む道を狭めてきた節もある。それがストレスとなり、鬱積した。そして無意識に求めてしまったのだ、悩みを打ち明けられる、誰かを。
「ごめ――ごめん、なさい。私は、私の身勝手で、あなたに、心を与えてしまった。どう謝っても償いきれない。あなたは……このあと、『異本』は――」
体を震わせ、『異本』で顔を覆って、麗人はむせび泣く。いつかは言わなければならない。そう思っていた。だが言葉にすると、その現実に、悲しくなった。
そんな自分がいやになる。被害を受けたのは鳥人の方だ。であるのに、わが身可愛さに悲劇のヒロインぶって泣いているのが、滑稽だ。
ふ――。と、肩の荷を下ろすような笑みが、ふと、漏れた。麗人からではない。鳥人から。
『怒ったり泣いたり、忙しい人だな、あなたは』
赤い炎を、その、小さく縮こまってしまった頭に、乗せる。その温みが、麗人の震える肩を、止めた。
『オレは、あなたと話せて、楽しかった。嬉しかった。……いったい、どれだけ待ったと思っている』
「……え?」
『上も下も、右も左も、空間すらないどこかで、オレの精神は、いまだ胎動を始めてすらいなかった』
ぼんやりと想起できる――ともすれば、あれは無意識に創り上げた、偽りの記憶なのかもしれない。しかし、彼の中には真実として思い起こされるもの。生まれる以前の、記憶。
卵の殻に包まれていた――自我すらない、混沌とした、世界と自意識が混然一体となったような、あの、世界。
『オレは、この肉体を得るまでに、途方もない時間を過ごした。それで満足だったんだ。あなたと出会えて、触れあって。言葉などない時分から、とうに、感情は交わっていた』
「覚えて、いるの?」
一緒に駆けた日々。メキシコの海。フランスの街。たわいのない日常。
言葉を――自我を得る以前からのことを、覚えていた?
『ああ、もちろんだ。――だから、自分を責めることはない。オレは最初から、オレだ。むしろあなたが救って――掬い上げてくれたんだ。この世界に』
美しくも残酷な、この世界。
オレが生まれ落ちて、愛した、ふたつめのもの。
――うわっ! なんか出た!――
まばゆい世界に陰るその声は、無邪気に驚いた声を上げた。
――ハルカ! シュウ! 『お父上』! 出たあ!――
控えめだが、精一杯に、声を張り上げる。傾けた顔が光に照らされ、美しくも戸惑った笑みを、浮き彫りにする。
ああ、この人が――。そう、幼き鳥人は、言葉ではなく理解した。
この人が、オレの、ご主人。
*
身を屈め、鳥人は床からなにかを、拾い上げた。それは、自身の羽だ。ゆらゆらと炎を上げる――いまにも燃え尽きそうな、小さな羽。
それを拾い上げ、鳥人は小さく力を、込めた。すると、その小さな羽は、息を吹き返したように炎を、強めた。赤から、青。黒く、白く。最後には、極彩色に。数々の色を経て、美しい色彩に変わったその羽を、鳥人は麗人へ、うやうやしく差し出す。
『こんなものしかないが』
片膝をつき、愛する者へ、精一杯の贈り物を、遺す。
メラメラと燃えるそれに、ためらうことなく麗人は、手を伸ばす。火傷を負うなど、考えもしない。彼のすべてが、圧倒的に優しいと、知っているから。
「あったかい」
受け取った羽を頬にあてがい、麗人は呟いた。全身の疲れが、じっくりと癒えていくようだった。それどころか、さらに力が湧いてくる。
『お嬢』
眠るように笑む麗人に、鳥人は言った。
『あなたは――あなたたちはそろそろ、『普通』になるべきだ』
「……? 私はともかく、ハルカとシュウは――」
言いかけた言葉を、鳥人は首を振り、遮る。
『思い知ったろう。『普通』は、難しいと。なぜなら、『普通』とは『特別』という意味だからだ』
「『普通』は『特別』……」
『人が求める『普通』は、いつもどこか、高尚なところにあるのだ。ある意味、当然ですらある。なぜなら、それを求めているのだから。いまの自分より、優れたものを欲しているのだから』
「…………」
麗人には、思い当たる節があった。自分が『普通』を求めたのは、自分が――自分たちが、劣っていると思ったからだ。あのとき、『平均』という意味で『普通』を求めたけれど、それすら当時の自分たちには過ぎた願いだった。
だが、いまでは、少なくとも麗人自身は、『平均』以上の生活をしている。衣食住に困ることなく、やろうと思えば、行きたいところ、どこへでも行ける。人間関係も良好で、家族にも、友人にも恵まれた。
であるのに、彼女はまだ、『普通』を欲していた。いま以上を望んでいるわけじゃない。いまこの現状の、維持だ。とはいえ、すでに『平均』を越えた現状の維持は、やはり『普通』より『特別』に近い願望かもしれない。
『だから、『特別』という名の『普通』を目指せばいい。そもそも誰もが、『特別』だ。生まれも育ちも違う。当然と、価値観だって違うだろう。世界の誰もが認める『普通』など、ありはしない』
「解ってる。解ってるんだけどね、本当は」
だが問題は、それを失うと、麗人にはなにも残らない、ということだった。幼少期から一意に望んできたことが間違いだったと気付いたら、はたしてその先、どこへ向かえばいいのか。人生の目的を見失ったら、心がふわふわと、浮つく。地に足がつかないまま、ぼうっと生きていくことになってしまう。
人生には、指針が必要だ。たとえそれが、曖昧で、不確かで、間違っていようとも。
困ったときに道を照らしてくれる、指針が。
『お嬢なら、できるさ』
そうやって、鳥人はまた、頭に手を置く。
『強くて、優しい。恨みも、後悔も知り。怒り、泣ける。お嬢はこの世の、酸いも甘いも味わい尽くした。だから、誰のどんな感情にも寄り添える。それは、心持つ人間の、もっとも素晴らしい『特別』だ。そんなお嬢なら、きっと、なんにでもなれる。なんでも、できるさ』
鳥人は言って、かがむ。麗人と目を合わせて、にっこりと、笑った。
だから麗人も、笑みを返す。まだ、涙は溢れそうだ。恨み、憎む気持ちも、鎮まってはいない。それでも――
「ありがとう、ヤキトリ。私、『普通』になるね」
心に新しい芯を得た彼女は、しっかりと、笑えた。
温かく燃える羽を、心に――。
新しい、一歩を。
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