死者蘇生の『異本』、『Log Enigma』。総合性能Bの『異本』の中でも、相当に高位の一冊だ。扱える者も、ごくわずかだろう。特段に『生死』というものに『因果』のある者にしか、きっと扱えない。
だが、それを扱える者が、WBO内にはいた。人間の生死に強く関わった、なかば人間を逸脱した、若人が――。
――――――――
目を背けたくなるほどの、異形。鳥人やゲル状のワニなどとはまた異なる、完全なる、異端。
フードを持ち上げたパリピの肌は、人間らしさを消した色合い。濁った川の水のような、青緑色だ。さらにところどころが、焦げ付いたように黒く、染みになっている。月面のように表皮は凸凹とくぼみ、幼児が下手くそに作った粘土人形のよう。その、瞳の位置には、またも人間離れした、青く変色しかかっている眼球と、深紅の瞳。ぼさぼさの髪は長く、腰まで伸びた、白髪だ。それも、少女や淑女のもののように、輝くような美しさはなく、あまりに生気を感じない、『死』の色合いをしていた。
どこをどう見ても、『普通』じゃない。麗人は思って、瞬間、委縮した。だが――。
「ヤキ――」
いまだ鳥人は絶体絶命だ。相手のワニに、牙を突き立てられている。だから麗人は、『異本』へ手を伸ばし、鳥人を援護しようとした。
「無視されてつらたん。もっとうちにかまちょしてよ」
きゃらきゃらとした声が、その異形から放たれる。それでようやく、ほんとうにこの存在は、先刻まで言葉を交わしていたパリピだと、麗人に理解された。
パリピは、ものすごい速度で――『普通』じゃない速度で、麗人の首を掴み、その体を持ち上げた。長い袖のうちから、ぐぐぐ、と、力を込める。どう見ても華奢なその細腕。それとは思えないほどの、怪力で、片腕で軽々と、麗人の足を、浮かせる。
「ちょろちょろ、うちらのこと調べ回ってたっしょ? でも、それは、うちらも同じ」
ウェーイ。と、場違いにおどけて、パリピは空いた腕で、横ピースした。
麗人は、意識を薄れさせながらも、もがき、なんとか『異本』へ、手を伸ばす。
「かなちゃん。シューくんとか、ルカちゃんならまだしも、『普通』のあんたが、よいしょしすぎたね」
余裕そうに、軽い声音で、そのうえ締めあげる腕には、さらにさらに、力がこもっていく。
麗人は、まだ、手を伸ばす。自分自身も苦しい状況だ。だが、まずは、鳥人を――。
「ガチあたおか。なん? 死にに来た? 超ウケるんですけどwww」
ぷくく。と、マスクの上から口元に手を当て、半月型に目元を歪める。それだけの異形の姿であろうと、まだそれは、人体のように動いていた。長いパーカーの袖越しに、爪が、麗人の首に食い込む。
もう、限界だ。あがく体も、動きが止まってきている。それでも、せめて、鳥人だけは――。
そう願い、ほとんど飛びかけた意識の中、彼女の指先が、『異本』に触れた。
*
『お、嬢おおおおぉぉぉぉ――――!!』
紅蓮は極彩に煌めき、室温を一気に、上げた。悲鳴を上げ、ゲル状のワニは、鳥人から距離を隔てる。
即座に鳥人は跳び――飛び、パリピのもとへ、距離を詰めた。
『お嬢を離せっ!』
「あいよー」
怒気を孕む鳥人の声に、軽い感じでパリピは応じる。極彩の炎をくゆらせる鳥人へ向けて、首根っこを掴んだまま、麗人を投げ飛ばした。
鳥人は、それを受け止める。己が炎をいま少し燃やして、彼女を抱擁するように、迎え入れた。
「あ、まずった。治癒の炎だっけ、それ」
声は、瞬間に鳥人の眼前に、いる。袖に隠れたままでも、その腕には、拳が握られていると理解できた。
『治癒のみにあらず。我らの敵は、業火にその身を焼かれることになる』
そう言って、鳥人は火力を上げる。うちに包む麗人へは治癒を、しかし、外のパリピには火勢をもたらす。一挙両得の力。
「ガチ?」
疑問形のようでいて、疑問形ではない言い回しだった。そのうえ、攻撃の勢いは衰えない。
それは、燃えることなどいとわないような、あるいは、燃えることなどないと知っているような、勢いだった。
『うむ。理解しておるぞ、リオ』
指示を、合図を、送っていたのだ。ゆらめく水面のように穏やかな声が、鳥人の後ろから、響く。それは鳥人が振り向く間もなく、融けるように体積を増し、炎もろとも、もみ消そうとかぶさってきた。
「よ~いしょ、っとお!」
きゃらきゃらとした声は変わらず、あまりに軽い調子で、パリピの拳は、異形の鳥人の、その実体化した頬を、殴り飛ばした。
*
わずかに燃えて、パリピのパーカーは煤けて一部、灰になった。そのうちから現れる肉体の一部は、やはり、青緑色。月面のクレーターを思わせる凹凸も、そこかしこに点在する。
炎の大部分は、触れる前にワニの力で沈静した。それでも残った火種には触れたが、事後に再度、ワニの水で消し去った。だからパリピの身体は、いまだ健在だ。服こそ少しだけ、燃えたけれども。
逆に、殴り飛ばされた鳥人は、部屋の隅にまで弾き飛ばされている。大切な友人は、その、翼の形をした腕に抱いたまま。しかして、その全身を包む炎は、だいぶん勢いを減らしていた。
「や、ヤキトリ……!」
『案ずるな、お嬢』
気丈に、鳥人は立ち上がる。だが、その動きは、ややぎこちない。それでもその、羽の生えた両腕で、麗人を抱えたまま。
「無理だよ、ヤキトリ。おろして。私が戦う」
『それこそ無理な相談だ、お嬢。これだけの強さ。お嬢の身になにかあっては――』
「だからだよ、ヤキトリ。約束したでしょ」
――私たちは、対等。私たちは、『普通』の、友達――
いつか、言葉を覚えた彼に、麗人は言った。主につくすようにへりくだる、彼の態度がむず痒かったから。
温かい炎をどけて、その腕を解いて、地に足をつける。喉を労わってみる。ううん……。うん。もう、大過ない。そう、麗人は確認した。
「あなたは私を守って。私が、あなたを守る」
友達なのだから、それが、『普通』。
『承知した。お嬢』
彼と彼女は並び立ち、それぞれの相手に、対面した。
*
『そなたはまあ、わしにも及びうる。しかし、そちらのお嬢さんは――』
燃え上がる業火を揺らし、その火勢で、ワニの言葉を遮る。
『気遣いは無用。お嬢はもう、やると決めたらしい』
鳥人は言うと、彼女を一瞥した。それから、自身の相手へ向き直る。もう心配事など、ないと言わんばかりに。自分は自分のやることに、注力しようと。
その覚悟を受け取って、ワニも、しっかと彼に、対面した。
『ガチだ。そう呼ばれておる』
縹色の『異本』、『Gurangatch Fall』。それは本来的には、オーストラリアの先住民、アボリジニに伝わる、神話。彼らのうちに、概念的にしか存在しない、『無形異本』。
それから生み出されたそのワニは、苦笑交じりに、名乗った。名などという概念を超越した身で、ただ、パリピに呼ばれ続けた、妙な名を。
『ヤキトリだ。我が友がくれた、オレの、大切な名前』
その言葉の意味を、知らないわけではない。麗人としても、幼い時分に、気分でつけてしまった名前だった。それでも、鳥人はそれを誇る。長年を連れ添った、それこそ、彼女との絆、なのだから。
『それでは、互いに、その存在の、本分を全うしようか』
ワニが、切り出す。言葉を投げ、それに呼応するように、長く、太い尻尾をひとつ、うねらせた。
『ああ』
小さく応じ、鳥人も、翼のような両腕を広げる。そこに広がる炎が、空間を埋めるように激しく、燃えた。
*
「は? ガチで馬鹿なん? それとも自殺志願? 超ウケるーwww」
きゃらきゃらと笑い、やがて、パリピは真顔になった。「うちは、手加減しねぇよ?」。そう、脅すように、告げた。
だがその表情は、どこかぎこちない。脅しは、虚勢? ……いいや、そういうぎこちなさじゃない。彼女にはちゃんと、やるつもりがある。だがその心が、身体に顕れていない。そういう、ぎこちなさ。
そう麗人は違和感を抱くが、それを考えている余裕は、もうない。敵はじわりじわり、にじり寄ってきているのだから。
「そういえば、申し遅れました。稲荷日夏名多です。いちおう、『世界樹』で司書長ゾーイ・クレマンティーヌの、秘書をしてたこともあります」
背筋を伸ばし、そう、丁寧に名乗った。ちなみに、麗人の役職は正確には『司書長室管理員』というものだったが、彼女自身は『秘書』として認識していた。ゆえに、その語彙で、名乗っておいた。それに対し、「はあ?」と、パリピが語尾を上げる。
「知ってるし。なんそれ、余裕のつもり? それとも、身内だから見逃せとか、そんな命乞い?」
「いえ、ただ名乗っただけです。『普通』の社会人として、当然のマナーですので」
「…………」
変な引っかかりを、パリピは覚えた。『普通』? たしかに彼女の来歴は、比較的『普通』だ。生まれ育ちこそ特異だが、成熟してからは、一般的な人生を歩んできた、らしい。WBOという組織に所属したことに関しては、やや普通でもないが。しかし、WBOという組織も、その末端員に関しては、普通の会社員と変わらないのだから、やはり『普通』か。
だが、そんな情報なんて抜きにして、この場で、この状況で、まだ『普通』をかぶり続けようとすることは、それそのもの、『異常』なのでは? そういうことを、抽象的に、パリピは思ったのだ。
「WBO、『特級執行官』、コードネーム、『モルドレッド』」
違和感を払拭するまで、パリピの頭はあまりうまく働かなかった。だから、適当に時間を稼ぐ。もはや解散が宣言された組織の、その役職。それをいまだに、自身のもののように名乗って。
「本名、リオ・ブリジット。……かなちゃんにゃ、たしか、ちゃんと名乗ったこと、なかったね?」
つって、もう名前なんて、なんの意味もないんだけど。
そう思う。その感情に、どこかの誰かが、苦笑したような気がした。パリピの身体の、内側で。
ふ……。と、自分でもなんでか解らないけど、苦笑して、パリピは、適当なことを、口走る。
「落ちこぼれのひとり。……なんつて」
おどけて、きゃらきゃら、笑う。
どうして笑うのか、それは、彼女自身にも解らなかった。
もはや死んだ、その体には。
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