重力に従って、落ちる。その感覚が、延々と続いた。
叫び声もとうに嗄れ、落ちる恐怖にも慣れ、もはや落ちているというよりも浮いているという感覚に近い。もちろん浮いたことなどないが、飛行機が離陸するときの、あの瞬間の浮遊感。それがずっと続いている。そんな感じだ。
この男、普段はまったく嗜まないのだが、こう暇だと煙草でも吸いたくなる、などと考え始めている。仰向けに寝転ぶ姿勢で空に浮き、吹かした煙の軌跡を眺めるのはさぞ気持ちがいいだろう。そんな空想だけ抱いて、寝転ぶ。両手を枕にし、足を組み、優雅に。
ふと、全身を、天日干ししたばかりのようにふわっふわな布団が包んだ。……かのような心地良さ。それから徐々に重力を打ち消し、むしろ逆向きに、押し上げられる感覚。
「お? ……おお? ……おおおおぉぉぉぉ――!?」
嗄れた声を再度ひり出す。落下に麻痺した体を立て直してみるに、もう、落ちていない。だが、地面に叩きつけられたというわけでもないらしい。それでも、超高高度から落ちていたのだ、という現実を思い出し、背筋を冷やす。
そうして見るに、世界はどうにもおぼろげだ。乳白色のぼやけた光。それが世界を包んでいる。まるで夢のように。
そして、より視界を広げてみると、やや赤みがかった色彩も混じってくる。しかし、それでもその赤は不鮮明で、結局、幻のようである。
「ぐえっ!」
とりあえず喘いでおいた。だが、思ったほどのダメージはない。というより、少なくとも身体的にはまったくの無傷である。まだふわふわした心地と、実際の身体感覚に違和感はあるが、どうやら空には浮いていないということは確認した。
「ここが、……地下世界、か?」
冷や汗を乾かすために体を動かす。立ち上がり、頭部を確認。よかった。ボルサリーノは、ちゃんとそこにある。
全身に仕込んだあらゆるアイテムも、触ったり、体に当たる膨らみなどから確認するに、なにも失われていない。とりあえず、地下世界に降りるにあたって、予定通りの状況で到達できた……のだろう。
「ここが本当に、地下世界だったらの話だけどな」
男は小さく呟いた。
「それは保障しよう」
そんな声に、誰かが答える。
*
まあ、もちろん答えたのは若者だった。
「……てめえが言うなら、まあ、信用しておくか。どうあれここに落ちた以上、探索してみるしかねえわけだし」
男は適当に納得した。言葉通りだ。『異本』の関連事については、若者の言は十分信用に足るし、その判断の理屈は自分が聞いたところで解らないだろう。そのうえ、解ろうが解らなかろうが事実、正しいなら理屈はどうでもいい。そして、やはりどちらにしても、ここを探してみるしかないのだ。
今回の蒐集対象。『啓筆』、序列十八位。『シャンバラ・ダルマ』を。
「そんなことより、いまは何時何分、何秒だい?」
「あ?」
怪訝な声音で反応するが、男は律儀に、腕時計を確認。その時間を若者に告げた。
「なるほど……」
なにかを納得……いや、照合している? 若者はそんな顔をした。自身の腕時計を見ながら。
「念のため聞いておくけれど、その時間、秒数まで確かだろうね」
長い付き合いだ。男が、そういうところマメな人間であることを理解した上での確認。とすると、彼にとってさほど重要なことなのだろうか?
「ああ、エジプトに着いたとき、ちゃんと合わせたよ。……なんなんだよ、気になるな」
男の返答に、むしろ消沈したように、若者は軽く息を吐いた。それでも、絶望というほどにネガティブではなさそうだが。
「教えてもいいが、ここを出るときにしよう」
再度、これ見よがしに嘆息して、若者は言った。
そうして、気を取り直す。
「では、とりあえず進もうか」
若者は言った。まだ二人。男と若者だけだ。
女が合流していない。そう、男が告げると。
「問題ない。ホムラはここには来ないからね」
「……? あいつが『試練』に負けるってのか?」
まあ、『試練』の内容は多種多様、そのうえ試験官の気分次第だ、負けることもあるだろう。とはいえ、それを若者が確信しているのが腑に落ちない。自分ならまだしも、あの、身体能力も頭の回転も自分より優秀な女が。そう、男は思った。
「そうじゃない。……あいつは、この座標に落ちて来ない。そういうことだ」
言って、若者は先んじる。肩をすくめて、訳知り顔で。
そんな姿に、男は堪忍した。若者がそう言うなら、そうなのだろう。
*
改めて、世界を見渡す。
天上も地面も、おぼろげな乳白色。太陽が照っているというわけでもなさそうだが、その色彩に、世界は明るかった。
乳白色の正体――それは、なんと言えばいいのか……あえて表現するなら、『泡』だった。
『泡』。まるで炭酸飲料をコップに注いだときのように、泡がびっしり、敷き詰まっている。天上にも、地面にも。とはいっても、その『泡』ひとつの大きさは、どれも巨大だ。もちろん大小さまざまな泡があるが、目に見えるもっとも小さなものでも、人間一人くらい軽く飲み込みそうな大きさである。
天上はいい。だが、足元が泡のようにふわふわしているのは落ち着かない。どうにも力を籠めにくいし、なにより、いつか弾けて落下するのではないか? さらには飲み込まれ、泡の中に閉じ込められるのではないか? そういう怖さがある。とはいえ、現状歩いている限りでは、弾力はあるが不思議な頑丈さが感じられた。
さて、世界はそれでいい。上下左右、東西南北、どこを見渡しても果てしないほどの乳白色。泡の大きさや積み重ねの多少で、隆起や陥没があり、山や谷のようになっているので、そう遠くまで見渡せるわけではないが、代わり映えのない景色だ。
しかし、その大地に、ときおり点在する、薄紅色の『泡』。それらは世界の泡より幾分小さく、大きなものでも直径二メートルといったところで、一般的には一メートルそこそこというものがほとんどだろう。
そんな薄紅色が、ちょいちょい蠢いている。地面を構成する乳白色の上を、まさしく泡が移動するように滑っていく。かと思えば動きを止め、他の薄紅色と接近して、また離れて……そして、合体したりする。乳白色と薄紅色が合体することはない。乳白色同士でも合体はしていないような気がする。だが、薄紅色同士の泡は、ときに二つが一つとなり、そしてまた蠢き出す。なんなのだろう?
「ぼくが観察している限り、敵意はないね」
そんな男の訝しみに気付いてか、若者がふと、そう言った。
「敵意? ……敵意どころか、意識を感じねえよ。つうか、そもそも、ありゃ生物なのか?」
若者の言い方にたいする疑問だ。彼の言葉は彼らをまるで生物であるかのように語っていたから。
「さてね。……しかし、地下世界にはきっと、先住民がいるだろうと、ぼくは予想してきたのでね。……人類ほどの発達した知能がなかったとしても、生物のようなものは、見える限りあれくらいだろう?」
あるいは、とうに人類など超えているのか。と、若者は小さく付け加えた。近くの薄紅色を一体、眺めて。
「ともあれ、あまり近付かずに行こう。万が一にも攻撃されたら厄介だ」
若者が言う。そうこうしながら、近くにあった、一つの山に登頂した。
*
息を切らしながら、若者が立つ。その後ろからワンテンポ遅れて、男が頂に立った。
「……果てしねえな」
男が言った。方角などあるのか解らないが、東西南北、どこを見てもたいした違いがない。ただただ果てしない、乳白色の泡。
「いまさらだけれど、地下世界のわりに、鉱物がまったくないね。……泡か。本当に地球内部だとするなら、なんらかの化学反応により生み出された気泡が、空間を生み出している、といったところなのだろうけれど」
顎に手を当て、若者は考え込む。しかし、答えは得られなかった様子で、首を振った。
「ともあれ、いったんはこの山を目印にしようか。ここを拠点に、周辺を虱潰していくしかないだろうね。それでもなにもなければ、次の拠点を設定する。……その繰り返しかな」
まだなにも手掛かりがない、ゆえに、それしか方法がないとは、男にも解っていた。ただただ愚直なトライアンドエラー。だが、どこまであるか解らない無機質な世界を進むのは、気が沈む。
「さしあたっては……あそこか? ここより高い山がある。……次の拠点候補にもなるだろうし、さらに高い場所からなら、なにか見えるかもしれねえ」
男はその一方を指さし、言った。
若者は嘆息する。
「……仕方ないだろうね。あとはせいぜい、あちらには足を向けにくい、といったところか。やや、薄紅色が多く、密集している」
別の方を指さし、若者が言った。言って、座り込む。
「とにかく、少し休ませてくれ。……本格的に進む前に、ひとつ、話もあることだし」
その言葉に、男も座り込む。そういえば、こいつと面と向かって話すのは久しぶりのはずなのに、なんともそんな気がしない。そう、男は思った。
「『彩枝垂れ』を、ぼくに返してもらおう。ハク」
単刀直入。若者は、言った。
――――――――
周囲を見渡し、女はため息をついた。なんじゃ、これは。つまらなそうなところじゃ。そう思って。
そして、誰もいない。弟たちの姿も、毛ほども見当たらない。もちろん、ここは一つの世界だ。時間を合わせていたとはいえ、同じ場所に行き着くとは、そんな都合のいいことを思っていたわけでもない。
「まあよい。少し待って誰も来ぬなら、先に行くかの」
女は独り言ち、寝転んだ。地面はふかふかだ、すぐにでも眠れそうである。
「……いちおう教えてやるが、ここに長居はせん方が、身のためだぞ」
ふと、声がした。人間の声。だが、知らない声音だ。
それを把握しても、まだ隙だらけのだらけの格好で、女は視線だけ、そちらに向けた。
見ると、そこに立つは一人のしわがれた翁。すでに衣服として機能していない布を体に巻き、伸ばしっぱなしの髪と髭を真っ白に蓄えている。眉毛も多く、白く、それを重そうに持ち上げると、瞳だけはまだ、死んでいないように深い青に輝いていた。
「汝のテリトリーか? すまぬな。ちょっと休んだら、すぐ移動する」
女は体を起こし、伸びをしながら欠伸をかく。それから鬱陶しそうに首の裏を掻いた。
「こんなところに人がおるとは思わなんだ。何者じゃ? 汝」
少しだけ眼光を鋭くし、女は翁を睨む。とはいえ、幼いその顔面では、いつも通り、威圧感はあまりないのだが。
「何者……か。……知らんな、もはや、自分自身のことなんぞ」
よく解らない前置きをして、それでもはぐらかすつもりではないようで。
翁は続けて、小さく名乗った。
「いちおう、名くらいは覚えている。そんなものでいいなら、教えよう。……ミジャリン。……ドクター・ミジャリン・スノウ」
それから、掻き消えそうな声を、まさしく掻き消すように、翁は苦しそうに、咳を吐いた。
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