2016年、六月。インド、コルカタ。
「ねえねえ知ってました? タイにはハゲにまつわることわざがあるんですよ」
「知ってるさ。『ハゲ野郎は暑苦しくてうぜえ』だろ。身体的なコンプレックスに関与して性格は形成されるっていう意味だ」
「全然違うんですけど!? 知らないんですかハクくん。『ハゲ頭にクシ』。価値を解らぬ者になにを与えても無駄、という意味なんですけどね」
「日本にも似たようなことわざがあるぜ。なんだったかな? 『幸運の女神さまは後頭部ハゲ』みたいな」
「それ意味違いますけど!? 別にハゲの話したいわけじゃないですからね!?」
「あっははぁ、ハク☆ 日本的には『猫に小判』とか、『豚に真珠』じゃない? あとぉ、『馬の耳はロバの耳』……? あれ? にゃんかちがう??」
「寄るなアリス。ギャルがうつる。おまえもハゲてんじゃねえのか? 暑苦しい」
「がっはっはっは! シャルウィッチ! だいぶ日本に詳しくなったではないか!」
「ハクの故郷だからねぇ♪ がんばってお勉強したにゃ! だからちゅうしてハクぅ☆」
「うっぜえ、ハゲのハゲにでもキスしてろ」
「それは嫌」
「ちょっと真顔になるのやめてくださいよ! そしてハゲじゃない、スキンヘーッド!!」
「がははははは! 愉快なやつらよ! なあ、メロディア!?」
若かりし日の僧侶、ギャル、大男、男。やがて稀有な運命に巻き込まれる彼ら彼女らも、まだこの時間軸では――各々、暗い過去を背負っていようと――ただの人間だった。笑って、泣いて、怒って、そうして日々を積み重ねているだけの、ひとりの、人間。
そして、その場にいた、最後のひとり。ぱたん、と、ため息の代わりに読んでいた本を閉じ、ジト目を向ける、最年少の娘子。
「うるさい。という意味では、愉快。だけど、わちきは不愉快」
閉じたばかりの本を開き、また、読書へ戻る。不愉快という割にはさきほどよりもどこか楽しげだ。ぱたぱたと、伸ばした両足の指先を、器用にうねうね動かしている。
「ちなみに、ハクのぼっちゃん、『幸運の女神さまは前髪しかない』は、西洋発祥のことわざ。原型はラテン語」
「おい、俺をぼっちゃん呼ばわりすんじゃねえ。何度も言ってるだろ、お嬢ちゃん」
「ぼっちゃんはぼっちゃんでしょ。だけど、わちきはお嬢ちゃんじゃない。何度も言わせないで」
「ケンカ売ってんのかてめえ」
男は立ち上がり、娘子に詰め寄った。床にぺたんと座る彼女を見下ろし、両手をパキポキ鳴らしながら、威圧的に。
「そんなつもりはないけど……やる?」
手元の書籍に落としていた視線を、鋭く男へ持ち上げる娘子。
それを見て、男は、
「……ごめんなさい!」
謝った。彼女が片腕を、指揮者のように少し、持ち上げた。その意味を重々、理解していたから。
せめて舌打ちだけで抵抗して、元の席へ戻る。
「解ればいい。ぼっちゃん」
「ちっ、お嬢ちゃんが」
ぼそり、と、男は言った。言ってしまった。
「……『EF』、起動。排除対象、氷守薄」
そしてそれは、ちゃんと聞こえてしまっていた。娘子は糸を操るように、指先で空をなぞる。意図を操るように、指揮を紡いで。
がちゃがちゃと耳に障る金属音が、擦れる。
「ちょ……りゅふぁー! それやばいって! ハクが死ぬ!」
「うん。死ぬべき」
「やめておけ、メロディア! ほれ、氷守も謝罪しておる!」
大男が慌てて、男の顔面を地面へ叩き付けた。男は死にかけた。
「ご、ごべばばい……!!」
それでもまだ、息はある。息があるうちに、誠心誠意、男は声を張り上げた。
「…………」
だから――地面にめり込んで、見られる心配がないから、娘子は少し口角を上げて、腕を降ろす。足先をうねらせて、長い黒髪を揺らして、鼻歌を奏でた。旋律に乗せるように規則正しく、ページを繰る。
いつも通りの、日常だった。
――――――――
メロディアの家は、調律師の家系だった。繊細な指先、超越的な聴力、そして、人と音とを最適に結びつける、異常と呼べるほどの感受性を継承する一族。
ただし、その末裔として生まれたエルファには、生来の聴覚異常が発見された。本来、人間の可聴域は20Hzから20000Hz程度と言われているが、彼女のそれは、その半分もないようなのである。日常会話で用いられる540Hzから4000Hzあたりの波長域に関してはどうやら聞き取れ、日常生活においてコミュニケーションが取れないというほどではないが、それでも、比較的高音が聞き取りづらいようで、アラームなどの危険信号を聞き逃し、幾度か生命の危機に直面したこともある。
日常生活はなんとかなるとしても、彼女の家系、その職分である調律師としては致命的だった。もとよりそういう家系であるから、物心つく前から音楽的な教育は施されていたが、聴覚異常が確認されてからは、彼女の両親はぱたりと娘子に興味を失くした。
いや、ともすればもとより、『興味』という点ではなかったのかもしれない。
調律というのは、ただ正しい音に合わせればいい、というものではない。奏者との相性や、求める音、聞かせたい音、聞かせるべき音。時と場合、そして人に合わせて微細に調整するものである。
であれば、調律師が向き合うべきは、楽器という無機物だけでなく、人間という感情ある生命だ。ゆえに、決して彼らは楽器ばかりに向き合い、どこか人の心に疎い機械のような人間、などではなく、むしろ人間の感情にこそ精通したプロ、とも言える。
だが逆説的に、彼らは人間の感情をこそ、無機物的に捉えてもいるのかもしれない。感情のメカニズムを、体系的に把握し、応用する。なにがどうなれば感情が生まれるのかを理解してはいても、その感情が、はたしてどういう意味なのかを察する力が、徐々に失われていったのかも――――。
などと、そんな空想を世間一般な『調律師』たちに当てはめるつもりは毛頭ないが、きっと、メロディアの者たちは多かれ少なかれ、そういった傾向があった。
調律師として、調律師を育てることしかノウハウがなかった彼らは、愛情こそ感じてはいても、調律師になれないであろう娘子を、育てることができなかった。
そうやって彼らが娘子の育児を放棄し、やがて手放すまでの約十年間。彼女は簡素な部屋で、ずっと、空を見つめ育ってきた。一般的な人類よりも、ずっとずっと、静かな世界で。
*
興味など、なかった。エルファ・メロディアには興味などなかった。この世のあまねくすべてに、興味などなかったのだ。
それは調律師として、人間の感情に興味を失った両親や、その他の家族が陥ったように、しごくまっとうな成長だった。
だが、彼女は例外だ。調律師としての技術を身に付け、あるいは継承していく家族とは違って、時間があった。人や楽器にではなく、自らに向き合うだけの、時間が。
チクタク――チクタク――。簡素な学習机と、空っぽの本棚。あるいは、壁に掛けられた時計くらいしかない。その秒針の――一般人よりかはよほど小さく聞こえる音を聞いて、自分自身の心に、向き合う。
言葉も、さほど多く教わっていない。物質的な概念も少ない。十歳を越えても、彼女はほとんど生まれたままの知識くらいしか培っていなかった。
だからこそ、抽象的なイメージが膨れ上がる。後に彼女が言語化するところの、『魂』。あるいは世界に溢れる『意思』。空間を埋め尽くす、何者かの『意図』。――『気配』。
――あえてこの言葉を使う――幸運なことに、彼女は目が見えていた。耳も聞こえないというわけではない。決して多くはないが、言葉を理解はしているし、しゃべれもする。ヘレン・ケラーとは違うのだ。
それでも、彼女の家系がいびつにも培ってきた『感受性』を彼女も受け継いでいて、それを研ぎ澄ますことで、到達した。
数多ある、この世にあまねく広がる、途方もない『気配』の存在。多くを聞けなくとも、『音』を知っている。だから、これは『音』じゃない。そう断定できる。
――――――――
「あえて言うなら、……『心』」
しっくりとこない言い回しで、彼女は、言う。
「『誰かの』とは違う。『世界の』……違う。この世のすべての『心』が、聞こえる」
なにも感じていないような無表情で、でも、足の指をくねくね、一本一本が意思を持つように、器用に違う動きをさせながら、語る。
「聞こえる? いや、感じる……? 違う。……そうね。『存在』する。うん。これがいい」
きっと、彼女にしか解り得ない。――そしてそれは、他の誰においても同じこと。
自分にしか解らない、物語。
「この世のすべてがここに存在している。『すべて』っていっても、『たくさん』ってことじゃない。『すべて』というたったひとつの、それでいてなにものでもあり、なにものでもない、存在が、『いま』、『ここ』に、あるの」
わちきは、それが、好き。
娘子は、言った。
「……なに言ってんだおまえ?」
男は感想を漏らした。
やはり、死にかけた。
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