女の声が聞こえた。叫び声だ。いや、そんな生易しいものではない。
若者は、だから、その場へ向かう。
「くっ……ホムラ……やはり、まだ無理みたいだね」
吹き荒れる風。あの青年は勘違いしていたようだが、若者は、女こそ、『嵐雲』に適応する可能性が高いと踏んでいた。
『異本』への適性・適応は、その『異本』との因果に関わる。確かに他にも要素はある。だが、多くの時間を過ごした、何度も読み耽った、そして、幾度となく争った。その因果に勝るものはない。
ふ……と、風がやむ。おそらく発動限界だ。若者はここぞとばかりに駆け出す。どのような結末になっているかは、だいたい予想がついた。それでも――
「…………っ!!」
汗。だと思った。だが、拭ってみるに、それは、よく似たべつの雫だった。
女の『嵐雲』が止まったのは、きっと、そのせいだ。老人が、女の手を握っている。
「まだ、息があるみたいだね」
その言葉に、女が一瞬、若者を振り向き、キッと睨んだ。だが、その表情を見て、静かに向き直る。自らの――自分たちの父親へと。
「こうなることが解っていたようなあっけなさだ。死ぬ気だったのかい?」
「あほ言え。ちょっと、足が滑っただけじゃ」
若者の軽口に、息も絶え絶え、老人は、重苦しく言った。
その重さが命だと知り、子どもたちは息を飲む。
「ホムラ。シキ。ジン。ハク。儂の子どもたち。おまえらに継ぐ言葉がある」
二つ目の名前に嫌悪を醸しながらも、その場に居合わせた二人は黙って聞いた。
父親の、最期の言葉を。
*
「ホムラ。おまえは、よう成長した。まさかそんなべっぴんになるとは思っておらなんだ。儂もあと十年若ければのう」
「大丈夫なのじゃ! 『パパ』はまだまだ若いのじゃ!」
「ホムラ。明らかに若くないじじいに若いと言うのも、それはそれで失礼だ」
「そうなのか? やっぱり『パパ』はおじいちゃんなのじゃ! 若くないのじゃ!」
子どもたちがこんなときにもコントを披露するので、さすがに老人も笑った。
「てめえらおちょくっとるじゃろ」
苦しそうに老人は言った。それは笑い過ぎで起きた現象だったが、また死を痛感するから、子どもたちは黙る。
「ジン。おまえには面倒をかけた。そのうえ、なにも教えてやらんで、悪かったのう」
「言葉はもっともだけれど、気にすることはない。あなたの教育は、ぼくには至極、心地よかった」
「は……っ」
老人は若者のその言葉を鼻で笑った。
「くたばれ、クソガキが」
「くたばるのはあなただ」
罵倒し合って、互いに笑った。
老人は一度、息を吐く。
「シキは、……あれは、純粋なやつなんじゃ。もちろん、悪い意味でな。……そもそも、『純粋』にいい意味なんてない。じゃから、……許してやれ。いや、許さんでもいい。じゃが、恨むな。恨まれる、というのは、やつにとってはご褒美みたいなもんじゃ」
その言葉には、子どもたちも首を傾げた。解るような、解らないような。
「あとは、……えーと、……ああ、ハクな」
眉根を寄せて、老人は考え込む。
「ハクは……えーと、うん。……あれじゃ、あれ。……そうじゃのう」
語尾を徐々に衰退させ、老人は瞼を閉じる。
「『パパ』!」
「! ……いや、寝とらんよ? 寝とらん……。……で、ハクは……うーん」
老人は意識を失わないようになのか、何度も瞬きをして時間を稼いだ。
その結果が――
「……いや、そもそもあいつ、儂の子じゃなくねえ?」
だった。
「確かあいつだけは、儂が拾ってきた子じゃないじゃろ? なんか知らんうちにいつの間にかおって。……あれ、じゃあ、あいつ、なんなん?」
老人の目に生気が戻った。
くわ! と、目を見開く。
「まあ、いいか」
だが、その輝きも一瞬だった。
「とにかく、おまえら。これからも、なんやかんや生きてください」
軽く上体を起こして、老人は頭を傾けた。
「ジン。幸せにはなれそうか?」
不意にそんなことを聞く。
「さてね。だが、ぼくはぼくらしく生きているさ。あなたのおかげだ」
「そんなおためごかしはええんじゃが。……まあ、まだ、そんなもんかのう」
老人のくすんだ目は、若者を貫く。その、心よりもさらに、奥底を。
「ホムラ。ちゃんと生きられそうか?」
「……無理なのじゃ。……正直に言うと、『パパ』がいないと無理なのじゃ……」
はっはっは。と、老人は豪快に笑った。
「おまえは本当に、よう成長した。……そうじゃ、それでいいんじゃ」
老人は笑い終えると、疲れたように、大きな息を吐いた。
痰が絡むような呼吸音。それからゆっくりと、口元から零れる、赤。
「ハクに、伝えてくれんか?」
目を閉じて、うわ言のように、老人は言った。
「継いでくれ。と。繋げて、紡いで、綴ってくれ。と」
「……どういう意味だ?」
若者が問いただす。
「知らんでいいし、解らんでいい」
老人はかすれた声で、そう言った。
「おまえら、なんか勘違いしとりゃせんか? 長く生きてりゃ、いろんなやつが死ぬ。そりゃあもう、おまえらが思っとる百倍くらいの数が死ぬぞ」
「それは友達が多い『パパ』だけじゃ」
女がつっこむ。
「普通に生きて、身内や知り合いが百人も死ぬわけないだろう。それを百倍とは、表現が大袈裟だよ」
若者も追随する。
だが老人は優しく目尻を落とした。まるでその、これまでに看取ってきた者たちを、すべて悼むかのように。
「とにかく、おまえら。幸せに、生きて、そして、継いでいってくれ。大切な者を見つけて、その誰かと分かち合ってくれ。この、ありふれた、平凡な物語を」
「「物語?」」
女と若者は声を揃えて疑問符を打った。違和感がある。それは……その語彙は、老人らしくない。
だが、そんな違和感を払拭するように、老人は笑い。最期に、瞼を少し持ち上げ、二人の子を見た。
「解らんでいい。解らんで……」
ぶっちゃけ、儂もなに言っとるか解らん。
そうやって老人は、言葉に幕を降ろす。
二人の子どもの涙はもう乾いていた。
体温が、ゆっくり、下がっていく。
*
織紙四季。その青年は、あまりにあっけない『宝』の回収に、むしろ心を動揺させていた。
「なにか、……なにかを見落としている?」
そんな馬鹿な、考え過ぎだ。そう思わなくもないが、青年は思考を巡らしていた。
「努力だ。努力し続けろ」
言い聞かせる。これはもはやルーティーンだ。これまでに何度も、何千回と、何万回と、……おそらく何億回と繰り返してきた、戒め。
手に入れたばかりの『太虚転記』を撫でる。知っている。この本の装丁。感触。内容。汚れや折れ、焼け。『異本』としての、得られる感覚。
「……まさかな」
「そのまさかだ」
青年の声に何者かが答える。
目を凝らさなければ気付かないほどの霧。いや、霧がかったような視界。
「返してもらうよ」
す、と、視覚と聴覚に気をとられた瞬間に、あっさりと抜かれた。
「おのれ……!」
すぐに反応する。杖を持つには時間がかかる。だから、小回りの利く扇でもって、打ち付ける。
ふぁああぁぁ、と、その若者は柔らかく、紙片と舞った。
「……扱えるのか、『太虚転記』を」
消える直前、その若者は『異本』を後方へ投げた。それを、もう一人の若者がキャッチする。
「きみ程度に扱えるものなら、ぼくごときでもね」
距離は取られた。だが、即逃げるというわけではないようだ。
青年は慎重に対応する。
「返せ。それは身共のものだ。その『宝』は身共が使ってこそ価値がある。……それとも、今度こそあなたたちを殺して、奪えばいいのかな」
「できるものならやってみろ。またあの屋敷に、辿り着けると言うならね」
その言葉に、青年は一考する。……まさか、『太虚転記』だけでなく、あの『異本』も扱えるのか? いや、少なくとも老人は扱えたのだ。死の間際にそれを使った可能性はある。
だとしたら、確かに、当分の間は戻れないかもしれない。
つまり、ここで逃せば、面倒なことになる。
青年は扇を開き、口元を隠した。それは余裕を保つ態度。それと同時に、攻勢へ転じる構え。
「鳴れ。『鳴弧月』」
ピン……! と、音が広がる。それを感じ、若者は『異本』を上空へ投げた。
紙片へと散る、若者。その陰から、もう一人の若者が、投げ上げられた『異本』へと手を伸ばす。
「させるか!」
言って、青年も手を伸ばした。
空中で開かれる『異本』。その表紙のそれぞれを、二人は同時に掴んだ。
「……ここまでか」
若者が言うと、不意に、青年の視界がブレた。その現象が収まると、音も立てずに、『太虚転記』の半分が消えた。若者の姿は変わらない。なにが起きた?
「やはり、誰かに触られていると無理か。準備に時間がかかりすぎた」
「なにをした。……身共の、『太虚転記』が」
「きみが知る必要はない。どうせ、きみにはできない芸当だ」
「ふざけるな……!」
言うが早いか、青年は杖を持ち、若者に突き立てた。当然と、その姿は紙片となり、どこかへ飛んで行く。
「やれやれ、無駄だって解っているのにね」
消える直前、若者は語る。
「今度こそ本当に、それはくれてやる。いや、貸し、というべきか。せいぜい使いこなせるように、努力してみるといい」
それだけ言い残し、紙片は消えた。その一片一片が意思を持つ、若者自身かのような振る舞いで。
*
「……くそっ」
戻ってきた若者は、さして悔しくもなさそうに、そう言った。
「まさか取り戻せなんだか?」
「馬鹿を言え。……だが、確かにやる。半分しか取り戻せなかった」
「って、破れとるではないか!」
何度も『嵐雲』を危機にさらしておいて、なにを言ってるんだ。若者は思った。
「問題ないよ。そもそもちょっと破れたくらいで『異本』は効力を失わない。とはいえ、こうまで見事に半分になったら……」
言いながら、若者は念じる。わずかに『太虚転記』が発光した。
「ああ、やっぱりね」
「どうした?」
「性能も二分されたみたいだ。式神五体分、持っていかれてる」
女は首を傾げる。
「妾にはよく解らんが」
「まあ、気にするほどでもない。ぼくの掴んだ、『前篇』の方に、より多くの式神が綴られている。それを解ったうえで半分はくれてやっただけだしね」
こともなげに、若者は言った。だが。
「じゃが、結局は取られたということか」
「仕方ないだろう? 彼に渡す前に、式神は生み出しておいた。だが、その式神の能力を使うには、『太虚転記』に触れ、力を蓄える時間が必要だった。……ブラフは張ってみたけれど、なかなかどうして、敵もやるものだ」
若者はやりきったと言わんばかりに、清々しく笑う。
だが、女はどうにも納得していないふうな顔だ。
「半分とはいえ、取られた。『太虚転記』も含め、全部揃えなきゃならんのじゃぞ」
「どういう意味?」
「じゃから、『パパ』のために『異本』を全部、揃えるんじゃ。……それが妾たちでできる、供養じゃろう」
「……なんだい、それは。初耳だけれど」
「『パパ』は『異本』が好きじゃった。だから――」
「だからって、蒐集していたわけでもないだろう。そもそも、『異本』は776冊もある。ものによってはとても手が付けられない、厳重な管理下にあるものもあるしね」
「知ったことか!」
女は言った。
徐々に実感していくのだ。失われた重さを。なにがなくともよかった。ただ、そばにいて、生きてさえいてくれたら。
だから、生き方を見失う。生き方を求めてしまう。あるいは、それは死に場所か。
「……好きにしなよ。どちらにしても、数日中にはここを出た方がいい。あのシキとかいう青年が見つけるのも、時間の問題だ」
それから、その屋敷に響く言葉は減った。必要最小限に。
四人が三人になった、という程度じゃない。
それは、一人と、独りと、ひとりになった瞬間だった。
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