箱庭物語

776冊の『異本』を集める旅路
晴羽照尊
晴羽照尊

雪月花の時 最も君を憶う

公開日時: 2023年7月10日(月) 18:00
文字数:3,956

 その光景に、壮年ははっとした。

 そして、再認識する。


「俺たちは、幸福だ」


 両腕を広げ、演説するように、主張する。もういい大人が、なりふり構わず、懸命に声を上げる。天衣無縫に、天真爛漫に、その思いを高々と叫ぶ。

 なんという馬鹿だ。年甲斐もなく子どもみたいに、恥も外聞もなく、内心をさらけ出すとは。青臭く、泥臭く、暑苦しい。後先考えていないし、自分勝手で、自己陶酔だ。好き勝手わめいて、そのくせ周囲を巻き込む、とんでもない迷惑人だ。


 だが、その姿は――


「おまえは――」


 壮年は、その姿に、いつかの彼女を重ねた。どれだけの残酷を見せつけられても、どんなに理不尽に裏切られても、それでも世界を愛することをやめなかった、彼女のようだと。


「――本当に、あいつの子だ。バイ心花シンファの」


 私を――俺を救ってくれた、あの女性の、忘れ形見だ。そう、壮年は理解した。


「…………」


 そして彼は、また、空を見上げる。いつも通りの、月を見上げる仕草。いや、そうじゃない。


 思わず溢れた涙を、零さないように、隠すように。天に還った彼女を、思うように――。


 シンファ――。おまえは、私のためにこの子を遺したのだな。そう、解ってしまった。彼女を失った世界で、壮年が、生きる希望を失わないように。彼女によく似た、彼女を受け継いだ存在を、壮年のもとへ遺そうと。


 それなのに、壮年は、間違った。似ているからこそ、自らの子を疎んでしまった。だが、いまなら解る。


 この子がいれば、自分は間違わなかった。落ちこぼれながらも、正しく生きることができた。愛した女性を悼み、偲ぶこともできただろう。彼女だけを至高とし、いつの間にか周囲の仲間を――『家族』を、ないがしろにするようなこともなかった。


 なにより本当に、人を愛するということをちゃんと、理解できた。彼女のことを、本当に愛していたと。そう胸を張れるように、なれただろう。


 そんな平凡な人間に、きっとなれたのだ。その道をふいにしたのは、他でもない、自分自身。


「本当に……本当に、私は――」


 まったくもって、落ちこぼれだ。とんでもない愚か者だ。そう、思う。

 だが――。




「ヨウ」


 片腕を、引かれた。ささやかにも強く。


「ちゃんと向き合わなきゃ。今度こそ」


 司書長がそう、言った。




「リュウ様」


 逆の手を包むように、娘のような者が、しがみついてくる。


わたくしを、置いてかないで」


 そばかすメイドが力いっぱい、壮年を掴んだ。逝かせないようにと、そう言うように。




「リュウ」


 息子のような声が、正面から向き合ってくる。


「私は、あなたが好きだ。尊敬している。だからまだ、一緒にいたい」


 若人はまっすぐ、そう言った。逃げることを許さないような、強い瞳で。




「リュウよ」


 背中を強く叩かれた。年老いても、一度死んだ身であろうと、親のような力強さで。


「『逃げんなよ』」


 老人が――『先生マエストロ』が、言う。


「あいつからの伝言じゃ。おまえと、儂へな」


「『先生マエストロ』……。リオ、が?」


「最初から、解って始めたことじゃ。逃げられはせんのじゃよ、罪からは。たとえおまえが、死のうとも」


 背を叩いた手が、壮年の肩に置かれる。やせ細った老体の、その全体重をかけるように、それは、ずっしりと重かった。

 だから、もう逃げ場はない。目を逸らしてはいられない。仲間に――『家族』たちに諭され、壮年はやっと、諦められた。


「本当に、私は――私たちは――」


 顔を降ろして、男を直視する。だから、溢れていた涙が、流れた。


 落ちこぼれだ。愚か者だ。馬鹿だ。罪深く、間違いばかりだ。――いろいろと、続く言葉はあった。だが、ここで言うべき言葉は、決まっている。






「本当に…………幸福だな」






 なにを失おうと、いかに間違おうと、どれだけの絶望に飲み込まれようと。

 世界は常に、素敵を用意している。




「ああ、……ぞっとしねえほどにな」


 男はおどけて、そう返した。


リュウ憂月ヨウユェ


 彼の名を、一度、正しく呼んで。


 ――――――――


 ――いつか、あるとき。


 老人は考えた。の代わりに、親代わりをすることになるかもしれない。であれば――。


「せめて、本当の、親の名を――」


 憂月うづき。日本名で、そのように、名乗ることとしよう。


「どうしたのじゃ、パパ」


 眠そうな目を擦り、覚えたての、たどたどしい言葉で、当時の童女は言った。


「ホムラ。儂、今後は『憂月』と、そう名乗ることとした」


「知らんのじゃ。パパはパパなのじゃ」


「…………」


 ふああぁぁ……。大きなあくびをして、童女は寝室へ向かった。ただ寝惚けていただけのようだ。


「……ガキの扱いは、相変わらず解らんの」


 老人はひとり、ごちた。


 このさき、そんな子どもガキどもを面倒見るなど――いや。


 ともに生きることになるなどと、いまだ、現実感を持たないままに――。


 ――――――――


 はっ、と、気付いて、壮年は片腕を振り払った。その手を握る司書長を。そうして空いた腕で、目元を擦る。涙を、拭う。


「改めて、『異本』をおまえに託そう。氷守こおりもりはく


 照れ隠しのようにそう言って、振り払ったばかりの司書長に目配せし、心を通わせる。その意図を酌み、彼女は行動した。


「シンねえさんの息子になら、安心してお任せできます」


 はい。と、彼女は己が持つ『異本』、『啓筆けいひつ』序列九位、『フォルス・エンタングルメント』を、男へ差し出した。


 それから、「ソナエ」と、壮年は若人へも指示を出す。声を掛けられた彼も、「どうぞ」と、どこか不本意な表情で、男へ、持つ『異本』、『啓筆』序列八位、『黄泉怪道よみかいどう流転回生るてんかいせい』を差し出した。


 あるいは、そばかすメイドも静かにかしずき、『異本』、『ブールーダの鉄面形てつめんぎょう』を差し出した。その『異本』は、女傑との戦闘において、一度彼女に譲渡している。しかし、『潜影』の力を持つそれは、影に潜み、高速移動することに適している。それゆえ、壮年を助けに駆けつける際に利用するため、そばかすメイドはちゃっかりと、女傑から奪い返していたのだった。


「いや、あの……」


 その大仰な光景に、男は委縮した。

 受け取らないわけにはいかないだろう。しかし、どうにも居心地の悪い状況だ。それに、それ以上に――。


「リュウさんよ。こうなった以上、俺が『異本』を受け取る意味はねえだろう? 『異本これ』をこの先どうするかは、俺がひとりで決めていいことじゃねえ。俺と、あんたで――」


「いいや、やはり、おまえが決めるべきことだ。きっとそれを、シンファも望んでいる」


「…………」


 そう言われてもなあ。と、男はやはり、委縮し続けていた。


 たぶん、彼ら――壮年の『家族』とも言うべき、司書長や、そばかすメイドや、若人にとって、『異本』とは必ずしも、大切なものではない。それでも、それは彼らと、壮年の絆でもあるはずだ。それを奪うのは、少しだけ気が引ける。


 とはいえ、壮年が決断したことだ。男が受け取らなければ話が進まないことも、理解していた。そしてやはり、男自身、『異本』をすべて集め、封印する。その決意を、捨てたわけでもないのだし。


「後悔しねえか。リュウ・ヨウユェ」


 一冊一冊、しっかりと受け取り――受け継ぎながら、男は確認する。


 どういう気持ちであれ、『異本』にずっと向き合ってきたのは、壮年も同じはずだ。その結末が、自分じゃない他者へ委ねられた。その決断に、後悔はないのか。


 だが、そんな気遣いを、壮年は小さく鼻で、笑い飛ばした。


「それが、シンファの思いだ。後悔など、あるはずがない」


 その視線は、言葉とは裏腹に、天を見据えていた。まるで太陽のように煌々と輝く、あの、満月を。


 ところでずっと、壮年はなにを見ているのだろう? ふとそう思い、男もその月を、見上げる。そのとき――


「「わあぁ――っくしゃ!」」


 その親子は、そろってくしゃみをして、なんかいろいろと、台無しにしたのだった。


        *


「ところでよ」


 はなをすすりながら、男は最後に、気になっていたことを思い出した。


「俺の名前は、本当はなんていうんだ?」


 いまさら、そんなものを知っても、どうとも思わない。俺は、氷守薄だ。それはきっと、変わらない。


 だが、自分を生んだ彼らが、いったいどんな思いで、どんな名をくれたのかは、興味が湧いた。


 壮年は、男と同様に洟をすすり、少しだけうつむいた。遠い昔を懐かしむように、微笑する。


家雪ジャシュェ。……バイ家雪ジャシュェ、だ」


 中国――あるいは台湾では、結婚した夫婦は、基本的にそれぞれの生来の性をそのまま名乗る。しかしその子は、の性を受け継ぐ。


「おまえは、美しく、まるで祝福のような、雪の降る夜に生まれた。そしてきっと、素敵な家族を育めるようにと。……そうだ。珍しくシンファが、強くそう、命名を主張した」


 それゆえに、その名に、どれだけの思いを込めていたか、壮年は再認識する。あいつは本当に、『家族』に、強い憧れを抱いていたのだ。そう思う。


「白家雪」


 その名を呼んでみて、男は「ふっ」と、鼻で笑った。それは少しばかり、自分には似合わねえ。と。


「せめて、あんたの性を名乗らせろよ。リュウ


 そう言うと、壮年は目を丸くした。


 この子は、彼女の子だ。彼にとっての氷守薄――白家雪とは、そういう存在だった。自分のような落ちこぼれの子であってはならない。なにより、自分はその子を、放棄した身だ。


 だから、男の提案は、寝耳に水だった。そんなことが、あっていいものか。そうとまで思ってしまう。そんなことが、許されるのか、と。


 だが、不思議なことに、その提案に、壮年は胸が弾むようだった。奇妙な歓喜に、打ち震えたのだ。


「後悔、するなよ」


 そうとだけ、言う。そして、あまりに自分勝手な彼は、こう思うのだ。


 ああ、そういうことか。と、気付く。たとえこいつが、この先、どこかでこのときの選択を、悔やんだとしても――。


 その決断に救われた人物がひとりいるのだから、やはり。


 それは、間違いじゃ、なかったのだ。と――。

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