「イライラするわ」
少女は繰り返して、頭痛を慮るかのように、頭を押さえた。
女傑は蹴り飛ばされ、気を失っている。メイドの姿は消えたが、その残滓のように、彼女の涙が、床には溜まっていた。丁年はとうに茫然自失としているし。そんな数々のやり取りを見て、淑女も、腰が抜けてしまっている様子だった。
大変な、状況だ。だがどれも、ごく短い間に起こっている。それゆえに、男も、心の整理が遅れていた。
「なに、やってんだ。ノラ……」
だがようやく、追い付いてくる。感情が、湧き上がってきた。
「なにやってんだ! ノラ!」
「はあ……?」
男の疑問をいぶかしむように、少女は不機嫌そうに、語尾を上げ、振り向く。
「だいじょうぶだって言ってるでしょ。みんな元気よ。気を失ってるだけ」
まったく。と、呆れるように嘆息して、少女は先へ進もうとする。
「そういう問題か!? なんでてめえ、パララを攻撃した!?」
「先に手を出してきたのはパラちゃんでしょ。なに? わたしが悪いの?」
「…………っ!」
そう言われると言葉がない。だが、少女の態度が気に食わない。
「やりすぎだろ。それと、せめてどこか、安静なところに運んでやれ」
「…………」
男の言葉に、少女は再度、振り向く。じ、っと、男を見た。目を細めて。
「……そうね。気が回らなかったわ」
ふん。と、鼻を鳴らして、やはり不機嫌に、少女は男の言葉に、従った。
*
近くに仮眠室があったらしい。少女はてきぱきとみなをそこへ運び、ものの数分で戻ってきた。男が手伝う暇など、微塵もなかった。
「これで文句ないわね。行きましょう」
変わらずの態度で、少女はそう言った。男の返答を待つまでもなく、先に、『世界樹』へ向かう。
「ちょっと待て。ノラ」
「あによ」
静かで、しかし不機嫌を隠さない威圧感で、少女は立ち止まる。振り返りは、しなかった。
「おまえ、いったいなにを、隠してる」
いくら、馬鹿で愚かで鈍感な男でも、さすがに気付いた。それを少女へ、直球でぶつける。
「……なにって、なによ」
「知らねえ。だから、聞いてんだろ」
「…………」
約、十歩離れている。少女は先導して先に進んでいたが、彼女の行動に疑問を抱いた男は、歩を進められていない。だからこそ、開いた距離。
「……あなたも、わたしを解ってくれないの?」
「……あ? ……なんだって?」
その、距離。そして、少女が発した声の小ささから、男はそれを聞き逃した。輝くほどに美しい少女の、その、もっともどす黒く、煮え滾った感情を。
少女は、全身で振り返る。軽い調子でターンして、いたずらに笑みを作った。
「馬鹿みたいに飛び降りて、可愛いわたしに手をかけさせたこと、まだ、謝ってもらってないわ」
そう言うと、少女は、べー、と、片方の目の瞼を引き下げ、舌を出した。それだけで、ふんっ、と、そっぽを向いてしまう。
そんなこと……? と、男は思った。いや、たしかに一大事ではあった。大変な面倒をかけた。なんならともに、死にかけた。それは間違いなく、深く深く、謝るべきことだ。
とはいえ、そんなことすら『そんなこと』に思えるほど、少女の様子はおかしかった。だから男は、腑に落ちない。言われた通り、少女は飛び降りの件を怒っていたのだろうか? そう言われてしまえば、それだけなのかもしれないと、思わなくもない。だが、やはり、おかしい。その思いも拭えない。
「……悪かったよ」
ともあれ、素直に男は謝った。どちらにしてもその件は、謝るべきことだから。
「解ればいいわ」
機嫌が、直った。そのように男には、聞こえた。
「行きましょう」
さきほどまでの歩みより、幾分、弾んでいる。本当にもう、わだかまりはなさそうだ。
そういうふうに、見えてしまう。男は、内心で、頭を抱えた。
……なのにどうして、不安は消えないんだ? その思いが、胸に引っかかる。
「ああ……」
しかし、男も、ようやっと、歩を進めた。
*
だが今度は、少女の足が、止まった。
「ノラ……」
いいや、止められたのだ。
「…………」
最後に立ち塞がる、一番厄介な、相手に。
少女を踏み止まらせることのできる、最後のひとり。
彼女の夫。紳士。
白雷夜冬。
彼が両手を広げて、『世界樹』の根元に、立ち塞がっている。
「なん、で……シュウ――!」
疑問を口走って、自己解決。
丁年が、呼び寄せたのだ。と。
しかし、すでに彼の『異本』は回収している。ごく稀に、『異本』の毒は、『異本』を手放しても身体に残留し、一時的に扱えることがある。だが、少女の目から見て、丁年にその才能はなかった。
であれば、最初から――。そう気付いて、少女は顔をゆがめた。
こんなことにならないように扱ってきたつもりだったのに、結局、彼は、正答を導いていた。
本当、頭がいいわ。勘も。そう、少女は丁年を称した。
そして、そう理解してしまえば、心も立て直せる。ひとつ、息をついて。
「あら、ヤフユ。どうしたの」
平常に、声をかけた。
「わたしを連れて行け。拒否は――」
「だめよ」
「――認めない」
「…………」
紳士は、どうやら気付いている。もちろん、少女がなにをするつもりかまでは理解していないだろう。それを理解していたのは、たぶん、女傑だけだ。メイドですら、全容は知らないはず。少女は、そう思う。
少女は、気取られない程度に、少し、嘆息した。それは、深呼吸にも近いかもしれない。昂る心を静めるための、行動。
「……空気読んでよ、ヤフユ」
「…………」
「これは、わたしとハクの物語。あなた、べつに『異本』になんて、興味ないでしょう?」
「…………」
「それとも、やきもちなの? そういうの、いやじゃないけど、ちょっと控えてよ。ハクもいるのに、恥ずかしいわ」
「わたしは――」
「ヤフユ。やめて――」
「ノラ。きみを、愛している」
まっすぐ少女を見つめて、紳士は恥も外聞もなく、言い切った。
「はぅ……」
一瞬、少女から変な声が、漏れた。
「好きだ。大好きだ。愛している」
言葉を連ねるごとに、力強く。一歩ずつ、紳士は少女に、詰め寄った。そのたびに少女は、なんかどっかから、妙な声を漏らしていた。
「きみの美しい髪が好きだ。なめらかで綺麗な肌が好きだ。宝石よりもよほど輝く、その目が好きだ!」
「――――っ!!」
「家族思いの優しさが好きだ。間違いを厳しく正してくれる強さが好きだ。いつまでも純粋で、外見よりずっと潔白な、きみが好きだ!」
「ぁ……ゃ……」
「好きだ! 大好きだ! 愛している! きみのすべてを愛している!」
「ひゃ、ゃぁ――――」
その瞳をぐるぐる回して、少女の意識は、朦朧とし始めていた。
「ずっとわたしのそばにいろ。片時も離れるな。いいや……離さない」
言うと、紳士は少女を、抱き締めた。喉の奥からとんでもない高音を響かせて、少女の肩が、ぐぐぐぐ……、と、持ち上がる。
「頼む、ノラ」
耳元で、彼の独特に心地よい声が、響いた。それは少女の鼓膜を揺らし、脳をかき混ぜ、心臓を掴むように、彼女の全身をわななかせる。
「どこにも、行くな――!!」
強制のようで、懇願で。
運命のようで、平凡な。
それは彼の、心の底からの、告白。
対して、少女は。
「…………いや――」
と、応えた。
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