箱庭物語

776冊の『異本』を集める旅路
晴羽照尊
晴羽照尊

そしてすべてが夢になる

公開日時: 2023年7月29日(土) 18:00
文字数:3,513


 全身の力を出し尽くしたように、男は地に這いつくばり、大きく荒い呼吸を、繰り返した。


「やれやれだ」


 男とは対照的に、やけに余裕そうに、まるでこの地こそが彼の永劫の住処のように安らかに、若者は近くの壁に、寄りかかった。


「ずいぶん元気に人を呼び出しておいて、やってきてみれば知らぬ顔か。用もないのにこのぼくを呼び立てるなんて、いい度胸をしている」


「ジン……?」


 どうやらまだ話せない男の代わりに、少女が彼の、その名を呼んだ。

 もうこの世界では語られるはずのなかった、若者の、名を。


「なんだ、ノラ、きみがいたのか。だったらなぜ、ハクがぼくを呼び立てる必要がある。なんでもできる。なんでも解る。きみが対処してやればいいじゃないか」


「…………!!」


 それは、鋭い凶器のようだった。いましがたその件で、少女と男は語り合ったばかりだ。

 少女の、もっとも致命的な部分。世界をすら容易く理解できるだけの洞察眼。それを若者は、とぼけた表情で、踏みつけたのだ。


「ジン。黙れ」


 息を整えた男が、低く、しゃがれた声で、言う。


「黙れ? おいおい、きみがぼくを呼び立てたんだろう? なんだその言い草は。ぼくはべつに、いますぐ帰っても構わないんだがね」


「ノラが、泣くぞ」


「んなっ――!」


 ふと男がおかしなことを言うので、少女からもおかしな声が漏れた。

 その件につき少女は抗議をまくし立てたかったが、「ふうん」と、若者が、微妙に折れた様子を返したので、さらに困惑してしまう。


「……で、何用だい?」


「なんとかしてくれ」


「はあ? なんとか? なんだそれは。抽象的すぎて、理解ができないね」


「ノラを、助けてくれ。……頼む」


 地に伏したまま、男は、そう言った。深く深く、首を垂れるように。


 まったくもって、情けない姿だ。結局、大きなことを言おうと、最終的には人任せ。いついつでも自分だけではなにもできず、誰かの力に頼って生きている。ひとりきりではなにも為すことなどできず、醜くみっともなく這い縋り、解決を他人の手に委ねてきた。


 そうだ、それが男だ。氷守こおりもりはくの、生き様である。弱く、頼りなく、みじめで、ちっぽけな、矮小なる存在。




 ――それはまさしく、姿




 だから人は、『家族』となるのだ。




 君とともに在って、そして育み、そうして愛を、紡いでいく。


 できないことを補い合い、助け合い、そうしてからがら、生きていく。


 なんとか、ぎりぎり、踏み止まって。自分と、大切な者たちだけでも守ろうと。必死に、懸命に。がむしゃらに。




「頼む、ジン。ノラを――俺を、……助けてくれ――」


「…………」




 わき目もふらず、生きて、いるのだ。


        *


 少女は、理解した。


 若者――稲雷塵は、を使ったのだ。あまりに人知を超えすぎた力に、さしもの少女も、理解が追い付かなかった。


 遠い未来をも見通せる少女。その、洞察眼。それですら想定できなかった現実いま


 彼は、使ったのだ。




啓筆けいひつ』、序列一位。『因果』の『異本』。


『アイズ・スクエア』を――。




「きみの言い分は理解した」


 基本的に、『異本』の異能を行使するには、その『異本』に触れることが、絶対的な条件として必要である。その例外となるのは、常時発動型の『異本』のみだ。しかし常時発動型の『異本』は、その異能を、まずもってコントロールできない。


 つまるところ、使用者の意思が、働かない。能力の強弱や対象指定、オンオフの切り替えなど、常時発動型の『異本』能力は、それらを制御し得ない。いちおう、その『異本』に適応していれば、それらコントロールはある程度、可能となるが、やはりレアケースと言えよう。


 だから、少女ですら洞察が追い付かなかったのだ。『因果』を操る『異本』、『アイズ・スクエア』。その存在は少女の目にも捉えられていた。だが、それを扱える者が、その場にはいなかった。


 男はおろか、少女にすら無理だ。いいや、すべての『異本』の頂点に立つその一冊は、あまりに次元が違う。そんなものを扱える者など、もはや神としか言いようがないだろう。かつて男の母親である若女が、自身のうちに宿った形而上の人格に頼るしかなかったように。普通の人間に、そもそも扱えるような代物ではないのである。


「だがそれは、きみのエゴだ」


 たしかに、『異本』を扱える体質であるかどうかという、親和性が規格外に高い若者なら、扱える可能性はあった。彼は、少なくとも『啓筆』序列十八位、『シャンバラ・ダルマ』を使用できた者であるし、『異本鑑定士』という肩書を持つにいたるほどの、『異本』に関する天才だ。


 しかし、彼は死んだ。死んでいた、はずだった。

 死人は、その肉体を失わせている。


 つまるところ、『異本』を行使するための条件を満たさないのだ。『異本』に触れなければならないという、条件を。


「きみが苦しいんだ。きみが悲しいんだ。だから人は、大切な誰かを失うことを恐怖する。繰り返すが、それはきみの――遺される者のエゴに過ぎない。きみは正しく、ノラの幸せを願っているかい? 己が洞察に――そして世界に絶望した彼女は、もはや死ぬことだけを救いにしている。きみは自分勝手なそのエゴで、彼女の願いを踏みにじろうというのか」


 だが、『アイズ・スクエア』だけは別物だ。いや、とはいえ少女ですら、そんながあるとは――目にしてようやく、理解できる程度だった。


 その『異本』、『啓筆』序列一位、『アイズ・スクエア』。『因果』の『異本』。


『因果』とは、原因と結果。なにかを行い、なにかがなされる。その、繋がり。時間的流動性。


 その流れを、。つまり――。




 若者は、『異本』に触れることで、世界と自身との因果を、繋ぎ直した。端的に言ってしまえば、生き返った。




 




 若者は、この世界に、『




 まったく意味が解らない。その現象は、意味の段階で、すでに人知を超越している。


「まあ、だが――。そろそろノラが、現象を理解したころだ。彼女の意思を、聞いてみようか」


 解ったような口ぶりで、気障に若者は言った。まさしく、ぴったりだった。少女が『アイズ・スクエア』の性能に、若者の――男の思惑にたどり着いた、まさにその、タイミングだ。


「忌々しいことだが、これでたしかに、状況は変わった。『啓筆』序列一位、『因果』の『異本』、『アイズ・スクエア』。この力を、いまきみは、利用できる。……かもしれない。ぼくが、その気になるならね」


 協力するのか、しないのか。まだあやふやにおどけたまま、若者はそう、言った。


「ノラ。きみが本当に、それと望むなら――」


 瞬間、若者はしっかりと少女を見据えて、真剣な眼差しを、落とした。その金眼を、わずかに潤ませて。


「きみの頭にある、『シェヘラザードの遺言』を、取り出そう。きみがそれを読み込んだ、その『因果』を、繋ぎ直そう。それできみは、その洞察に振り回されることがなくなる。この先の苦悩は、取り除ける」


 とくん。と、心臓が鳴った。あり得ないはずの未来が、鮮明に少女の前に、描かれたのだ。


「過去も、未来も、紡ぎ直せる。きみのことだ。いまこの瞬間能力を失おうと、過去は残り続けると思うだろう。だが、それすら組み立て直せる。なんなら、最初からこの物語を、やり直したっていい。すべての異能も、すべての『異本』も、なかったことにして――」


「――――!!」


 少女は、思い描いた。


 男と――お父さんと、ただただ平穏に、過ごす日々を。

 少女は、世界のことなどなにも知らぬまま、ただの無知な――無知で、無垢で、ただの可愛い少女のまま、『家族』たちと過ごす。


 そんな、夢のような、夢を。


「そうして平穏に、生まれ直ることだってできる。ノラ。もしもきみが、望むなら」


 若者は、そう言った。その目はすでに、そうしてくれることを許容しているようだ。もしも少女が首を縦に振れば、きっと彼は、そうしてくれる。


 だけど――。


「ジン。……わたしは、やっぱり――」


「ああ、解っている」


 不思議な人だわ。少女は改めて、そう思った。


 どうして、そんな顔ができるのだろう。こんなこと、なんでもないことのような、顔。


「ノラ――」


 その展開を、男も理解したのだろう。だが、彼は義兄ほど、諦めがよくはない。力任せに、思い任せに、まだ少女を引き留めようと、動いた。


「ジン……頼める?」


「やれやれ」


 気障に肩をすくませ、若者は静かに、『異本』を用いた。


「きみがいなかった『因果』を、組み直しておくよ」


「――――っ!?」


 男の、声にならない声が、響く。

 そんな彼が、最後に見たものは――。




「またね。ハク――」




 無邪気に、満面に笑う。神様のようで、天使のような。


 少女の、笑顔だった。




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