男はあのとき、そのことに気付いた。
前者に関しては、ブロンドメイドへの渾身の一手。すなわち、『ジャムラ呪術書』を用いた『存在の消滅』へ彼女を捉えたのち、いともたやすく抜け出されたあと。驚愕と、絶望の入り混じった中へ優しく男へ差し伸べられる、ブロンドメイドの手。それを、瞬間掴みかけた、あのとき。
後者に関しては、幼メイドを抱き締めたあと。少女がらしくもなく男に甘えたふうになった。そして、それを幼メイドが茶化したことにより、やや少女の思い描いた通りにはならずじまいとなった、あのときの出来事。
その一連のやり取りのどさくさに紛れて、少女が男の纏うぼろぼろの茶色いコート。そのポケットにひとかけらの鏡を忍ばせた、そのこと。
そうだ、それは。いつかの幼年が扱った、『異本』の能力――。
その、ポケットに忍ばされた鏡の欠片に気付いてから、男は彼の助力を、心の声を通して頼っていた。その、使うタイミングも。
一度目は、ブロンドメイドとの戦闘から逃れ、次の部屋に進む際、彼女の警戒から逃れるため、瞬間移動として用いた。そして、二回目が今回だ。彼とともにいるというもう一人の助っ人に、醜男を撃ち抜いてもらうために。
まるで男のコートのポケットが四次元になったかのように、そのうちから唐突に、その丁年は現れた。
当時、年齢を加味しても小さめだった身長は男と同等くらいに伸び、その大きさという面では、男より一回りほど分厚く成長していた。茶色く色が抜けていた髪は、さらに脱色し金髪である。といっても、若者のような生来の色というよりは、薬品を用いて抜いたようなムラが垣間見えた。しかつめらしい目付きは健在――どころか、さらに眉間に皺が増えたようで、事実どうなのかは解らないが、とても視力が悪そうである。
そんな彼が纏うは、紺色のスーツに、漆黒のロングコート。両手には潔癖そうにも見える、白い、レザーグローブ。それがなぜだか両手とも人差し指だけは布地が切り取られ、黄色人種としてもやや黒く焼けた肌が剥き出しとなっていた。
「ども。お久しぶりッス。氷守さん」
そんな丁年が、男の記憶とは雰囲気の違う口調と、低くなった声で、やけににこやかに笑い、そう言った。
*
声すら上がらず、カチャリ、といった小さな物音。それだけで、その動きは止まった。
「動かないでください。と、言っても、動けないのですけれど。……ガウナ・ラーニャスルク」
けほけほ。と、小さく咳き込み、幼メイドは言った。その小さくてか細い腕を一本、言葉とともに深紅の執事に押し付けながら。
動かない。微動だに動かない。いや、幼メイドの言う通りに、動けないのだろう。本当に微塵も。声を上げるための口も、顎も、舌先さえ。瞼も、瞳も、視線も。動こうとしてわずかに持ち上がったまま、重力に従って落ちるはずの前髪すら、動かない。
「私はこれより、EBNAへ反逆致します。これから時間を動かしますが、なにもしない方がご自身のためになるかと」
けほっけほっ……。と、もう少し大きく咳き込み、落ち着いてから、幼メイドは手を、降ろした。
すると、時間が止まっていたように動かなかった深紅の執事が、唐突に時間が動き出したように崩れ落ちる。荒い呼吸に、床をも濡らすほどの発汗。改めて確認するまでもなく、もはや戦意は失われている様子であった。
だが、幼メイドの方もその一瞬で、かなりの憔悴が見て取れた。なおも幾度か咳き込み、よろよろと男の元へ身を預ける。
「おい、大丈夫か? ラグナ」
「ご心配には、及びません。すぐに、よくなりますから」
大きく深呼吸。そしていま一度の、咳。さらに、深呼吸。
そうしてようやく、彼女の咳は止まった。
「……おまえの極玉か?」
「……はい。……時間の神、クロノスの力。……御覧の通り、ごく短時間しか使用できませんが、対象の時間を、コントロールできます」
「……強すぎるだろ」
「いえ、実戦で用いられるほどによいものでは、ございません」
咳こそ止まったが、確かに、いまだまともに動ける身体状態ではないのだろう。そう思えば彼女の言う通り、まだ実戦で用いるにはリスクが高すぎる。
とはいえ、そのリスクさえ解消できれば強力すぎる力だ。そんなものまで生み出してしまっていたEBNAは、放っておいたら世界を傾けるほどの影響力を持つに至ったかもしれない。特段、世界平和などに興味のない男だったが、その事実にはさすがに肝を冷やした。
『異本』の中でも、時間を自由にコントロールできるものと言えば、『啓筆』序列三位、『Arcanum Ego』くらいしか存在しないだろう。それほどの、埒外な力。
ともあれ、男は彼女を思いやり、ソファへ寝かせた。いまだあどけない下着姿だったので、自身のコートを毛布代わりに。
そして念のために深紅の執事を見ると、丁年が銃を突き付けている状況だった。
*
お、おう。やるじゃねえか、シュウ。さすがだぜ。おまえはやるやつだと思ってたよ。うん。
と、男は思った。
「あ、こっちは俺、見とくんで、氷守さんはまだやることあるんじゃないッスか?」
違和感だ。違和感しかねえ。男は思った。そしていつの間に煙草咥えてたんだ? とも思った。確かに丁年は煙草を咥えていた。火こそ点いていないものの。
「いや、まあ、元凶であるスマイルは倒したし、あとはゆっくりルシア探すだけかなあって思ってんだけどな、俺は」
なんとなく恐縮した男である。下手をしたら敬語が飛び出しそうだ。
「んー、でも、あのパツキンのメイドさんが残ってるじゃないッスか。ありゃノラでも厳しいッスよ? それに、俺たちの調べだと、もうひとりやべーのがいるってことなんスけど」
「マジッすか」
敬語が飛び出た。敬語ではないけれど。
というより、それが真実ならわりとマジで超やべー事態なんスけど。
「私はね……」
不意に、深紅の執事が口を開いた。
「死ぬのは本当、どうでもいいんですけれど、狭苦しいところへ押し込まれたりして、動けない、というのが、大っ嫌いでしてね。いまでも過酷な刑務所では、身動きすらままならない狭い部屋に押し込まれたりもするのだそうですよ? 本当、そういうの考えただけで、背筋が凍ります」
「どしたんスか? 急に」
男は言って、かぶりを振った。だめだ、己を取り戻さねば。なんだこのしゃべり方。
「つまりなにが言いたいかというと、……降服です。というより、もとより私もスマイル様にさほどの忠誠心もないですし。さらに言えば、可能であればこの『不死』の極玉も失いたいと思っていたのです。そもそもプラナリアって……プラナリアっていじめですよね? ……まあそれも、CODEを使えば可能なはず。どうでしょう? ルシア様の元へはご案内致しますから、私のことは見逃す、ということで、手を打ちませんか?」
嘘。偽り。そして演技であることも十分に考えられた。その、見るからに衰弱しきった声や表情。それくらい、EBNAの執事なら簡単に演出できるだろうから。
「……いいぜ。とりあえず銃口は向けたままで、先にルシアの元へ案内してくれるならな」
だが、男は承諾した。ブロンドメイド。そして、丁年が言う『もうひとり』とやらが生き残っているとはいえ、敵の大将は討ち取ったし、残りの強敵もなんとかなるだろう。そんな甘い計算があったから。
それに、どうしても深紅の執事の言葉が、やはり真実に思えてならなかったから。
この判断は、間違いではなかった。男は淑女と無事合流するし、深紅の執事もおかしな行動は徹尾、取らなかった。
ただし、まだ強敵たちの戦いはいま少し、終わってはいないのだけれど。
EBNA。施設長。スマイル・ヴァン・エメラルド。
01:05 銃傷により死亡。
EBNA。第九世代暫定首席。ラグナ・ハートスート。
同。 第八世代第三位。 ガウナ・ラーニャスルク。
01:10 降服。
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