逃げた。逃げたのだ。
あの日のことを思い出し、青年はそう、ようやく理解した。自分は逃げた。そのように。
――――――――
「ホムラ。おまえは、こんなところにいるべきじゃない。すぐにでも外へ出るべきだ」
なんやかんやと居座ってしまった男の子が、女の子をつけ回す。女の子の方は面倒くさそうに、その幼い体には不釣り合いな、巨大な書籍を開いて、読んでいるのかいないのか、ただただ眺めながら歩いていた。
「わらわら――妾……は、忙しいのじゃ。お外で遊ぶならひとりでやるのじゃ」
眉根を寄せて小難しそうに、いまだ幼い女の子は言う。
「遊びじゃあねえんだよ。おまえは世界を知らなすぎる。おまえなら――おまえと僕なら、世界にも通用するだろう。こんなところでくすぶっている暇はない。努力が――」
「妾はべつにくゆっていないのじゃ」
「そうじゃねえんだよ。くすぶっているってのは、まあ――」
そういえばどういう意味なのだったか。ニュアンスで理解していたので言語化するのは、いまだ幼い男の子には難しかった。
「ともあれ、もったいないということだ。おまえにはまだ、無限の可能性がある」
「そうじゃのう。たぶん将来は、すっごい美人になるのじゃ。ぼんきゅっぼ~ん。なのじゃ」
「それはないな」
まだまだ発展途上とはいえ、その、幼い矮躯を上から下に見て、男の子が言う。よもやその言が現実になるとは本当に、思いもせずに。
おそろしい速さで、女の子が男の子の脛を蹴る。腹の底からの呻きを上げて、男の子は転げまわった。
「待て……ホムラ」
地に伏した男の子を無視して、女の子は行ってしまう。特段に、真剣に怒っている様子はなかった。しかし、だからこそ問題なのだ。好意の対義語は嫌悪ではなく、無関心なのだから。
「またフラれたのか、シキよ」
倒れ込んだ男の子を見下ろし、老人が、言葉を落とす。
「おまえには関係のないことだ。それにこんなもの、フラれてすらいない」
いまだ顔をしかめたまま、男の子は気丈に立ち上がる。まだ、脛を庇ったまま。
「それと、勝手に名をつけるなと言っただろうが。おまえが言うと、ホムラまで僕を、その名で呼ぶんだよ」
「おまえここにきて何年経つんじゃ。いい加減、諦めろ。郷に入っては郷に従えと言うじゃろ」
「知らねえな。世界は僕んだ。従うべきは僕じゃねえ。その、郷ってやつのほうだろ」
はあ。と、嘆息する。この放蕩息子は――いや、放蕩というより、放浪している息子は、何日か何週間、ときには何か月かふらふらとどこかへ出かけ、結局いずれ、ここに帰ってくる。その目的が女の子であることは確実だが、それでも、もはやこの屋敷の子といって差し支えない。であるのに、自分にはまったく、心を開かない。
いや、ともすれば、何度も言い寄っている女の子にすら、心など開いていないのだろう。そもそも、彼に心などあるのか? いや、心はあるだろう。あまりに純粋な、確固たる心が。ただその心が、世間一般から乖離して、歪んでいるだけのこと。
それでも、いつの間にか、色には染まっている。心など開かなくとも、同じ時を多く、ともに過ごすことは、それだけで――。
「おまえ、だんだん口調が崩れてきとるの」
鼻で笑うように、老人は言った。
みるみる、男の子の顔が、歪む。
「口調というなら」
語気を荒げて、男の子は口を開いた。
「ホムラに悪影響だ。父親のつもりなら、あいつの――彼女の口調も、正すべきではないですかね?」
いやみったらしく、丁寧語で、男の子は言う。
「あいつが人の話を聞くタマか。もう何度も言っとるが、聞きゃあせん。できるもんなら、てめえで矯正してやれ」
「……言われるまでもありません」
できやしないと理解しても、男の子は、そう言うしかなかった。
心を動かせもしないのに、どうして言葉遣いを変えられようか。
そう苦心に顔をゆがめ、老人に背を向ける。まだ、彼女を追わなければ。まだ、努力を――
「『パパ』っ! こっちにおったのじゃ! このご本重いのじゃ! ちょっと持っててほしいのじゃ!」
そのご本を振り回しながら、突撃してくる女の子。
「うげー!!」
だから男の子は、巻き込まれる。
「あ、シキ。まだおったのか。すまんのじゃ」
女の子も変わらず、ただ彼を、ないがしろにした。
*
彼は、やがて悟った。
この女は、自分にはどうともできない。ならば、もっともっと、努力を続けねばならない。
強く。強くだ。
どうせ世界は自分のもの。誰に気兼ねすることもない。
だが、強くなければ、それらを管理することはできない。
だから、強く。強く!
この女を力任せに屈服させうるほどの、強さを。
そう思い、彼は幾度目かの旅に、出掛けた。いつも通りに屋敷を抜け出て、世界の『宝』を探しに。
そのとき、彼は『いつも通り』に、出掛けただろう。特段に強い意志を持ってなどいなかったはずだ。
だが、それきり二度と、帰らなかった。
次に、その屋敷を訪れたのは、老人や、女との、本当の決別を迎えた、あの日。
それはつまり、彼は逃げ出したのだ。努力から、逃げ出した。
女を振り向かせる努力を怠り、女に正しい気持ちを伝える努力を怠り、心はさらに歪んで、屈折して、ねじれて、こじれた。
――その努力を、取り戻そう。
――本当の努力を、始めよう。
――――――――
「ホムラ」
呟く。
黄金の杖、ブレステルメクに体重を預け、大きく俯く。目を閉じても、二体の式神と視界を共有して、好青年を捉える。ぽつりとこぼれた彼女の名は、その騒乱に紛れて、誰にも届かない。
きらきらと、清々しく、笑いやがって。忌々しく、思う。
この好青年は、まさに『好青年』。屈託のない笑顔の似合う、爽やかで、厭味のない、格好のいい、男性だ。強さも、優しさも、野性味すらも備えている。男性としても、生物としての遺伝子的優性を見ても、申し分のないオスだ。
自分とは、まったく違う。最底辺を這う自分とは――世界のすべてが美しく、きらきら輝く『宝』に見えるほど落ちぶれた自分とは、まるきり違う。
だが――。
「ホムラああああぁぁぁぁ――――!!」
叫ぶ。
全身に力を込め、天を仰ぎ、全身全霊に、遮二無二、叫ぶ。重い荷物を――心を伝えるには邪魔になる、重い『宝』、黄金の杖や、漆塗りの扇、こげ茶色の装丁をした『異本』、その他もろもろのそれらを捨て去り、身軽に。
「はいっ!」
ちょっとうたたねしかけていた女は、唐突に名を呼ばれ、びくりと反応した。
つーか寝てる場合じゃなかった。そう思い、気を引き締め、立ち上がる。
「身共はここで、すべての努力を終わらせる! こいつを倒して、おまえを娶る!」
しっかと、式神ではない、自身の目で見据え、好青年に指をさす。天照と月読、二体の式神が連動し、瞬間、好青年を押し返した。それを最後に、式神は、紙片となって消える。
残されたのは、ふたりの――二匹の、オスだ。
「覚悟を決めたか。上等だ」
好青年は前傾し、突進の構えをとる。それを無視して、瞬間、青年は、女を振り向いた。
「愛してるよ、ホムラ」
普段とは似ても似つかない、心の底からの美しい笑みで、青年は、笑う。
「あ、うん」
まだ寝惚けているのか、気のない返答が、女の口をついた。
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