獣へと回帰した好青年と比べれば、女はよほど、人間だった。
決意した。腹をくくった。だが、目を血走らせ、唾液を振りまいて向かってくる好青年――もとい獣を相手に、あろうことか身を屈め、両眼を閉じてしまったのだ。
反射的行動を、即座に律し、無理矢理、動こうとする。だが、すでに心は死を予感していた。そして、あるいは、それもいいのかもしれないと思い始めてもいた。
一度死んだ彼と、この先をともに歩むことはできない。人間としては。
でも、彼の願いに応じて、その牙に噛まれ、爪に抱擁され、己が身、すべてを捧げることは、あるいは、いまの自分たちに叶えられる、愛なのではないかと。
そう思って――。
「身共の『宝』に、なにをしている」
シャァン! と、鈴の音が、鳴る。
風を凪に変える、金属臭。
緑色の、血の匂いだ。
「ガゥアアアァァァァ――――!!」
「この、獣があっ!!」
顔を上げた女が見たのは、獣になり果てた好青年と、彼を押しとどめる黄金の杖。そして――。
「なにをやっているんですか、あなたは」
苛立たしげに視線を落とす、深い緑色の、ワカメのような髪を揺らす、青年。ぼろぼろになった狩衣のような服を纏い、傷だらけの体をところどころ露出させている。黄金の杖。逆の手には、黒い漆塗りの扇。破れた衣服の隙間から、こげ茶色の装丁をした『異本』が見え隠れする。
「汝――」
「邪魔だから下がっていろ」
「ふえ?」
おかしな声が出た。だが、けっして女は、弱まったわけでも、ましてや、突然の助っ人にときめいたわけでもない。
青年の言葉と同時に、視界が変化したのだ。
好青年と女の間に入った青年。その真後ろにいたはずなのに、いまでは距離を隔て、十数メートルは離れている。その代わりに、さきほどまで女がいたはずの位置には、青年と同じ姿をした、もうひとりの青年が構えていた。
「天照、月読」
青年が持つ『異本』、『太虚転記』が扱える十四体の式神。そのうち、たった二体だけ、使用者と互いの位置を交換できる式神だけを自らの姿に整え、呟く。
いいや、いまでは使用者だけではない。あらゆるものの位置と、それらの位置を入れ替えられる。そういう、式神たちだ。
「これだけ開かれた場所では、数を増やしても意味がない。これだけで十分――」
「ガアアアァァァァ――――!!」
ぶつくさと独り言を言う青年を、獣が襲った。だが、目を離していた様子であるにもかかわらず、危なげなく、左右にいたふたりの青年が、杖で受けた。
「でしょう」
「なんだ、キミはっ! ホムラのなんなんだっ!」
理性をわずかに取り戻し、好青年は言った。
真ん中の青年が、獣を一瞥する。
「所有者ですよ」
違う。女はそう思った。
「それで、あなたはホムラの、なんなのですか?」
「捕食者だ」
怖い。女はそう思った。
瞬間、力と力が押し合い、異様な圧が、彼らを中心に、広がった。圧が、先。それから一拍おいて、力同士は、互いを吹き飛ばす。だが、彼らは同時に、またも互いに向かって力を振るう。離れた距離が一瞬で、縮まった。
「なら、キミを先に――」
牙を剥いても理性を残したまま、好青年が言う。
「ええ、あなたを先に――」
黄金の杖を振るって、ニタニタした笑みを浮かべて、青年が言う。
いや待って。そう、女は思った。
「喰らう!!」
「殺す!!」
妾のために、争わないで!!
*
……などと、ふざけている場合ではない。と、女は思った。赤い髪を振り、幼い顔を叩いて、気を取り直す。
「つっても」
あれ、どうしよう。と、他人事のように女は思った。
「へえ! 不思議な防御だ! なかなかどうして――」
人間に回帰した好青年は、見えない壁を足蹴にして、笑う。
「――頑強だっ!!」
その『見えない壁』を蹴り壊して、好青年は獣のように、口角を限界まで、上げた。
ちっ、と、青年は舌打ちする。
「人間じゃねえな、てめえっ! 概念を超越しているっ!」
だが、と、想起する。その程度の人体、すでに履修済みだ。
――はっはあぁ! 『拳を防ぐ盾』だろ? 狂った俺の拳は! 人間じゃァねえんだよっ!――
いともたやすく、その『壁』を乗り越えた狂人が、青年の頭にこだました。
――ふむ。面に対する概念の拒絶。我の知る通りだ。つまるところ、それを迂回すればいいだけの児戯に過ぎない――
菌糸を巡らせ、多方向から、その防御をかいくぐった『彼』が、眉も動かさずにそう告げる。
その努力は、無駄になどならない。
「守りが及ばぬなら、断ち切るのみ!」
ふたりの青年が好青年を抑えている間に、もうひとりの青年が、刃を抜く。黄金の杖から抜かれた、黄金の剣。それでもって、獣に斬りかかった。
しかし、「おっと」と、軽い調子で、その、理性ある獣は躱した。たしかな確信を秘めた目で。
「たしかに体は強靭だが、殺し合いは素人。そんな狙い澄ました迫力を伴っていては、その、隠し刃の威力も測れるというものだよ」
大袈裟に過ぎる後方回避を遂げたあと、好青年は言う。口元は大きくゆがめていても、目は笑っていない。青年の振るう刃の威力を、本当に理解しているのだろう。
これと同じ経験を、過去にしたことがある。
――あっぶな! それ、霧すら切れる剣なんでしょう!? そんなもので斬られては、私の生えかけた髪の毛も木っ端みじんですよ!――
姿を霧に変えた僧侶が、太刀の特性など知らないはずの彼が、その霧すらも斬られぬようにと大きく回避し、ふざけた声音を張った。
――打ち合いに持ち込まれる時点で、力量差は拮抗しているということ。それは我が、ダイヤモンド家の恥です――
結局、一度すらも――一歩すらも動かせなかった貴騎士が、子どもでもあやすように剣を振るう。
その努力を、いま、超える!
「威力は推し量れようと――」
猿真似は癪だが――。と、眉をしかめる。だが、愚痴を言っている暇は、いまは、ない。
『秒桜剣』。相手の認識を狂わせる美麗な動きで、時間間隔を錯覚させる、ダイヤモンド家秘伝の剣技。あの短い戦闘ででき得る限りに奪った、それを、我流にアレンジする。
「いつまで躱せますかね――」
「それはやめておけ」
ふ――と、その剣技は初動の段階で止められた。もちろん、好青年の手によって。
「あぶないあぶない。動かれてからでは、さすがのボクにも、躱しようがない」
あははははは。なんでもないことのように、好青年は笑った。だが、その手は、その爪は、深く青年の腕に食い込んでいる。
それを見、青年は、ニタニタと気色の悪い笑みを、浮かべた。
「これはまた……まだまだ――」
力任せに掴まれた腕を振るい、好青年を引き剥がす。
おっとと。などと言いながら、やはり余裕そうに、好青年は再度、距離を隔てた。
「努力は、続くようです」
切っ先を向けて、敵に、宣言。
「いいねえ。いい男だよ、キミも」
牙を剥いて、好青年も、応えた。
うん。なんか楽しそうじゃし、放っておくか。
女は、体育座りをして、壁にもたれた。
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