ものの、数分である。勝負は端から見えていた。
「はあ……はあ……」
肩で、息をする。乱れた髪が視界を奪う。だが、それと同じ色の液体も、一筋、頬を伝っていた。
「熱烈な、アプローチじゃ……。しつこいぞ、汝」
衝撃吸収の壁を背にし、腰を下ろして睨み上げる。だが、その眼に力は、もはやない。
「こんなものじゃ、ボクの心は解らない。あの試練のときから、ずっとキミを想っていた。ボクはすでに過去の人。もう二度とキミには会えないと諦めた、だが、こうして再会したんだ。これは運命だよ」
壁ドン。……を、その強靭な足で行い、股の間から女を見る。格好こそ不躾だが、その声には、愛が宿っていた。
「ときめく文句じゃ。しかし、これは運命などではない。ただの仕組まれた、物語じゃよ」
「興の冷めることを言うなよ。どんな策謀が裏にあろうとも、ボクなら――ボクたちなら運命に変えられる。……そうだろ?」
ぐ……と、力を込める。地についたままの片足に、踏みつけられた刀は、どうやら動かせない。そのあまりの動かなさに、女は少し、笑った。
「はは……。妾もそんな気がしてきたよ。強い男も歓迎じゃ。妾の趣味に合う」
「そうだろう? なら――」
「じゃが」
笑顔で手を差し出した好青年。その手を、女は振り払って、目も背ける。
そうじゃな。あまり気にしてなかったが、そうじゃろうな。そう、思う。ちらりと再度、確認して、確信する。その光景には、いくら女といえど、目を背けるしかなかった。
チャク・トク・イチャークという名は、古代マヤ文明の王のものである。その名を持つ王はふたりいるが、どちらも、紀元4~6世紀ごろの人物だ。ならば、そりゃあ服装も、簡素なものであろう。下着など、穿いていないほうが、むしろ普通だ。
「無遠慮に下半身を晒す男と、誰が付き合えるか!」
目を逸らしたまま、女は敵の股間を蹴り上げる。
ニワトリを絞め殺したかのような切ない悲鳴が、転がっていった。
*
「ほー! ほー! ほおおぉぉ!!」
言葉にならない悲鳴が、暴れている。その隙に女は立ち上がり、刀を構えた。
「妙なものを見せおって! 『パパ』のだって見たことないんじゃぞ!」
まだ少し目を背けたまま、女は声を荒げる。そのまま一歩ずつ、うずくまる好青年に歩み寄った。
「うううぅぅ……」
呻きながら、好青年は片腕を上げる。手のひらを向け、女を制止する。
「み、妙なものとは心外だ。これでも国一番の、きょこ――」
「黙れ馬鹿者っ! それ以上言ったら、マジで許さんぞ!」
全年齢対象作品から外されてしまう。かつての少年が言っていたことを想起し、女はそんなことを思った。
「妾はこんなんでも文明人じゃ。強い男は好きじゃが、それよりも、身なりの整った紳士がよい」
「うぐぅ」
好青年は観念したかのような声を上げる。うずくまったまま腰を叩いていた。
が、ようやっとそれもおさまったのだろう。震えながらも体を起こし、女を見る。
「ま、まあ、至らないところは直していくよ。文化が違うんだ。すれ違うこともあるだろう。だが、そんなもので、ボクの想いは揺るがない」
内股で、少しずつ好青年は立ち上がる。いまだ震えているが、どうやらそろそろ、動けそうだ。
そんな、生まれたての小鹿のような好青年を見て、女は嘆息する。
「本当に、惜しいの。汝と同じ時代に生まれたかったよ、妾は」
「ともに歩むのに、時代の隔たりなど些末な問題だ。ホムラ。いまからでも遅くはない――」
「いいや、遅すぎる」
女はきっぱりと、言う。背けていた目を、まっすぐ向き直して。
「死んだら、ぜんぶ終わりじゃ。生き返るなど、世の理に反しておる。よいか、チャク。人間は、理を外れては、生きておるとは言わんのじゃ」
再会した老人を想起して、ぐっ、と、コートの端を掴んだ。
たしかに、あれは老人だった。長年連れ添った、恩のある、大好きな、『パパ』だった。姿も、記憶も、心も、本物だ。だが、そこに足りていない要素が、たしかにあるのだ。
「死んだ人間は、たとえ生き返ろうとも、もはや人間ではない。仮にその生命が続こうとも、人間としてはおられん。……妾は、人間がいい」
地獄のような絶望も、楽園のような喜びも、見てきた。そのどれもが人間によるもので、だから、人を愛そうとも、憎しみだって消えやしない。
それでも、女は人間が好きだった。愚かさを持つからこそ、幸せに向かって懸命に生きる人間の姿に、見惚れた。
『異本』を奪い、奪われた者の苦しみを目下に、歯を食いしばって生きた。目的があった。だから、他人の不幸など、足蹴にしてでも乗り越えるしかなかった。
やがて、その過ちに気付き、自らが傷付けた者たちを見舞う旅に、女の目的は変わっていった。そこで見たものは、怒りや苦しみを抱えようとも、話せば、最後には許しを与えてくれる、彼らの寛大さだった。
女は、目的のために動いた。だから後悔はない。謝ることもない。それでも、その境遇を話せば、みなが同情してくれた。
人は話せば、解り合える。
そして解れば、関係が決まる。
「人間じゃない汝とは、ともに歩めん」
こうして女は、刀を構えた。
こうして女は、心を決めた。
すでに死んだはずの彼を、もう一度、ちゃんと殺すと。
*
全年齢対象作品にあるまじきことだが、好青年は、興奮していた。大きくなっていた。
人間というのは、動物だなあ。そう、思う。一度死んでも、動物だ。人間だ。
だから、女の宣言を聞いて――こっぴどく振られ、改めて彼女を、好きになった。それが、現代の文明人よりよほど動物的な、その身に顕れたのである。
顕著に、体が反応したのだ。
「残念だよ、ホムラ。……本当に、残念だ」
言葉とは裏腹に、口元が緩んだ。口角が引き攣る。だが、怒りではない。喜びに打ち震える、歓喜の笑みだった。
「キミの言うことを、ひとつだけ訂正させてくれ。ボクは人間だ。こんなふうになってもね」
諸手を広げて、己が身を見せびらかす。見事に完成された、人体の極致のような、筋骨隆々の、身体を。
「そして人間は、獣だよ」
動物的本能を、理性で縛り付けただけ。それは決して失われておらず、タガが外れれば、それは容易に暴れだす。そうなればもう、理性などでは止めようがない。まさに、獣だ。
「いまだって、キミを前に、ボクの獣は……いや失礼。猛獣としての闘争心という意味だ、誤解ないようにね。あははははは」
渇いた笑いを、取ってつけたように上げる。そこにはもう、人間らしい感情はない。
愛する者を前にして、闘争心を剝き出しに、大きく、大きく膨張させて、いる。
だから――本当に心の底から愛したゆえの、結論を、出す。
決断を下す。獣のまま。
「キミはもう、獣を前にした得物だ。……怯えて逃げろ」
まだ局部を労わるかのように――と、感じたのは、一瞬。それは、すでに四足獣。逃げ惑う獣を狩り喰らう、猛獣の構えだった。
俯けた姿勢から、顔だけ上げる。現代風には、相撲の立ち合いだ。それはかつて、試練のときにも見た構え。
文明の中ではなく、自然の中に生きた、獣の、構えだった。
「愛するキミを殺し、その身を喰らう。血を啜り。骨までしゃぶる。……知らないだろうけれど、意外と人間って、うまいんだよ」
言うと、好青年は――いや、飢えた獣は、その牙を剥き出し、飛びかかった。
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