2020年、九月。日本、奈良県。
目的の箸墓古墳からほど近い料亭にて、稲雷塵、アルゴ・バルトロメイ、稲荷日春火の三人は、奈良名物の数々に舌鼓を打っていた。
柿の葉寿司、飛鳥鍋、茶粥、奈良漬け。そしてメインは、大和牛のステーキだ。せっかくの旅行ということで、奈良名物のフルコースである。
「滋味ですね。飛鳥時代から伝わる飛鳥鍋。初めて食しました」
普通の鍋と違い、当時は羊の乳を入れて煮込んだという飛鳥鍋。それをつつきながら、メイドは言った。メイドとして、各国、各地域の郷土料理にも通ずる彼女だったが、どうやら飛鳥鍋は初見であったらしい。
「こちらのお寿司、葉っぱにくるまれて珍しいのだわ! ……くんくん。匂いも移っていて、お上品だし!」
リアクション強めに、女児は言う。まだ幼い女児は、その五感すべてを総動員して、あらゆる経験を重ねていた。
「あらあら、ハルカ様。お寿司はお上品ですが、鼻を鳴らして匂いを嗅ぐのは、お上品とは言えませんよ?」
メイドは言い、女児の口元についた米粒を取った。お上品になりきれていないのは、こういうところにも表れている。
「もう! メイちゃんは細かいのだわ! 他のお客さんの目もないのだし、少しくらい粗相しても大丈夫なの!」
確かに個室だ。他の客の目はない。だが、そういうことではないのだと、それに気付かないうちはまだまだお子様だ。
しかし、それでも、それこそ。女児のそのわんぱくさは、彼女の長所だろう。
「…………」
そしてそんな二人を、冷めた目で見る若者が一人。彼は静かに、茶粥をちまちま、舐めていた。
ああ、いったい、なにをやっているんだ、ぼくは。
そういう心境で。
*
若者は思う。
仕方がなく奈良くんだりまで出向いてきたが、もはや帰りたい。いや、最初から来たくもなかった。しかし、あの場では、女の言葉を飲むしかなかった。まあ、なんだ、……とある事情により。
全員で新潟の屋敷を離れ、出立した。さすがにそこで踵を返し屋敷に戻るわけにもいかない。そして、新幹線のチケットなど、やけに手配の良いメイドに連れられ、なんとなく流されてきたが、いい加減限界だ。帰りたい。
そもそもぼくは忙しいんだ。やることが――書かなければならない書簡が溜まっている。出立前に重要なものは秘密裏に送ったが、それでもまだまだ、手回しすべき事項があるのだ。
すべてを失っても、ぼくだけが幸せになるために。
それが、あいつとの約束だ。
*
料理を一通り食べ終え、お食後として葛きりが提供された。それも奈良名産、吉野本葛から作った葛きりだ。黒蜜に浸けていただく。若者には内臓への負担を考え、代わりの葛湯を注文した。
「……明日は、どうされますか? ジン様」
明日、とは、目的の日、九月二十二日だ。その午前七時に、目的地、箸墓古墳にて『鍵本』を発動し、『試練』へ向かう。そしてそのまま、地下世界へ。
「帰る」
だが、若者は端的にそう答えた。若者にもわずかながら家族を思う気持ちはある。女児が同じパーティーに組み込まれていた。ならば、彼女のために少しばかりの観光くらい付き合おう。それくらいの気持ちは。
「ジン様」
もはや若者のそんな言動に、本気で顔をしかめたりはしない。しかし、十二分な威圧感をもって、メイドはドスのきいた声を放った。
「冗談だよ。いちいち目くじらを立てるな」
ふう。と、若者はため息をつく。このメイドがいるから、そう簡単に帰れもしない。
だから嫌だったんだ。若者は思い返す。パーティー編成の段階で、メイドが自分についてくることは予想できた。だが、あの段階で、それを否定する理由が思い付かなかった。……自分がおちおち遠出できないことは本当のことだし。誰かの助けが必要なことも。
若者は自分の体質について嫌悪したことはなかった。だが、こうやって損をするたび、やり場のない感情にため息が出る。
「では、朝の五時には準備をして出発ということで。……よろしいですね、ジン様」
メイドが鋭い目つきで、睨みながら言った。
「……ああ、それでいい」
さて、どうやって逃げ出そうか。若者はそんなことばかり考え続けた。
*
夜。箸墓古墳周辺の旅館にて宿泊。当然と、男女で部屋は分かれている。若者が一人部屋。メイドと女児が二人部屋だ。
「だのに、どうしてこうなっている……?」
狭い部屋で走り回る女児。若者のそばで奈良産の柿を剥くメイド。
「よいではありませんか。ハルカ様も、あんなに楽しそうにしていらっしゃることですし」
珍しく勤務時間中に浴衣姿に着替えたメイドが言った。旅館の温泉から出た後だから、宿泊施設に合わせて、無難な格好に着替えたのだろう。髪も解き、腰近くまで流れている。心なしか、表情も柔らかい。
「やれやれ。子どもにとっては、どんな場所でも遊園地だね。屋敷からほとんど出たことのない生活だったのだから、仕方ないとも言えるけれど」
「その通りなのだわ、『お父様』! ハルカはここ最近、毎日がとっても楽しいの!」
勝手に騒いでいた女児だったが、どうやら若者の小さい声が聞こえていたらしい。抗議、とは違うのだろうが、楽しそうな声で、女児は主張した。おそらくメイドに着付けてもらったであろう浴衣は、無残にもはだけている。
「まったくもって悪影響だ。友人は選ぶものだね」
そんな騒がしい女児を見て、さらに小さな声で若者は言った。もうふた月近くも前になる。あのときやってきた、少女の騒がしさと重なり、ため息を吐いた。
「確かに、ハルカ様の奔放さは、どことなくノラ様に似ておられます。……うふふ。悪影響、ですか。それはまた、ジン様にとっては、そうなのでしょうね」
もはや女児には拾えなかった小声も、そばに立つメイドには筒抜けである。そして、意味深に彼女は、意見を口にした。
*
女児はいつの間にか遊び疲れて眠ってしまった。その奔放さはまさしくその年頃の女児らしい。疲労も、汗も、時間も状況も忘れて、ただ目の前のことに熱中する。そして、眠くなったら寝る。その圧倒的に自由で奔放、あるいは欲望に忠実で純粋にまっすぐな生き方は、歳を経るごとに失われるもの。だからこそ輝かしい。それを羨むかは別として。
「世界を生き抜くのに不安のない顔だ。怖ろしいね。……怖ろしいことを知らない、というのは」
若者は言いながら、女児に布団をかぶせた。面倒臭そうに、なおざりに、頭のてっぺんからつま先まで、すべて覆い隠す。
「あら。ジン様にも怖ろしいものがおありなのですね」
「当たり前だ。ぼくはこの世のすべてが怖ろしい。ちなみにいまは、きみが一番怖い」
皮を剥き、切り分けた柿を食べる者がいなくなり、手持無沙汰に構えるメイドに、若者は言った。相変わらずの過剰なおせっかいだ。というより、もはや殺しにきている。若者が理由あって食事をろくに採らないと知ってもなお、隙があればなんでもかんでも、食べ物を勧めてくるのである。……無理矢理に食べさせることだけはやめてくれたが。
「この歳で、恐怖など知らなくてよいのです。そして、それを知らせないように育てることが、普通の親の仕事でございます。……かくいうジン様も、その例に漏れなかったようですが」
メイドは言って、訳知り顔で若者を見た。流し目で、柿を一つ、小さく齧りながら。
「ぼくはなにもしていない。ただハルカたちが、勝手気ままに、自由に育っただけだ。……そもそもぼくは、自分を彼女らの親だと思ったことなどない。ただ――」
「対等、……ですか?」
ゆったりと話す若者の言葉を先取りして、メイドは口を挟んだ。
「……そうだね。対等だ。……あの屋敷はもとより誰のものでもない。行き場をなくした者たちが、好きに集い、好きに生活しているだけの場所」
若者は遠い目をして、呟く。自身が過ごした幼少期から、今日に至るまでの、あの場所の記憶を想起しているのか。
「否定しないのは、一番残酷な嘘ですよ。ジン様」
メイドは言う。表情を消して。まっすぐ、若者を見つめて。すっと、立ち上がって。
*
一歩一歩、にじり寄る。いや、そんなたいそうな距離はない。わずか数歩だ。
敷かれた布団の上、あぐらをかいて座り込む若者の眼前まで、メイドは近付いた。
「責任を取る気もなく、子どもたちに『父親』であるということを誤認させ続けています。成人した者たちであれば、それもよいでしょう。しかし、世界が怖ろしいものであることを知らぬ子どもたちを、その現実を知る大人が騙し続けることは、悪意以外の何物でもありません」
膝をつき、両手もついて、這うように、メイドは若者に顔を近付ける。解けた髪が揺れ、ふわりとした香りが強くなる。這い寄るときに、わずかに浴衣が擦れ、胸元がわずかにはだけていた。
だが、そんなことなど、若者の心を乱すには無意味だった。這い寄り、触れる寸前まで近付かれても、若者は、体を引きもせず、メイドの視線をまっすぐと受け止めている。
「ぼくの知ったことではないね。よもやきみは、ぼくが、いいやつだと思っているわけでもないだろう」
「思っておりました。そして、その誤解は、これからも覆ることはないでしょう」
メイドは若者の耳元へ顔を寄せ、声を静める。
「あの手紙の送り先について、みなさまとご相談させていただくのは、ジン様、あなた様が私の期待を裏切ったときだけですから、ご安心ください」
メイドはニコリと黒い笑みを浮かべ、そう言った。
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