学者は、盲目に己が才能を信じていた。
イタリアはエミリア=ロマーニャ州の外れ、ピアチェンツァ県に生まれ、国内屈指の有名大学、ボローニャ大学を首席で卒業した。だが、世間一般に認知される企業などへの就職は、どうにも魅力を感じなかったゆえに、特定の会社へ務めるということをしなかった。
しかし、彼は大学卒業直前に、運命的な出会いをすることとなる。それが、かの大学にて長年、臨時講師を務めていた、ある者との邂逅だ。その者との出会いが、彼を『異本』の世界へ引き込んだ。
確かに、彼には才能があった。『異本』をよく扱えるという才能、『親和性』。それは、物心ついたときから己が才能を信じて疑わず、あらゆる学術書を読み漁っていた――つまりは、多く書籍に触れてきた彼に、当然と備わる才能でしかなかった。
「どいつもこいつも、この天才、メイリオ・フレースベルグを馬鹿にしやがって」
ぶつぶつと呟きながら、学者はそのへんを、行ったり来たりした。
場所は、フランス、パリ。WBO最重要施設、『世界樹』のエントランスホール。その、中心である。
「あの、『パーシヴァル』、さん?」
(はい?)
淑女の問いかけに、学者は立ち止まり、にこやかな笑顔を向けた。しかし、彼は気付いていないのだろう。その笑みは、見るからに怒気を含んで、隠しきれていなかった。
己が才能を過信しているがゆえに、学者には、相手を卑下する癖がついていた。もちろん、彼自身はその事実について、まったくの無自覚ではあるが。
「この縄、解いて欲しいなぁ、なんて……」
淑女は、己が背を視線で示した。後ろ手に縛られ、自由が利かない自らの両腕の方を。
(ああ……)
学者は内心でだけ、そう一拍を置いた。
そして――。
「てめえらメスは、優秀な男の言うことを、黙って聞いてりゃいいんだよ」
そう、言った。
(大丈夫ですよ。すぐに解いてあげますから)
そんな心の声は、もちろん誰にも、聞こえない。
*
「無駄だよ、るーしゃん。あれ完全に、目がイってる」
淑女と背を合わせた司書長が、小声でそう言った。
「あんまり刺激しないで、助けを待とう。外に出てる司書さんたちも、そう遠くなく、帰ってくる」
もとより、建物の大きさに比して、あまりに少人数で切り盛りしていた施設だ。偶然、司書長と淑女以外の司書たちが出払ったタイミングを狙われた。いや、彼にそのつもりがあったかは解らない。が、ともあれ、現実としてはそうなっている。
エントランスホールで、両手両足を縛られたまま、転がされている。司書長と、淑女が。そして、その周りを、学者はぶつくさ言いながら歩き回っているのだ。
反撃は、できない。淑女の友人であるジャガー、テスは、彼女の『異本』、『箱庭動物園』に入ったまま、学者に取り上げられてしまった。司書長の持つ物も同様だ。『異本』がなければ、彼女たちはただの、か弱い女性でしかない。
そのうえ――。
「『マート・バートラル』に、『kq』まで使われたら、今度こそどうしようもない。むしろいま、一度でもその力を解除してくれたのは、千載一遇のチャンス」
学者の手元を注視しながら、司書長は言った。学者が、『世界樹』の最奥から盗み出した『異本』。『啓筆』、序列十二位、『マート・バートラル』。そして十三位、『kq』。その二冊を握る、手を。
「だからこそ、唯々諾々、従っていこう。従順に出てる限り、またあの『異本』を使うことは、きっとないから」
その『異本』のせいで、彼女らは縛られているのだ。記憶と感情。人間を相手取るにはあまりにも強力すぎる、そのふたつを司る、『異本』のせいで。
「縛られている……そうか、そうだ!」
おそらくさきほどの淑女の言によって、学者は現状を再認識したのだろう。そのように、なにかを納得する。
「この状況! いま僕は、このふたりを……好きにできる! そうだ! ふはは……! いやいや、落ち着け、メイリオ・フレースベルグ!」
学者は気障に、片腕を持ち上げ、その手先に恍惚とするような視線を向けた。そうして、高笑いである。その、ひとりごとのような言を、淑女たちは完全には聞き取れていない。しかし、悪い方向へ話が進んでいることは、理解できた。
「好きにできる。それだけなら、『異本』を使えば簡単だ。感情の『異本』、『kq』。これを用いれば、この僕に恋させ、従順に、奴隷のように扱うことすら可能。しかも記憶すら『マート・バートラル』で改変させ、過去のしがらみからすら解き放ち、万が一の感情変化さえ抑止できる」
ふはは……ふはははは。己が手に入れた『異本』について、彼は解説じみたことを口遊み、高笑いした。
「この『異本』が、僕の扱うべきもの! リュウさんもいつも言っているじゃないか! 『異本』は、扱うべき者の手に、あるべきだ!」
そしてそれは、世のため人のために、扱われなければならない。
「よし! 僕はこの『異本』を用いて、世界中の女子たちに――」
自主規制。彼は多分このあと、全年齢対象作品にあるまじきことを言った。それだけである。
「――差し当たっては、まずはこの子たちだ。僕はこの子たちを、幸せにする」
そう言うと、ようやく学者は、女子たちに向き直った。
「はあ……」
司書長が嘆息する。
ほんといやになるね。シンねえさん。
*
不思議な因果。と、言うべきか。司書長、ゾーイ・クレマンティーヌは、学者と同じ、ボローニャ大学の出身である。しかも、学者とは違い、飛び級での進学だ。学者はなにも知らないが、彼は、自分よりよほど才能あふれる先輩を、どうにかしようとしているのである。
ともあれ、そういう学歴も含めて、司書長も、自意識の強い人間ではあった。誰になにを言われても歯牙にもかけない。あるいは、この仕事の責任はすべて、上司である自分の責任だ、そう言えるような、懐の深さも持っている。
それでも、心に降り積もるストレスは、ないわけでもない。
表面を取り繕う『虚飾』にも、限界があるのだ。
私は、あなたのようになりたかった。そう、司書長は回顧する。三十数年前。ボローニャ大学で出会った仲間たち。いまでもこうして、つるんでいる、生涯の、仲間。
『家族』とも呼べる、人生の友。
さて、WBOは最終局面を迎えた。自分のもとへも、その解散が通達されている。
しかし。と、司書長は思う。
友情は、一生ものだ。と、そのように。
あのときの六人のうち、生き残ったのはふたりだけだ。残り四人は死んだ。そのうちふたりは、生き返ったとはいえ。
世界に、自分と釣り合う天才が、こんなにいるとは思わなかった。いや、正確には、才能とは、これだけ多岐に存在するのだと、知らなかったのだ。知識、知恵。それだけがすべてだった司書長には、知れるはずのなかった才人たち。それに触れて、世界が広がった。
あの感覚の、なんと心地よく、清々しいものか。
そんな感覚をくれた、世界を広げてくれた、大切な仲間の、その、最後の目的。
それに付き合わないで、いられるわけもない。
――では、『虚飾』を取り払って、笑おう。いつかの、自分のように。
馬鹿みたいに、幼く。
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