「こうして、世界の因果は立て直された。あいつの犠牲によってな……」
その日のように、空に浮かぶ満月を見上げ、壮年は言った。その背に、哀愁を漂わせて。
「はあ……」
男は、ため息に近い感嘆を漏らした。
「……長話だったか?」
「いや、まあ、そりゃそうなんだが……」
ちらりと振り向く壮年に、男は、奥歯にものが挟まったような物言いをする。ボルサリーノを一度脱いで、小さく頭を掻いた。
「なんつうか……いろいろ言いたいことはあんだよ。話が壮大過ぎて理解が追い付かねえとか。半分くらいのろけ話じゃねえかとか。それと――」
それと。どうしても引っかかる思いが、男の中にあった。それがいったいなんなのか、彼は即座に想起できない。どこか既視感がある、壮年の物語。
「いや……それと、一個、確認したいんだが」
そんな自分のデジャヴなどは置いておいて、男は、どうしても腑に落ちない一点を、追及する。
「いまの話、一部、あんたが知るはずのない情報も語られてたろ。あんたの嫁の、内心の話とか。なにより、あんたが最後に気を失った――魂が抜けたのか? そのあとの、シンファの行動。一番重要なその時点で、あんたはもう、意識を保ってないはずだろう?」
男は、一体全体、結局、なにがどうなって世界は危機に陥り、それが救われたのかを理解していない。とにかくなんだか人類の危機があり、とにかくどうやってか若女が世界を救ったのだ。それくらいの理解である。
というか、理解が曖昧すぎて、ただの作り話にさえ思える。いや、現状では完全に、現実味はまったくない。
「あいつの、その時々の感情は、一部、日記に残っていた。そして、最後にあいつが、世界を救った場面については――」
躊躇うように壮年は、やはり空を見上げる。緊張をほぐすように肩を落として、わずかの時間を溜めた。
「現実的に言うなら、結果論だ。あの災厄を乗り越えるには、その手法しかなかった。のちに、あいつが描いた『異本』。『啓筆』序列一位のそれを見つけ、その力を理解したときに、すべてが繋がったのだ」
だが――。と、壮年は続ける。
「真実としては、私はあのとき、その場面を、直に見ていたのだ。神とでも呼ばれる者のそばで、そいつとともにな」
極めて真剣な声音で、壮年はそう、言い切った。冗談を言っている様子など、微塵もなく。
「はあ……」
だから男は、もう一度、疑問のような、嘆息のような、相槌を打った。
*
日はとっぷりと暮れ、街は光を、自然物から人工物へと乗り換える。どうあがいても、かりそめでしかない。人は夜を克服してはおらず、そのくせ世界を、我が物顔で闊歩する。
まるで自分たちを、この世界の支配者だとでも、言わんばかりに。
だからだろうか。気温が下がってきたというのに、男は少し、汗ばんできていた。やはりボルサリーノを脱いで、さきほどより少しだけ強く、また頭を掻いた。
「あのな、リュウさんよ」
ほぼ、初対面だ。そういう要因もある。それでなくとも年長者だ。いくら男とはいえ、少しの気くらい遣う。
「あんたの話は、なんつうか、空想混じってねえ?」
気は遣った。だが、はっきりと、男は言った。その言葉に、また少しだけ、壮年は首でだけ、振り向いた。片目だけが、月の光を反射して、わずかに銀かかって光る。
「いや、べつに疑ってるわけじゃねえよ。だが、脚色……そう、脚色だ。空想っつうのは言い方が悪かったが、脚色されてんじゃねえかと。たぶん無意識的にな」
フォローを入れながら、男は早口で、そう、まくし立てた。やはり、気を遣っている。特段に壮年を恐れているわけじゃない。だが、初対面だし、年長者だし、たぶん、社会的地位も、彼が上だ。その彼の核心を突くのだから、いたたまれないのである。
「ふ……」
そんな男を見たからか、あるいは自嘲であるのか、壮年は小さく、鼻で笑った。
「おまえの言う通りだ。こんなものは、私が見た、ただの空想であり、たしかに多くの脚色を含んだ、物語でしかない」
そう言うと、壮年は再度、「ふふふ……」と、鼻を鳴らした。こちらはたしかに、ただの自嘲であったのだろう。
「だが……おまえは優しいやつだな。空想か現実かなど、どちらでもいいのだ。おまえの目的は――すべきことは、決断することであり、私がすべきことは……そうだな――」
一度、振り返る。男と面と向かって、視線を交差させる。
男から見て、壮年の姿は、逆光に沈んでいた。間接照明しかない暗い部屋。一番の光源は、夜空に爛々と輝く月。その満月を背にすれば当然のことで、壮年の様相は、男にはうまく読み取れない。
「ただ、私の意思を――『正義』を、語ること」
だから、その言葉の真意も、曖昧だ。ただ真剣に言っているのか。あるいは、怒りすら孕んで吐き捨てたのか。ともすれば、うす笑いで男をおちょくっていたのかもしれない。
その真実を隠したまま、壮年はまた、満月へ向き直ってしまった。壁一面のガラス窓から、食い入るように、空を見る。
「私にとっては、あいつ――シンファ以外のすべてが、取るに足らない、どうでもいい事柄だ。世界が滅ぼうと、人類が神になろうと。ましてや『異本』の良し悪しを問う気もない」
後ろ手に組んだ彼の片腕が、こぶしを握り締める。歯を、食いしばるように。
「あいつが、『異本』とは共生できる、と、言った。だから私は、おまえとは相容れない。すべての『異本』を封じるなど、間違っている。だが、そんなことだって、どうでもよいのだ」
諦めたように、肩の力を抜いた。したがって、握りこぶしも、ほどける。
「あいつがなにを思っていたかすら、どうでもいいのだ。いまとなってはな。私は私を憐れんでいるだけで、あいつのことなんてこれっぽっちも考えていない。生きているなら、気を引くために気を遣いはするだろう。同調して、気に入られようと、甘い嘘もつくだろう。だがもう、あいつはいない」
それは、感情的であるのに、やけに虚無的な声だった。最新のロボットが話す、人間を模した言葉のよう。感情があるように振る舞っているだけの、空っぽで、無機質な、声だ。
「あいつが、どれほどの苦悩を抱えていたか、まったく解らんのだ。その絶望の中、世界に、人類に、家族に――あるいは息子に、どんな希望を見出していたかも、な」
男と同様、暑かったのかもしれない。あるいは息苦しかったのか。
だから、壮年は少し、よろめくようにしてガラス張りの壁に手をついた。すると、狙いすましていたのだろう、なんらかのスイッチを入れたらしく、そのガラス壁の一部が開き、外の空気が取り込まれた。
「私は、落ちこぼれだ。誰よりも劣った、人類としてすら不完全な、欠陥品だ。世界で一番大切な、愛する者の気持ちすら、理解できない」
――いいや、違う! 男は思った。壮年の言葉にではない。自身の理解についてだ。
壮年の前に広がる、ガラス張りの壁。それがせり上がっている。一部じゃない、すべてだ。壁一面が、舞台の幕を開くように、上へ上へ、上がっていく。
「そんな私は、あいつの言葉に操られる糸人形でしかなかった。自らの意思などなく、ただ、神のごとく崇める者に、迎合するだけ。あの、彼女の中に取り憑いた存在ですら、最後は自我を持ったというのに。私はいまだに、彼女の残響を追っている」
そんな言葉など、聞いていない。いや、物理的に、よく聞こえない。
徐々にせり上がる壁の外から、気圧の違いか、強風が部屋に、舞い込んでいる。男はボルサリーノが飛ばされないように押さえて、なんとかそれに耐えていた。
「最期に、心無い信念とともに、言うだけ言っておこう」
その言葉の、最初の単語は、男には聞き取れなかった。それでも、この状況がどういう未来を描くかは、理解できている。
「我々人類は、『異本』と共生できる! 『異本』は決して悪いものじゃない! 正しい人間が正しく使えば、世界をもっと、素敵に変えられるはずだ!!」
かき消されないほどの大声で、壮年は語った。男に背を向けたまま、強風に立ち向かいながらもぐっと耐えて叫ぶ姿は、男へというより、世界に向けて演説する、頭のネジが飛んだ、愚者のようだった。
「おい……解ったから、少し、待て――!!」
向かい風に逆らい、男は、歩を進める。耳をつんざく風切り。いくらか部屋にあった資料が舞い、視界を奪う。そんな、まどろみにすら似た極限状態の中――。
――男は、やっと真実に、行きついた。
「あとは、おまえが決断しろ」
そうして、最後に振り向いた彼の顔。
その、生まれたときから知っているかのような、表情に――。
「じゃあな」
日本語で言われた、その発音に、耳が反応する。
「待てよ――この――」
クソ野郎が――!!
その、最後の一声が叫ばれる前に、壮年はもう……落ちこぼれていた。
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