少年には、いまだ夢がなかった。将来の展望。未来の願望。はたしてどう生き、どう成長するのか。
それも仕方のないことだ。1998年。この時点で、彼はまだ、十四歳。そのうえ、彼は自身の生い立ちを恨み、過去を捨てた身でもある。生まれ故郷から逃げ出した。そんな奇異な人生を歩む彼にとっては、まだまだ、いまを生きるので精いっぱい。過去を懐古するにも、未来を夢想するにも、余裕も、成熟も足りていないのである。
それは、『アボリジニの神話』にも似ていた。過去も、未来もない。そんな区別はない。過去は現在であり、現在は未来だ。
あるいは、世界に存在するすべての生物、自然、あらゆるエネルギーや精神は、ひとつなぎの一個体である。
『全存在体』――。
そんなアボリジニの世界観は、まさしく当時の少年に見られる思想でもあった。自己顕示でも自己犠牲でもない。ただ『異本』を蒐集する。誰がどうなることをもいとわない。彼は無自覚だったけれども、それは仲間や家族よりも――彼らの心情よりも、ただ目的を優先するという、あまりに危険な、『狂信』だ。
そこにはすでに、少年の意思などない。ただ機械的に、すべきことを取捨選択する。
だから、間違いが起こるのである。
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子女が『異本』集めなどというものに手を貸していたのは、すべてが他者のためだった。
若男をひとりにしてはいけない。若女の残したなにかを、そのまま失わせてはいけない。そういう、徹頭徹尾、誰かのための行動。
このころになって、彼女は、少しだけ意識的になっていた。子女は、誰よりも信心深い、あの母のもとに生まれた存在だ。自分は聖女だ。誰かを救う、存在なのだと。
それはそれで、ひとつの『狂信』だ。だが、彼女の場合は、少しばかり毛色が違う。
子女の心に宿った『狂信』は、植え付けられた、かりそめの人格。『あなたは聖女よ』と言われ続け、深層心理に深く根付いてしまった、それだけの感情。それはもはや、別個の自分だった。双子の妹のような、どうしたって離れられない、意識せざるを得ない、厄介で、愛おしい、もうひとりの自分。
だからこそ彼女は、それとは違うのだということも、意識的に認知しながら育った。心の奥底にいる、自分。聖女と呼ばれる、完全無欠な、誰かのための自分。そのイメージが完成されていくにつれ、『いやいや、そんなん、うちには無理やし』と、自分自身との乖離に自覚的になってくる。
きっと本来、彼女と彼女は一個体だったのだろう。だが、人間は――人体はどうしたって、完全じゃない。それゆえに成長の過程で、聖女と子女は分かれていく。
そうして出来上がったのが、子女なのだ。完璧な聖女を常にイメージして、しかし、それを体現できない人体にもどかしくて。どうしたってうまくできないのに、それでも、誰かのためになりたい、と――。
こうして、ふたつの心を抱えたまま、重苦しい足取りで、彼女は進んだ。聖女として、若男と若女を、そのふたりの存在を、救わなければ。そして子女として、彼らの友人として、きっといつかその間違いを、正さなければ。
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互いに思うところが違っていても、結果としてはふたりとも、WBOのため――『異本』蒐集のために動いている。少なくとも、この時点では。そしてその行動は、やはり互いに意味合いが違っていても、それぞれの『狂信』に基づいて決定されていた。
『狂信』とは、『盲目』だ。他者であろうと自己であろうと、誰かを狂ったように信奉するのは、視野を狭める。
人間は、見えないものには無防備だ。背後に立つ者。物陰に隠れるもの。死角からの攻撃。あるいは、見ようともしない、危機。
それぞれがそれぞれの『狂信』に従い、少年と子女は、一歩ずつ、底なし沼に近付いていった。彼らは知っていたはずだ。『人間は、いつか必ず死ぬ』という、あまりにあたりまえな、この世界のルールを――。
「なにか、気になるところでもあったのか?」
洞窟の奥深くへと歩を進めるうちに、息苦しさを感じていった。それを振り払うように、少年は問う。
「ん? なんて?」
先を行く子女は、いま初めて、少年が自身の後ろをついてきていることに気付いたかのように、意外そうな声を上げた。
「さっき、なんだかぶつぶつ言ってなかった? あの……『異本』に――『異本』を感じているとき」
実際、子女の身になにが起きたかを、少年は理解しきれていない。それゆえの危機感の薄さでもあったわけだが、ともかく、その現象をどう表現すべきか迷って、わずかに、言い淀んだ。
「ああ、さっきの壁画? ちょっとね」
淡白に、子女は言った。そしてそれきり、その続きを話す気がなさそうな様子だった。言えないこと、というより、わざわざ話すようなことでもない、というような雰囲気である。
「ちょっと、なに?」
だが、どうにも重苦しい空気に会話を続けたくて、少年は、さらに問うた。
「いや……確証はないけど、歴史を変えかねない資料かも、と思ってさ」
「ふうん?」
それならそれで大変なことなのだろうけれど、少年は――あるいは子女自身も、そんなものになどさして興味もない。それゆえに彼女は、『わざわざ話すまでもない』と判断したのだろう。
まあ、それはそれとして、どこか圧迫感のあるこの空気をやわらげられるなら聞く価値もある。そう思い、少年は耳を傾けた。それに、子女がさきほどのおかしな状態であったころに、ちゃんと意識を保っていたかの判断材料にもなる。
「さて問題です。オーストラリア大陸に外界から、初めて誰かがやってきたのは、いつ?」
先導する子女は振り返らず進んでいる。しかし、その出題とともに、わずかに歩みが緩やかになった。
「……1606年? いわゆる大航海時代に、オランダ東インド会社が上陸したのが最初だったかな。植民地支配したのはイギリスだったけど」
「わお、詳しいじゃん。おねーさんびっくりした」
「オーストラリアに来るってんで、少しだけ調べただけだよ」
おどけた様子で、子どもをあやすようにする言い方がわずかに気に障ったけれど、少年にとっては慣れたものだ。目くじらを立てるほどでもない。
「ま、ある意味それで正しいのかもしれないけど。実際は約五万年前にはすでに、近隣の島から外来人が来てる。当時は海水面が100メートルは低くて、オーストラリア大陸はニューギニア島やタスマニア島も含んで、もっと大きな大陸だった。あるいはジャワ島やスマトラ島、ボルネオ島はアジア側とくっついて地続きで、アジアとオーストラリアは、いまよりよほど近かったみたいだから、船で渡るのも容易だったんだって」
「へえ」
引っかけ問題のような答えだったが、少年は素直に子女の話に傾聴した。
「で、そのころに、アジア側からオーストラリアに渡航したうちの一部が、現代のアボリジニ――オーストラリア先住民になったと言われているんだけど、さっきの壁画が、それよりよっぽど、古そうでさ」
「なるほど。そういうことか」
「っていうか、そもそも五万年以上前のアボリジニの壁画って時点で、過去最古の大発見だと思うけど。んでも、べつにソナエも興味ないっしょ? うちもそうやし。ってか素人のうちが適当に見てただけだから、本当に五万年以上前の壁画かどうかなんて、判別できねえし」
「そうだな。べつに、興味はないな」
少年は答える。だが、彼がここで気にしたのは、アボリジニだとか壁画とか、そんなこととは関係のないところにあった。
「というか、博識だな、リオは」
少年は素直に、素直な感想を述べた。
「はあ、馬鹿にすんなし」
それに対し子女は、冗談に似た不機嫌さで、口を尖らせる。
馬鹿にしたつもりはない。むしろ褒めたつもりだ。そう少年は思う。だがまあ、自分のような若輩に上から目線で褒められること自体が、そのもの馬鹿にした態度だというなら、その通りだな、とも思い直した。
これでも大学出てんだぞ。と言う子女が、しかし幼く見える。見た目はそこまででもないのに、どうにも彼女は、どこかまだ幼さを残していて、それが少年には、ほほえましく感じられた。であれば、なおのこと。やっぱりちょっと、彼女のことを小馬鹿にしてはいたのだろう。そのように、少年は小さく、苦笑する。
「あの壁画も――」
「うん?」
ふと立ち止まって、子女は、にわかに振り返った。少年へ、ではなく、どこか遠い目で。
「うちの博識も、要らねえところで要らねえやつに発見されて、さぞかし残念無念」
まった来週~。と、陽気な言葉を無感情に言って、なにごともなかったようにまた、子女は歩き始めた。
……なんだったんだろう。と、少年は思うけれど、なんでもなかったんだろう、と、すぐに思い直した。
子女が変なことを言うのは、どうせ、いつものことだ。
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