箱庭物語

776冊の『異本』を集める旅路
晴羽照尊
晴羽照尊

いつかの答え

公開日時: 2023年7月7日(金) 18:00
文字数:4,035


「おまえは、本当に、馬鹿だ」


 面と向かって、壮年は改めてそう、言った。一言一言を、噛み締めるように。


「繰り返すんじゃねえよ。気分悪いぜ」


 男はそう、返す。不思議な感覚だった。こそばゆいようで、心地よいような。相手が血の繋がった父親だと認識したから、なのかもしれないが。


「……すまない」


 小さく言うと、壮年は空を見上げてしまった。もはや癖なのかもしれない、彼にとって、空を――月を見上げるのは。


「…………」


 会話が続かない。考えてみれば当然だ。仮に本当の家族だとしても、これまで交流などなかった。血が繋がっている。ただそれだけだ。そんなもの、まったくもって不必要なのだ。『家族』として、そばにいるには。

 そのことを、男は、痛いほどに理解していた。これまでの、多くの旅路で。


「……あー」


 男は、意を決して、声を上げた。このままでは埒が明かない。


「俺はよ。どちらかというと感謝してるぜ。あんたには」


 そんな言葉では救われないだろう。しかし、それが男の本心だった。

 男の言葉に、壮年は視線を戻した。男を見るその瞳には、やはり、救われた様子はない。


「結果論だがな。ガキのころは、その日食うもんにも困ったし、毎日凍えながら過ごしてた。その日々が、辛くなかったとは言えねえ。でも、結果的に俺は、多くの、大切な『家族』に出会えた。あんたのもとで育ってりゃ、きっと一生、出会えなかった。そう思うと、


 できるだけ軽い口調で、男は語る。相手を慮った。というよりは、自分自身に言い聞かせるように。


「あんたの境遇は解った。俺の……母親のことも。だったらなおさら、きっと誰も、あんたを責めねえ」


「いや――」


 気を遣う男の言葉に、壮年は声を上げかける。


「みんな責めてましたよ。ヨウ――あなたの、お父さんのこと」


 壮年の背後から、小さくて、豊満な姿が顔を出し、そう言った。


「ちゃんと叱ってあげてよ、この馬鹿。じゃないと、きっと、自分を許せないんだと思う。……許されることじゃ、ないんですけどね」


 自分自身すら加害者であるように、司書長は目を伏せて、声のトーンを落とした。首を垂れるように、俯いた。


「…………?」


 彼女の言葉に、男は首を捻る。彼は困惑していた。まあ、叱ってくれと言われてもなかなか、心がついていかないのだろう。本心でもないのに叱れと言うのも、酷なものだ。


「……ああ、あんたあれだな。こいつの後輩」


 を指差し、男は言った。どうやら彼が困惑していたのは、そっちのことだったらしい。

 ゆえに、次は彼女が困惑する番である。


「間違ってはないですけど、それ重要ですか? それに、あなたとはフランスで一度、この間、会ってますし。はあ……」


 シリアスな雰囲気がぶっ壊れて、司書長は大仰に、嘆息した。

 それから、少しだけ、笑う。救われたかのように。


「完全に、あなたの息子だよ、ヨウ。そして……シンねえさんの――」


 邪魔しちゃいました。そう言って、司書長は少し、彼らから距離を取った。いまさらながら、久しぶりの親子の再会に水を差したと、内省したのだろう。

 それを見送って、そうしたら、少しだけ視界が広がった。よく考えれば、いまの自分たちは大変な状況である。そう、男は思った。


 壮年の飛び降りに、男の飛び降り。それを助けるために、多くの者が手を貸し、心を折り、集った。彼ら彼女らの視線が、いま、男と壮年に向けられている。そのことに、いたたまれなさを感じた。


「おまえは、本当に、馬鹿だ」


 直前の会話の、どこに対しての感想か解らないが、壮年は三度、その言葉を繰り返した。

 それに、男も返答しようとする。だが、今回は、壮年の次の言葉の方が、早かった。


「そして私も、本当に、馬鹿だ」


 一歩だけ近付いて、壮年は直視する。

 もはや面影などまったくない、自分の息子を。いいや――。


 彼女の、子を――。


        *


「私は、自分のことしか考えられない、ただの落ちこぼれだ」


 それは、壮年がずっと思っていたこと。しかし、彼はここで、そのことをようやく、本当の意味で自覚した。言葉に出して、懺悔して、ようやく。


「おまえがであって、心から安堵している。ああ、あの日の私の行動は、やはり、間違いではなかった。と」


 面影などない。だが、たしかに司書長の言う通りなのだ。

 完全に、自分の子。完全に、彼女の――シンファの、子だと。


「おまえとともにいては、どうせどちらも不幸になっていた。……これも、結果論だがな。だから、救われたよ。おまえが、幸せになっていて。口先だけでも、思い込みでしかなくとも、そのように言ってくれて。シンファの半分を受け継いだおまえが、幸福でよかった」


「おかげさまでな。……あんたも、幸せそうでなによりだぜ」


 男の言葉に、壮年はふっと、肩を落とした。


「いいや、私は不幸だ。だが、それでいい。あらゆる間違いを――罪を犯した私が、幸福になっていいわけがないからな。……それにどうせ、シンファのいない世界に、私の幸福などない」


「それは――」


 違う。という言葉を、男は吐けなかった。わずかなら、その気持ちも理解できたからだ。


 もし――。少女が、いなくなったら。そんな世界に、自分は耐えられるだろうか? そう、男は自問する。


 恋とは違う。だが、間違いなく、愛だ。

 男は、少女を愛している。娘として。


 その愛は、壮年が、彼の愛する者へ向けるものとは質が違うかもしれないけれど、おそらくどちらも、同じく壮大な感情だ。


 少女が、もしもいなくなったら――。男だって、死を選ぶかもしれない。死ぬべき場所を、探してしまうかもしれない。


 少女だけではない。メイドも、女傑も、幼女も。もう、いなくなったら死を選びたくなるほどに、大切な『家族』たちだ。


 紳士は、丁年は、どうだろう? 同性ということもあり、親近感を覚えるし、それなりの付き合いもある。彼らがいなくなるのも、相当に辛い思いを抱くだろう。


 他の『家族』たち――佳人や麗人や淑女や、男の子に女の子、あるいは、女か。彼と彼女らは、そのほとんどは、どちらかというと少女の『家族』だ。男からしては、親戚の子たち、みたいな関係性である。それでも、彼らがいなくなるのは、でき得る限りに避けたいと思ってしまう。


 思えば、少女たちとは、さして長い付き合いでもない。それでも、男にとってはすでに、大切な大切な、『家族』だ。それは、ともに多くの劇的な物語を、紡いできたからなのだろう。だが、たとえそれが大きな要因であろうと、その大切な気持ちに変わりはない。人を思うのに、時間の長さは関係ない。


 いいや、関係はある。長い時間を過ごすことこそが、相手への思いを募らせるに、もっとも大きな要因だ。ただ、それはひとつの要因でしかない、というだけのこと。


 そのもっとも大きな要因を、壮年は積み重ねてきた。彼は彼女を、きっと誰よりも長く、思ってきた。その大きさを軽んじるつもりはない。


 それでも、男はそれと同じほどに、少女を、『家族』を、愛していると思えた。それだけの自負があった。だからやはり、言葉は紡げない。


 愛する誰かのいない世界に、かけらも価値を見出せない。その気持ちを、きっと男は、理解しているから。


「それでも――」


 だが、言わないわけにもいかないだろう。ただの、自分勝手エゴだとしても。


「おまえは――俺たちは、幸せにしてなきゃいけねえだろ。俺たちは、人を思うことを知ってるんだから。大事なやつがいる幸福を、知ってるんだから。……おまえがいて、幸福を得たやつがいる。おまえを失えば、生きてけねえほど、おまえを思うやつがいる」


 壮年に言い聞かせ、それから男は、少しだけ目を逸らした。壮年の後ろ。彼を思う者たちを、見る。


「暗い顔すんじゃねえよ。どうせ過去は変わんねえ。未来は解らねえ。どうしようもねえことに悩むのは――」


 ふっ、と、男は少し、笑った。


「馬鹿のすることだ」


 滑稽だった。馬鹿と馬鹿の会話に、その言葉を吐くのが。


「俺は馬鹿だ。おまえは馬鹿だ。俺たちは、馬鹿だった。間違いを犯したし、失敗ばかりだった。落ちこぼれだった。だけど絶対に、その人生は間違ってねえ」


 格好をつけるように、男は両腕を広げた。ああ、こんな『いま』も、いつか思い出して後悔するだろう。そんなことはとっくに、解っていた。


 だけど、間違っていないということもまた、確信している。


「これだけの仲間に――『家族』に恵まれたんだ。愛するやつらがいる。こんな馬鹿を、愛してくれるやつがいる。俺たちの馬鹿を、命を懸けて助けてくれたやつがいる」


 まったく、青臭い。自分の言葉に、鳥肌が立つ。しかしそれは、男の、本当の、心の底からの、本心だった。


 ――きみは、こんなことをしていて幸せかい――


 いつか、義兄である稲雷いならいじんが言った言葉を思い出す。人は、幸せになるために生まれてきたのだ。そのようなことを彼は、続けた。

 あれは、いつだったか。老人のもとへ拾われて――いや、勝手に住み着いて、すぐのころ。どこかへ出かけた帰りの、飛行機の中だ。


 そんな幼い記憶を思い出し、男はまた少し、笑った。


 あの日、彼は、最後にこう、言っていた。『きみは向き合わなければならないね』。自分自身に言うように、そう言った。その意味はまだ、解らない。いや、あの義兄の言うことだ、たいした意味などなかったのかもしれない。だが、いまならこじつけでも、そこに意味を見出せる。


 こんないびつな家族関係を、寄せ集めでしかない、ぎくしゃくした共同生活を、どう受け入れるか。

 きみはこんな『家族』を、幸福だと思えるか。という、問い。それは、どちらにしたところで、当時の男には、答えを返せなかった問いだ。だが――。


「俺たちは、幸福だ」


 いまならちゃんと、自信を持って言える。男はそう、天に向けて意識を飛ばした。


 が天国に行けたとも思わねえが、まあ、いないならいないで、転送してもらえるだろう。それくらいなら神様も、やってくれるさ。


 そんな馬鹿馬鹿しい空想を、空へ投げる。いまは亡き義兄に、届くように。




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